Twitterで室井佑月さんのツイートを追いかけています。雑誌やテレビ番組などでさまざまに活躍しておられる方ですが、Twitterでは福島県の食品に関する持論を繰り広げて大きな批判を受けています。
ぼくの目から見ても、かなりトンデモに片足を突っ込んでいるように映るのですが、いまのところ、どんなに批判を受けてもまったくその信念に揺らぎはないようです。
で、その室井さんのツイートのなかでも興味深かったのがこれ。
この「国が出す数字もあてにならない」はおそらく昨年発覚した統計不正問題のことを指しているのでしょう。今回はちょっとこの話をしようと思います。
いや、ぼくはべつだん政治評論家ではありませんから、あまり政治関連の記事を続けるのもどうかとも思うのですが、まあ、このブログはぼくが興味があることを不連続に提示していく趣旨だから良いとしましょう。
さて、皆さんご存知のこととは思いますが、2018年、厚生労働省による統計の不正が報道されました。
政府発表の統計情報が間違えていたわけですから、これは大問題であるわけですが、今回の論点はこれを指して「国が出す数字もあてにならない」といえるのかどうか、そして「そのほかの自治体が出す数字も」あてにならないといえるのか、さらにいうと室井さんが主張しているように福島県の食品の安全性に関連する統計は間違えている可能性があるのかということです。ひとつずつ考えていきましょう。
まず、厚生労働省による統計不正問題とはどのような問題であったか。きちんとニュースを読んでいればわかることですし、また、ちょっとググってもらえばわかるとも思うのですが、簡単にいうと、以下の二点が挙げられます。
ただ、例によってぼくのしろうと判断なので、どこか間違えているところがあったらご指摘ください。
①2004年から2017年にかけて、東京都の毎月勤労統計において、「全数調査」をすべきところを「一部抽出調査」を行っていた。
②2018年に、その都内の数字を全数調査に近づけるための復元処理を行ったが、その事実を公表しなかった。
このことはくわしくは厚労省のサイトで情報が公開されています。
つまり、十数年にわたってちゃんとしたやり方で統計を取るべきところを簡易的なやり方で済ませ、さらにその数字を正しいものに近づけようとしたことも操作したことも公表しなかった、ということですね。
繰り返しますが、個人的には、これは政府統計への信頼感を揺るがす大問題だと考えています。ぼくたち民間人は基本的に国が出すこの種の数字を信用して判断しているわけですから、それが誤っていたとなるとあらゆる判断が狂ってきます。
さらに、そこにアベノミクス(どうでもいいけれど、このネーミング、最低だよな)の成果を偽装しようとする政府関係者の意向が関わっていたのではないかという疑惑が加わって、この問題は安倍政権にとっての汚点のひとつとなりました。
しかし、それでは、この問題の存在をもって「国が出す数字もあてにならない」といえるのでしょうか?
まあ、実際に「国が出す数字」が間違えていたのは客観的事実であるわけですから、これは一理あると思います。しかし、ひとつ間違いがあったからといって、「国が出す数字」全般が間違えていると考えるべきかというと、ぼくは否定的です。
ごくあたりまえのことですが、「国が出す数字」の大半はかなり正確なものであるはずです。もちろん、そこには算出方法などにもとづくさまざまな問題があり、単純に無条件に正しいものと考えるべきではありませんが、数ある数字のひとつが間違えていたからといって統計をまったく信じないというのは行き過ぎでしょう。
逆説的ないい方になりますが、ひとつが間違えていただけでも大問題になっているわけですし、さらにいうなら、そのひとつも指摘があって発覚したわけです。
そもそも、常識的に考えて統計の数字を大きくいじれば最終的にはどこかでつじつまが合わなくなってくるはずですから、まさに今回の例のように、だれかが気づいて指摘します。
そして、日本には「統計法」が存在しますから、指摘されたら関係者は罰則を受ける可能性があります。それほど簡単に意図して数字をいじることはできないのです。
いや、そうはいっても、この不正には安倍政権の意向が関わっていたんじゃないか、少なくとも何かしらの忖度があったんじゃないか、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。
ですが、①の抽出方法の不正に関しては2004年からのことですから、現政権だけの問題とはいえません。②の数字の復元処理は、もしかしたら政権の意向が関わっていたといえるかもしれませんし、野党はその方向で政権を批判しているようですが、おそらくその可能性はそれほど高くないでしょう。
この統計不正は単純にアベノミクスの結果をより良く見せているとはいえないし、その上、結果としては政権の足をひっぱっているからです。
「アベがアベノミクスの成果を良く見せるために数字を偽装したに違いない」というのはいかにも陰謀論的な見方です。
そういう可能性がまったくないとはいえませんが、問題の発端が2004年であることを考えると、この問題はむしろ、国の統計に関わる人材の質的、量的な不足の問題と見ることが妥当かと思います。
たぶん単純に人が足りないんじゃないかな。それこそしろうと判断なのであまり迂闊なことはいえませんが。
さて、これが「国が出す数字もあてにならない」ということです。必ずしも単純に「あてにならない」とはいえないし、まして政権が思うままに数字を操っているなどということは相当に考えがたいということはおわかりいただけたのではないでしょうか。
で、それならここから敷衍して、「そのほかの自治体が出す数字も」あてにならないといえるかというと、やはりぼくは否定的です。
もちろん、「国が出す数字」と同様、それらの数字が完全に正確なものであるとは限りませんが、まったくあてにならないということはないでしょう。
さらにいうなら、福島県の食品の安全性に関する数字は、その気になればだれでも検証できる性質のものであり、国連や民間団体による調査も存在します。それが政権の意向により操作されていると見るのは、あまりに非現実的かつ陰謀論的な発想です。
たしかに、政府や自治体が発表する情報に対して懐疑的態度を崩さないことは大切なことでしょう。権威の発表だからといって鵜呑みにすることは間違えている。
しかし、「ある情報を鵜呑みにしないこと」と「怪しいと決めつけること」は本質的に異なります。
国連を初めとする複数の機関による調査がそろって問題ないことを示しており、さらにいうならしろうとでもいくらでも調査が可能な数字を根拠もなく信用できないと決めつけることはやはり非合理的な態度だと考えます。
たしかに「アベが政権の維持のために手をまわしてすべての数字を操っている」といった可能性は皆無とはいえないでしょう。ですが、このような発想は陰謀論そのもの。ユダヤ人が裏から世界を操っているという意見と何ら変わりません。
陰謀論について考えるとき、むずかしいのは、実際にこの社会には大小さまざまな陰謀が存在しているので、大規模な陰謀の可能性を論理によって完全に否定することはできないことです。
白か黒か、純白か漆黒か、という話はできない。だから、考えるべきなのはその陰謀説が合理的に考えてどのくらい妥当か、ということでしょう。
そして、いままでつらつらと書いてきた理由によって、ぼくは福島産の食品に関して組織的な数字の不正が行われている可能性は限りなく低い、と考えます。室井さんは間違えている。あるいは少なくとも、その発言には合理的な根拠がない。そう思う。
それにしても、どうして彼女はこのような偏った思想を強く思いこんでしまったのでしょうか? そして、批判されても変えようとしないのでしょうか? ようするにこの人は愚かなのだ、といって済ませてしまえば簡単ですが、ぼくはそうは思いません。
むしろ、ぼくたちは彼女の例から客観的かつ合理的に考えることのむずかしさを学ぶべきです。
人間は決してつねに論理的に考える生き物ではなく、その思考にはさまざまな偏り(バイアス)がかかっていることは心理学の知見として知られています。
その「認知バイアス」は合わせて実に200以上もあるらしいのですが、そのなかでもぼくが重要だと考えるのが「認知的不協和」と「バックファイアー効果」です。
簡単にいうと、認知的不協和とは自分が持っている信念と異なることを告げられると不快を覚えること、バックファイアー効果とは新しく信念と異なる情報を教えられても信念を正すことはできず、より強化してしまうことです。
つまり、人間はいったん何かしらのことを信じてしまうと、後から正確な情報を与えられても修正は容易ではないのです。
これは人間一般に共通するバイアスですから、相当に賢い人でもなかなか抜け出せないトラップだといえます。
さらにいうと、ぼくは「発言行為にもとづくバイアス」もあると考えています。人間はいったん自分の意見を口に出してしまうと、後からそれが間違えていたことがわかってもなかなか訂正できないということです。
室井さんはまさにこのバイアスに嵌まっているのではないか、と思うのです。そして、ぼくたちはだれでもこの種のバイアスに嵌まり込む危険がある。その可能性を回避するためにはどうすればいいのか、いま、考えているところです。
これはイデオロギーの問題ではありません。思想的に右翼(ネトウヨ)であろうと、左翼(パヨク)であろうと、思考のバイアスのために誤った結論を導き出してしまい、またそれを修正することができなくなってしまう可能性はつねにあります。
思うに、まず大切なのは、強い「信念」を持たないようにすることではないでしょうか。何かの思想なり価値観を信奉することはしかたないとしても、それを絶対視せず、なおかつ、そのほかの価値観に敬意を払いつづけること。
つまり、保守ならリベラルに、リベラルなら保守に対しリスペクトを払う姿勢が大切だと思います。もっというなら、もし安倍首相が嫌いなら安倍首相に対してこそ敬意を忘れないようにするべきなのです。
いうまでもありませんが、それは安倍首相の言動なり政策を無批判に受け入れるということではありません。そうではなく、「敬意をもって批判的に観測する」ことが大切だということ。
そうでないと、邪悪な極右の独裁者であるところのアベシンゾウに関連することはすべて間違えているに違いない、というバイアスにあっさり嵌まり込んでしまいます。
先日紹介したF35は欠陥機であるという見方はまさにその典型です。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではありませんが、人間はあらかじめ何かしらの信念なり偏見を持っているとどうしてもそれを強化する方向に進んでしまいがちなものなのです。
もっというなら、インターネットでは「エコーチェンバー現象」が働くので、その方向性が強化されるのですが、いいかげん長くなったのでその話は省きます。
なるべくイデオロギーにもとづくバイアスに嵌まらず、冷静かつ客観的に物事を考えたいものですね。でわでわ。