「『鬼滅の刃』、中1の娘を魅了した「いい子な主人公・炭治郎」…その〈新しさと古さ〉 「忠」「孝」から「ケア」へ」という記事を読んだ(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77444)。
「水の呼吸」ならぬ「水遁の術」で洪水を巻き起こせる佐助の超人パワーをもってすれば天下統一も夢ではないはずだが、剣術で降参させた佐助の説教で相手が改心するのが十八番となっている。佐助が戦うのは、あくまで主君のため。「忠」という儒教道徳に従順な「いい子」なのだ。(中略)『鬼滅の刃』の炭治郎は親きょうだいを鬼に殺されているが、身体がボロボロになってまで戦うのは「親の仇討ち」のためだけではないし、鬼殺隊を束ねるお館様に忠義を尽くすためというわけでもない。大正時代の貧しい炭焼き小屋の長男として生まれ、父亡きあと母を支えて家業と弟妹の世話と家事を担っていた炭治郎の正義の基盤は、「ケアの倫理」にある。ケアの倫理とは、儒教道徳のように秩序を守るために一般化された原理ではなく、それぞれ異なる他者の感情を想像し、配慮し、手を差し伸べるといった具体的な実践に価値をおく倫理である。兄とともに家を支えていた長女の禰豆子も、兄の倫理感を継承している。
ネギと炭治郎には共通点が少なくない。ネギも炭治郎に匹敵するであろうほぼ完璧な「いい子」で、エゴイスティックな感情はほとんど見せない。
この問題は色々な言葉で語られているが、今回はこの論文(https://www.r-gscefs.jp/wp-content/uploads/2017/06/%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9vol.13_08_%E3%80%90%E8%AB%96%E6%96%87%E3%80%91%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BC%B8%E5%BD%A6.pdf)から引用しよう。
ハインツの妻Xが特殊ながんにかかっており、いまにも死にそうな状況に置かれている。Xの担当医は、ハインツに対して、Xが助かるには薬屋Yが発見し、製造・販売している薬を飲む以外助かる方法はないと説明した。その薬は、10万円の製造費に対して、100万円で販売している。ハインツは、妻を助けようと親戚や知人などからお金を集めたが、半額しか集めることはできなかった。そこでハインツは、Yに事情を説明し、安く売ってくれるか、まずは半額を支払い残りはその後にしてもらおうと交渉した。しかし、Yは、「私が薬を発見した。私は、それを売って儲けるつもりだ」と言い、取り合ってくれなかった。そこで、悩んだハインツは、薬を盗もうと薬屋に忍び込んだ。
ギリガンはコールバーグの道徳的発達の階梯に関する認識を「ケアの倫理」という対抗概念とともに批判する。どういうことなのか、くわしく解説している記事から引用しよう。
コールバーグは、道徳性の発達の基準は、以下のようなプロセスを経るという。まず自己中心主義(例:妻を見殺しにすると社会的制裁をうけるので 盗むべきだ/盗むと警察に捕まってしまうので盗むべきではない)。つぎに社会的視点の獲得(例:妻は薬を必要としているから盗みは正当化される/薬を盗まずに妻が死んでもお金が集まらなかったことは非難されるべきじゃない、従って、盗むという手段に訴える必要はない)。そして原理的な考察にいたるような視点に至る(例:薬を盗むことと「生命(一般)を救うこと」は直結しているので、命を救うためには盗みはやむをえない/ものを盗むことは一般的に反道徳的な行為なので盗んではならない)。コールバーグの結論は、最終的に女性は自分の行動を正当化できないが、男性は行動の理由を説明できると結論づけているのである。これは、ジャ ン・ピアジェの、女性は抽象的思考ができず、道徳の完成という規範化には至らないという断定と類似のような判断であると言える(ブルジェール 2014:28)。ギリガンは、このような道徳性の発達性が男性(男の子)を中心的モデルにしているために、ジレンマに直面した女性(女の子)の意見、すなわち, モデル形成から抜け落ちた「もうひとつの声(原題:a Different Voice)」に耳を傾け、そこから導きだせる、ジェンダーと結びついた(あるいはそのように訓育される)倫理観を「ケアの倫理」という形で定式化した。ギリガンの被験者である、ジャックという男の子は、刑務所に入ってもハインツは奥さんを救うために薬を盗むべきだと答える。他方、エイミーとい う女の子は、盗むべきか/断念すべきかという問いの立て方に対して、薬剤師に話して緊急の事態であり、説得すべきだという問いが前提にする判断とは別のアプローチを考案する(端的に言えば、それこそが関係性の倫理すなわち「ケアの倫理」だということができる)。ギリガンは、コールバーグの論理だと、エイ ミーの判断は「社会的視点」から「原理的な考察」に至る段階で止まっているとするところが(コールバーグ自身の) 問題だとするのである。ケアの倫理は、正義の倫理とは対極的な位置にある。正義の倫理とは、裁判のようにさまざまな行動のタイプと、それに対する正当性を検討し、行動 とその行動に価値付けれたものに優先順位をつけるべきだと考えるものである。したがって、ケアの倫理学とは、「ケアという実践活動の社 会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論の学問」のことである。そして、ケア倫理の人類学とは、「ケアという実践活動の社 会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論の学問」を文化人類学的に分析する学問である(→「」)それに対して、ケアの倫理は、ジレンマにある複数の人たちの責任とそれらの関連性(ネットワーク)に着目し、状況(文脈)を踏まえたナラティブ な(contextual and narrative)思考様式で説明するものである。この倫理は、ギリガンは女性(女の子)からの資料収集からモデル化されたが、ジェンダー区分に必ず帰着するわけではなく、男性(男の子)もまた ケアの倫理を共有している――この意義を取り違えるとギリガンはセクシストと誤った理解を誘導することになる。そのため、正義の倫理とケアの倫理は、もちろん共存可能だとギリガンは主張する(cf. 川本 2005:2-3)。
つまり、より一般的で男性的だとされる「正義の倫理」とは異なる「もうひとつの声」として「ケアの倫理」が存在するといっているわけである。
この二人が普段優しい反面、よその子を傷つける強者に危険を顧みず立ち向かう正義心の持ち主だったことが、生前の弟の口から語られる回想シーンがある。二人は鬼が現れる前から、ケアを担う相棒同士だったのだ。鬼とのバトルでも基本的にはお互いを守るように戦うが、兄が自分を守ることで里の人々が守られなくなると判断したら、禰豆子は自らの死を覚悟のうえで兄を蹴り飛ばして民衆を守る戦いへ追いやる。炭治郎も妹の判断を尊重する。二人が戦うのは、自分たちのような悲しい思いをほかの人にさせないためだ。
はたして炭治郎と禰豆子のこのような行動を「ケアの倫理」という文脈だけで語ることが、あるいは正当化することができるだろうか。