話題の映画『ワンダーウーマン』を観て来ました。

 ふたりのスーパーヒーロー、バットマンとスーパーマンの激突を描く『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』に続き、スーパーヒーロー勢揃いのお祭り映画『ジャスティスリーグ』を予告する、DCコミック系宇宙に属する一作です。

 完璧な計画に沿って続けざまに作品を発表、ファンからも批評家からも熱い支持を受けているマーベル系の作品に比べ、『バットマンvsスーパーマン』、『スーサイド・スクワット』などの作品がイマイチの出来で批評家から冷たい目で見られた(らしい)DC系の起死回生の一作になります(あくまで他人の評価の話よ)。

 いやー、これは面白かった! ワンダーウーマンやアクアマンなどさまざまなヒーローたちがバットマンの召集のもとに集い壮絶な戦いを繰りひろげる(であろう)『ジャスティス・リーグ』も必ず見に行こうと心に誓いました。

 まあ、たぶんマーベルお祭り映画の『アベンジャーズ』ほど面白くならないとは思うけれど、この『ワンダーウーマン』でDCEU(DCエクステンデット・ユニバース)の方向性もわかったので、どこまでも付いていくつもりです。

 もちろん、マーベル作品も(とりあえず面白そうなものは)追いかけるつもり。忙しくなりそう……。

 それにしても、広大なアニコミの世界はいったん入り込むと楽しみつくすのも大変です。映画だけで年に何作公開されるのかわからないくらいですが、そのほかにテレビドラマもあり、また当然、原作のコミックもあるわけです。

 ぼくはアメコミについてはまったく無知ですが、こうもアメコミ原作映画が続くとそれなりに購読意欲をそそられるわけで、少なくとも古典的名作とされる『ウォッチメン』、『ダークナイト・リターンズ』、『キングダム・カム』くらいは読んでおきたいと思っています。

 特に『キングダム・カム』は買ったはいいもののまだ読んでいないので、いいかげん積読を崩したいと考えています。そうですね、この記事を書き終わったらすぐ崩すかな。

 さて、『ワンダーウーマン』の話。この映画の主人公はイスラエル出身の女優ガル・ガドットが演じるワンダーウーマンことアマゾンのプリンセス・ダイアナ。

 彼女が女性しかいないセミッシラ島を抜け出して、ちょうど第一次世界大戦真っ最中の世界へ飛び出ていき、さまざまな戦争の悲劇に遭遇しながらも少しずつ成長していく物語です。

 で、これが非常に出来がいい。冒頭のセミッシラ島の神話的光景といい、第一次世界大戦中のヨーロッパの様子といい、素晴らしく凝った美術で見ていて飽きない。

 何より主演のガル・ガドットの美しさ。超絶的な美貌とスタイルの良さで見せること、魅せること。男性も女性もこの映画を見れば半神的ヒーローであるところのワンダーウーマンに魅了されること請け合いです。

 ただ、問題はシナリオで、とてもよくできた話には違いないのですが、それにしても現代ヒーロー論的にとてもむずかしいところに入り込んでしまったな、と思わずにはいられません。

 というのも、セミッシラ島を出たダイアナは、躊躇なく世界大戦に干渉していくのです。もちろん、それは彼女の未熟さのためでもあり、また純粋さの発露であるということは劇中ではっきりと匂わせてあるのですが、それでもどうしても「おいおい、いいのかよ」と思ってしまう。

 超人的な力をもつスーパーヒーローが人間同士の戦いに関与することの違和感。まあ、たしかにそこでへたに主人公に葛藤させてしまうと、途端に「正義とは何か? 悪とは?」みたいな哲学問答が始まって、クリストファー・ノーラン的な暗い世界観に一直線であることはわかるのですが、それにしてもダイアナさん、躊躇なくドイツ人殺しすぎじゃないですか。

 いうまでもなく、単純に「ドイツが悪で、英米が善」といった善悪二元論的な描写になっているわけではありませんが、それにしたってスーパーヒーローともあろう者があたりまえのように戦争に参加している姿は倫理的な違和感を呼び起こさずにはおきません。

 たしかに、一応、その戦いは「戦争を止めるための戦い」であり、ダイアナの行動は一貫して平和を目的としたものではあります。だが、それでも人を殺していることには違いないし、ダイアナの行動にはまるで迷いが見られないのです。

 だから終盤で登場するラスボスが「戦争をやめられない愚かな人間どもめ……」的な演説を始めると、いや、彼女もいっぱい殺しているじゃん、と思ってしまうわけです。

 ここら辺のラスボスとダイアナの議論は古典的な「それでも人間には善いところもあるし、わたしはそれを信じる!」パターンのそれで、正直、あまり説得力がありません。

 『ガッチャマンクラウズ』のカッツェなら嬉々として「暴力ですやん!」といいだしたところでしょう。

 その上、ダイアナはラストではてしない戦争を超える概念として「愛」に目覚めるのですが、そもそも戦争とは愛のために起こるものなのではないでしょうか。

 ひとはだれかを愛すればこそ、その人を殺したり傷つけたりした相手が許せないもので、だからこそ戦火は拡大していくのです。

 あるいは自身、女神的存在であるダイアナはそういう「敵」をも包括的に許すような壮大な「愛」を想定しているのかもしれないけれど、少なくとも作中ではそういった描写は一切ありません。

 ダイアナは最初から最後まで、心理的な葛藤も躊躇もなくアクションを続けていきます。そのスタイリッシュな行動にはカタルシスが伴いますが、同時に違和感を消し去ることもできません。

 ただ、これは『ワンダーウーマン』一作がどうこうというより、ハリウッド映画を初めとする現代的なヒーローストーリー(英雄譚)が抱え込んだジレンマでもあるとは思います。

 人間的な葛藤を描き込めば即座に善悪の軸は定かでなくなり、物語は暗い深遠に落ちていく。そうかといって神話的な二元論の遠近法を採用すれば、キャラクターに共感させることを基本とする現代の脚本技術を活かせない。どっちに転んでも痛しかゆしなわけです。

 いまのところアメコミ映画の一方の極には『アベンジャーズ』があり、他方の極には『ダークナイト』があるといえるでしょう。アメコミ表現のファンタジー路線の最高傑作とリアリズム路線の最高傑作というわけです。

 『ワンダーウーマン』も紛れもなく傑作ではありますが、ちょっと思想的な深みに欠けるところはあるかもしれませんね。まあ、だからこそ楽しく見れる映画にはなっているのだけれど。

 実はこれは主演のガル・ガドットの出自にも関係してくる話題なのです。イスラエル出身の彼女には必然的に政治的バックグラウンドがあるわけで、たとえば、こんな告発記事が存在します。

 今年6月17日、フランスの国際ニュース専門チャンネル『フランス24』は、中東の国々で映画『ワンダーウーマン』がレバノンでの上映禁止になり、アルジェリアやヨルダン、チュニジアでも上映の規模縮小や映画祭参加が見送られるなどの動きがあることを報じた。これらの国々で『ワンダーウーマン』が反発を招いている背景には、主演女優のガル・ガドットが、イスラエル人であり、パレスチナ占領や数々の戦争犯罪をくり返してきたイスラエル軍でブートキャンプ(新兵訓練所)のトレーナーとして2年間従事したことが、その理由に挙げられる。イスラエルの若者達にとって兵役は国民としての義務であり、拒否することは容易なことではないため、このことだけなら仕方ないとも言えるが、問題はそれだけではない。ガドットが中東の人々を怒らせた最大の理由は、2014年の夏、イスラエルがパレスチナ自治区ガザに大規模な軍事侵攻を行った際の、ガドットがフェイスブックに投稿した内容だ。

 ガドットは「女性や子どもの陰に臆病者のように隠れ、恐ろしい行為を行っているハマスから、私達の国を守るために命をかけている全ての少年、少女に、私の愛と祈りを送ります」と書き、#weareright(私達は正しい)、#loveidf(イスラエル軍を愛します)等のハッシュタグをつけていた。この投稿にはイスラエル軍を支持する人々などから、実に20万件もの「いいね!」がクリックされ、約1万9000件のコメントも、その多くがイスラエル軍を支持するものだった。ガドットはイスラエルの戦争を支持するオピニオンリーダーの一人となったのである。現在でもガル・ガドットの画像を検索すると、兵役時代の写真と共に「彼女はテロリストと戦った」等、賞賛するコメントが書き込まれている。


 ともかくも一応は正義の味方であるワンダーウーマンを演じる女優にはこんな「暗黒面」がある、というわけです。この指摘についてどう考えるべきでしょうか。この記事を受けた意見として、こんな記事があります。

 読んでまず疑問に思うのが、この記事では「『ワンダーウーマン』の主演女優であるガル・ガドットは親イスラエルでイスラエルの軍事行動も支持している」ということや「ガル・ガドットが活躍することでソフトパワーとして機能してイスラエルのイメージが良くなる、ということを期待する論調がイスラエルの新聞に書かれている」ということは書かれていても、映画の『ワンダーウーマン』そのものがイスラエルを支持しているとか何らかのイデオロギーを伝えているとかいうことは書かれていない。とすると「暗黒面」とされているものはあくまで主演女優のガル・ガドットのものであって、映画『ワンダーウーマン』自体に暗黒面が存在するかと言わんばかりのタイトルはミスリーディングな気がする。


 ぼくの意見もこの記事のそれに近いですね。何といってもガル・ガドットは『ワンダーウーマン』の主演女優ではあっても脚本家でも監督でもなく、映画の筋をコントロールする立場にいたとは考えづらい。

 さらにいうなら、『ワンダーウーマン』本編のなかにイスラエルを支持したり戦争を美化したりするイデオロギー色はほとんど見当たらないわけで、「イスラエル人でありイスラエル軍の行動を支持しているガル・ガドットが主演だから」というだけの理由でこの映画を非難するのは筋違いであるように思うのです。

 それをいうなら、「あの」百田尚樹が原作の『永遠の0』や『海賊とよばれた男』など論外ということになってしまうではありませんか?

 ある映画の関係者が政治的に批判に値する発言をしていたとしても、「だからそんな関係者がいる映画は良くない」ということにはなりません。映画の価値は映画だけを見て判断するべきであり、映画に直接関係がないイデオロギーで判断してはならないと思うのです。

 もちろん、映画のなかに直接に政治的主張が込められていたり、ガル・ガドットが何か批判に値する発言をしたなら、いくらでも批判をすればいい。しかし、一本の映画としての『ワンダーウーマン』のバリューはそれとは別です。

 結局、ぼくはぼくのいつもの信条に立ち返ることになります。「映画を映画以外のもので判定することなかれ」。主演女優の発言に問題があっても、それはそれ、これはこれ。別の問題として考えるべきでしょう。

 ただ、おそらく、このように書いても納得しない人もいるでしょう。それもたしかにわからなくはない。この映画が成功することによって、ガル・ガドットの発言力は増すでしょうし、それは巡り巡ってイスラエル軍の軍事的蛮行を正当化することに繋がるかもしれない。その可能性はじっさい否定できないのですから。

 しかし、それをいいだすなら、そもそもハリウッド映画そのものが、たとえ政治色の強い映画ではなくても、アメリカという国家のイメージを好転させ、その問題点を覆い隠す効果を持っているかもしれないということも無視できません。

 アメリカの数々の暗殺や陰謀や軍事活動に賛成できないのなら、そもそもハリウッド映画は見てはいけないのでは? いや、それをいうなら中国の映画も、韓国やイラクのも見ちゃダメかも。

 『シン・ゴジラ』は日本の政治を美化しているからダメだし、『風立ちぬ』は戦争を肯定しているように取れるからやはりダメでしょう。というか、そもそも映画という芸術自体、その映画が撮られた国と切り離すことはできないわけで、政治的に慎重な人間は映画なんてもの見ちゃいけないのでは――?

 うん、まあ、まさかそこまでいいだす人はいないとは思いますが、理屈の上ではそういう話になると思うのですね。だから、「映画を映画以外のもので判定してはいけない」とぼくは主張するわけなのですけれど。

 これは、映画と政治が無関係だというわけではありません。当然、関係はあるだろうけれど、スクリーンの外の関係でスクリーンのなかの作品の良し悪しを語ってはいけないということです。

 そんなことが許されるなら、たいていは人格破綻者の天才が作っているハリウッド映画なんて、片端から見ちゃいけないことになるではありませんか……。

 まあ、そうはいっても、世の中には自分は正義と反戦の側に立っていると信じて疑わず、そのスーコーな信念のもとに他人を攻撃して回っている人が大勢いるわけで、「『ワンダーウーマン』は悪い映画だ」という人はいなくはならないでしょう。それもまた自由だとは思います。

 ただ、ぼくはその種の「正義の味方」的行動に疑問を感じるほうなので、やはり『ワンダーウーマン』のラストには微妙に納得いかないものが残ったのでした。いまさら愛とかいわれてもなあ、と。『北斗の拳』じゃあるまいし。

 ほんとうは、大局的な平和のためには、愛とか正義とか優しさとか人命尊重とか、そういう人間的な感情は脇に置いて考えるべきなんじゃないかな、と思わなくもない。

 そういう感情を間違いなく善なるものであるとしてしまうと、冷静で現実的な議論は悪であることになってしまいがちですからね。わかる人にはわかる理屈だと思います。

 まあ、いろいろ書きましたが、『ワンダーウーマン』、いい映画には違いないので、ぜひ見に行ってみてください。さて、あしたは『スパイダーマン ホームカミング』を見に行こうっと。お楽しみは続くぜ。