やせる! (光文社新書)

 あいも変わらずダイエット本が花ざかりだ。次々と新しい本が出ては「斬新なダイエット法」を伝授している。次々に出るということは「決定版」というべき一冊が存在しないということの裏返しでもあるわけだが、ひとの「美しく痩せたい」という欲望がある限り、この種の本はなくならないのだろう。

 ほとんどのダイエット本には「ダイエットをするといかにいいことがあるか」ということが執拗に記されている。曰く、ダイエットすると健康になれる。また曰く、ダイエットすると恋人ができる。

 そのくらいならまだいいのだが、ダイエットすると精神的に自信が持てるとか、自分に肯定的になれるとかいう話になると、一気に怪しげになってくる。ほとんど自己啓発セミナーか新興宗教のノリである。

 ダイエット本にはビジネス書に一脈通じるものがある。わたしの言うことを信じなさい、信じれば幸せになれる術を教えてあげよう、ということを手を変え品を変え記述しているのだ。

 しかし、ひとはほんとうにダイエットすることで幸せになれるのだろうか。いや、じっさいに幸せになっているひともいるのだろうから、それは良い。こう言い換えよう。ひとはほんとうにダイエットしなければ幸せになれないのだろうか。

 ひとには自分自身の人生をより良く管理したいという欲望がある。ビジネス書などを読むと顕著なのだが「時間の無駄をなくしたい」「意味のないくせをやめたい」といった欲望である。以前、この種の欲望を「マネジメントの欲望」と名づけたわけだが、今度はもう少しわかりやすく「自己管理の欲望」と呼ぼう。

 ダイエットの欲望は「自己管理の欲望」の一種である。それはつまり「自分の肉体を思うままに管理したい」という思いだといえる。まず自分の肉体が望んでいるとおりではないという事実があり、それを思うとおりに改造したいと考える、それがダイエットの欲望である。

 この欲望はある意味で前向きなものにも見える。「好きなだけ好きなものを食べて好きなように暮らして、太ったらそれでもいいや」といった「だらしない」生き方に比べて、自分の人生と肉体を徹底的にコントロールしようとする生き方は前向きではないか。

 しかし、そこに落し穴がある。ひとの肉体はどんなに管理しようとしても管理しきれないということである。たとえば、突然ガンになってしまう可能性はどんなひとにも存在するわけだ。

 もちろん、それを防ぐために定期的に診断を受け、可能性を最小にすることはできるであろう。しかし、想像を絶する難病が突然襲い掛かってくる可能性はだれにとってもゼロではない。自己管理の欲望は決して自己を管理しきれないという現実と裏腹なのだ。

 ダイエットの欲望においては、たとえばリバウンドという形で「肉体の反逆」は起こるだろう。また、ついつい食べてはいけないものを食べてしまうなどということもあるだろう。そのとき、ダイエットするひとは重い罪悪感を感じる。しかし、なぜ罪の意識を感じなければならないのか。だれを傷つけたわけでもないのに。

 これがダイエットの持つ問題点であり、それはおそらく摂食障害などとも無関係ではないだろう。ダイエットの欲望という肉体管理の欲望は、「肉体は管理しきれない」という現実を無視している。どんなにダイエットしたところでひとは思い通りに美しくなれるわけではないし、加齢による衰えを消せるわけでもないということ。

 それでも、ある程度の妥協を含んだダイエットなら「まあ、ちょっとくらい太ってしまったけれどいいや」というようにその現実を受け入れることができるだろう。しかし、完全を求めるダイエットではそうはいかない。失敗と罪の意識のスパイラルが起こり、先に述べた摂食障害のような病的な事態に陥りかねない。

 幸せになれるはずのダイエットで不幸になってしまうひとが続出するのはこのためだ。ダイエットはもちろん悪くない。しかし、それもほどほどにしておくべきだと思うのである。

 さて、「自己管理の欲望」の究極の表れは「死にたくない」ということである。「死」という究極の不条理を受け入れることを拒むことが究極の自己管理だといえる。その意味で自己管理の欲望とは「生(エロス)」の欲望だといえる。

 それは突き詰めるなら、いつまでも健康に美しく生きていたい、衰えたくない、死にたくない、忘れられたくない、といった欲望なのである。近代文明はこのエロスの欲望に駆動されて進歩してきた。

 それは「死と貧困」という不条理を遠ざける手段を模索するプロセスであった。そのあげくにひとは自分の肉体を管理することを求め、ダイエットするようになったわけである。だから、ダイエットとは近代文明の当然の帰結なのだ。

 「自己管理の欲望」の推進者であるところの勝間和代が『やせる!』というダイエット本を出していることはあまりにも当然だ。徹底した自己管理を求めるならば、自分の肉体も管理できないといけないと考えることは自然なことである。

 しかし、このように自己管理を求めて、我々は、我々の文明はどこへ行くのだろう。ひたすらに自分では管理しきれない「運命」を拒み、本来管理しきれないはずのものを何とか管理しようとする、それがほんとうに幸福への道なのだろうか。

 ぼくはそうは思わない。ひとには「運命を受け入れる」という叡智もあるはずである。それは突き詰めるなら究極の運命、究極の不条理である「死」を受け入れるということであり、つまり「死(タナトス)」の思想ということができる。

 エロスの欲望とタナトスの思想。この相克のなかにダイエットはある。生まれつき与えられた自分の肉体という「運命」を、何とか管理したいという欲望と、それをただ受け入れるという思想。いずれがひとを幸福に導くのか。たぶんひとには両方とも必要なのだろう。

 ひとはエロスの欲望にひっぱられて前進し、タナトスの思想でもって運命を受容する。しかし、現代文明は、それこそダイエット本がやたらと出ることでもわかる通り、エロスに偏った文明だ。そこには「どんな運命でも努力すれば管理できる」という傲慢がある。

 ぼくはダイエットするなとはいわない。しかし、ダイエットするときはその限界をわきまえた上でするべきである、とはいう。逆説的だが、あるものは痩せていて、あるものは太っている。それでべつにかまわない。そう心から思える者だけが、病的な不安と無縁にダイエットすることができるだろう。

 「太っている自分は醜い」という社会が与えた価値観を内面化し、不安にかられてダイエットする者は、病と紙一重のところにいるのである。