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安全保障のジレンマ。なぜ、外交だけで平和を維持することはできないのか?
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安全保障のジレンマ。なぜ、外交だけで平和を維持することはできないのか?

2019-06-08 04:16
     この頃、「無能な味方」問題について考えています。何かしら集団で運動しようとするとき、問題のある言動や行動を行う「無能な味方」にどう対処するかということです。

     個人的には、この「無能な味方」に対し、「そうはいっても味方だから」と甘い顔をすると運動は腐敗すると思う。

     フェミニズムがその典型ですよね。あからさまに問題があるツイフェミを放置したことによって、運動そのものが大きな反感を買うことになった。

     「敵か味方か」という党派性でしか物事の是非を判断できない人にとっては「問題行動を起こしていても味方は味方、その味方を批判する者は敵」ということになるのだろうけれど、「無能な味方」をかばいつづければその運動に自浄能力がないとみなされることは当然です。

     逆に「敵」に対するフェアネスも必要になると思っていて、たとえば安倍政権を打倒しようと思うなら、だれよりも安倍首相その人に対してフェアでなければならないのです。

     これはもちろん、甘い態度を取ることとは違う。批判するならするで、論理的に不正な批判は行わないということ。

     安倍政権だろうがトランプ政権だろうが、あいつは邪悪な「敵」だから手段を択ばず攻撃してやる、というのでは、しょせん多数派の支持は得られません。

     F35の問題などもそうですが、だれかを批判する目的で客観的なファクトをねじ曲げ始めるとその思想や運動はどこまでも堕落する。

     「安倍がギャンブル運営で年金15兆円を溶かした」などと非常に週刊誌的で煽情的な表現を使って安倍批判をあおる人もいますが、これはまったく事実と異なるし、そういうことをいっている人はどこまでも内輪の支持で終わります。

     そういう意味では、世の中、意外とまともなものなんですよね。このままではTwitterで感情的に吹き上がって「安倍政権を打倒できないのは日本人がバカだからだ」などといっている人たちはいつまで経っても政権を打倒できないでしょう。

     本気で批判するつもりなら、どこまでもフェアに批判しなければならないし、また、その余地は十分にあるのに、現実を見ず、脊髄反射的に情緒を爆発させる人たちは非常に残念です。

     政治は、田中芳樹の『アルスラーン戦記』にあったように、「理想の火を掲げて現実の道を行く」ものでなければならないと思います。

     理想主義はけっこうですが、現実を無視することは許されない。逆にリアリズムの名のもと、理想を無視し始めても退廃する。そこら辺のバランスはむずかしいなあと思います。

     たとえば、日本は軍事力を使わず外交で平和を勝ち取るべきだ、という人たちがいます。ぼくももちろん、それができれば最善だと思います。

     しかし、リアリズムの観点に立つと外交努力だけで平和を維持することは、不可能ではないにしろ、限りなくむずかしい。「話せばわかる」というわけにはいかないのです。

     ローマの軍事理論家であるヴェゲティウスの「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」という言葉がいまに伝わっていますが、現実にはバランス・オブ・パワーが崩れるとき、平和もまた崩壊する場合が多い。平和のためにこそ軍事力が必要とされる一面があるわけです。

     ただ、それならどんどん防衛予算を増やしていけばそれだけで平和が維持できるかというと、当然、そういうわけにもいかない。防衛のための戦力は侵略にも使えるわけで、あまり軍事力を増強させつづけると周辺諸国の不信感をおあることになります。

     現代日本に周辺諸国への侵略の意図はないとは思いますが、諸外国から見てどう見えるかということはまたべつで、安全保障を求めて軍事力を増せばますほど、緊張は高まっていくかもしれないわけです。

     安全を求めれば求めるほど平和が遠ざかっていくという矛盾。この問題は平和学や政治学の世界では「安全保障のジレンマ」と呼ばれています。

     具体的な例としては、よく第一次世界大戦が挙げられるようです。第一次世界大戦は、当時、関係国のどこひとつとして戦争を望んでいなかったにもかかわらず、相互の不信が不信を呼んだ挙句、一本のマッチが大爆発をひき起こして開戦につながってしまった戦争だと見られているからです。

     このように、べつだん、国家やその指導者が血に飢えた狼ではないとしても、戦争は起こってしまうことがある。

     人類が戦争を克服できないのは、アニメでよくいわれるように人間がどうしようもなく愚かな生きものだからではなく、国どうしが互いに互いを信用できないからなんですね。

     ちなみに、この相互不信の問題は個人と個人のあいだにもあります。だから、国家が個々人の上に立って安全を保障する必要がある。そうでなければ、ホッブズが描いたように「万人の万人のための闘争」が起こるでしょう。

     しかし、現状で国家より上に立つ機関は存在しませんから、いまのところは国際平和はバランス・オブ・パワーに頼るしかない。SFでよくある「地球連邦」などが成立したらまたべつかもしれませんが……。

     ただ、それなら、このジレンマの克服は不可能なのかといえば、完全な克服はおそらくむずかしいものの、理論的には一定の緩和は可能だと考えられていますし、実際に緩和されているように見える例も存在します。

     互いに一切の軍備を放棄して完全な平和を実現することは困難だとしても、隣国間の緊張関係を解くことはできるということです。

     たとえば、ヨーロッパ諸国どうしとか、アメリカとカナダとか、あるいは日米は現状で互いに戦争を想定しなければならないような緊張関係にはありませんよね?

     同じ隣国どうしであっても、韓国と北朝鮮とか、インドとパキスタンといった例とはまったく違う。これはどこが違うかというと、互いに「まさか戦争を起こしたりしないだろう」と相手を信じることができるということ、つまり相互に信頼が存在している点が異なっているわけです。

     安全保障のジレンマとは相手を信じられないから軍備を強化するしかないという問題ですから、理屈のうえでは信頼関係を醸成すれば克服できる。

     そのためにこそソフトパワー(文化や政策の力)は必要になる。ただ、それだけではなかなか平和構築はむずかしいということも理解していてしかるべきだと思うし、じっさいに大半の人は理解していると思うのです。

     Twitterを見ると「軍事力なんていらない」みたいな極論をいう人も多いんですけれどね。それは声が大きい人が目立つだけだと思っています。

     声の大きい人たちはよく極論で対立をあおるけれど、そういう、エクスクラメーションマークを付けないと話ができないような人たちこそが戦争をひき起こすとぼくは思っています。

     自分の思いこみにもとづいて好き勝手に他者にレッテルを貼り、情緒的な正義感を暴走させ、敵か味方かといった対立構造でしかものを見ない。そういう人たちは、自分では平和を求めていると主張しますが、あきらかに好戦的です。

     ほんとうに平和を求めるなら感情的になってはいけないのです。「不正に対する正義の怒り」はたとえばフランス革命の原動力になったかもしれませんが、その革命で200万人が死亡しました。

     「もっと怒れ」などと感情をあおる人には注意が必要です。「正義の怒り」はたしかに人を行動的にさせるかもしれませんが、一方で盲目にしてしまうこともたしかです。

     先ほどの「戦闘機の爆買い」や「年金財政崩壊」に憤激する人たちもそうですが、自分では社会正義のために怒っているつもりで、いつのまにか視野が狭くなっていることは往々にしてある。

     社会の維持のために正義は必要ですが、感情的に暴走しさえすればうまくいくというほど世界は甘くないのです。

     あるいはなぜ感情的になってはいけないのか、と思われるかもしれません。正義のため怒りをたぎらせ、それを行動につなげることが「世直し」のためには必要なのではないか、と。

     それは一面の事実ではあるかもしれませんが、人間は感情に行動を任せるとしばしば判断を誤るものです。

     そもそも普段でも人間の行動には感情にもとづいたバイアスがかかっていて、純粋に論理的に動いているわけではない。これは社会心理学や行動経済学の世界では広く知られた事実です。

     たとえば、一般に人間は「名前と顔のある個人」については強い関心を抱きますが、「無数の名もなき人々」に対しては冷淡です。

     具体的にかわいそうな個人がいればその人のために感情を昂らせるけれど、それが十人、百人、十万人となると、とたんに冷たい態度しか取れなくなったりするのです。

     これは実験によってあきらかになっているファクトであり、かのスターリンはこのことを「ひとりの死は悲劇だ。しかし、百万人の死は統計に過ぎない」と的確、かつ冷酷に表現しました。

     じっさい、そうだろうと思います。理屈で考えるなら百万人の死はひとりの死の百万倍の悲劇であるわけですが、ぼくたちはなかなかそういうふうには認識できない。

     理屈ではそういうことだとわかっていても、たとえば遠いアフリカの紛争や虐殺事件に深い関心を抱くことはなかなか困難です。

     その一方で可愛い犬がみぞにはまって動けなくなったといったニュースには強い興味を抱いたりする。人間はそういう感情の生きものなのです。

     ですが、まさにそうであるからこそ、感情に支配されるのではなく、感情を支配しようと努力するべきなのではないでしょうか。

     ポール・ブルームの『反共感論』という本があるのですが、「共感」という感情にもとづく行動は、べつの見方をするなら差別的です。そのような感情に支配されることは危険だ。

     「心からかわいそうだと思える人たち」のためには動けても、「とても同情には値しないとしか思えない人たち」のためには動けないことになる。

     だからこそ、ぼくはあくまで理性にもとづいて行動するべきだと思うのです。少なくとも、そのようにあろうとするべきかと。

     「特定の個人やある集団に寄り添わない」理性による判断は、あるいは冷たいものと見えるかもしれません。

     しかし、「弱者に優しい」共感の政治がしょせんは「かわいそうに思える人たち」をひいきする差別的な行動でしかありえないのに対し、理性による判断は可能な限りフェアであろうとします。

     ぼくはそのほうがまともだと思う。だれよりも感情的な人間であるからこそ、そう考えるのです。

     おわり。 
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