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このツイートが非常に興味深かった。
スゴ本ブログのDainさんにご紹介いただいたジェームズ・フランクリン『「蓋然性」の探求』がすごく良い本で、何というか、「なぜヒトは分かり合えないのか」が分かった気がする。読了直後よりも、時間が経ってからじわじわと効いてくるタイプの本だ。なぜ証拠を示されてもヒトは考えを変えないのか?現在では、定常宇宙論よりもビッグバン宇宙論のほうが正しいとされている。創造論よりも進化論のほうが正しいとされている。でも、その「正しさ」、言い換えれば「蓋然性」を、定量的に比較できない。私たちの科学哲学が未熟で、「どれほど正しいか」を数値化できないからだ。では、なぜビッグバン宇宙論のほうが蓋然的だと見做されるかというと、既知の理論や証拠との矛盾が少ないからだ。なぜ進化論のほうが正しいと見做されるかといえば、既知の理論や証拠との矛盾が少ないからだ。この〝既知の〟という部分がクセ者なのである。この世に、すべてを知っている人はいない。群盲撫象。
つまりは、現在の科学体系も含めた「たしかとされていること」とは、結局は「蓋然性」の問題にしか過ぎないという内容である。
それでは蓋然性とは何かというと、辞書には「ある物事や事象が実現するか否か、または知識が確実かどうかの度合いのこと」と書かれている。つまりそれが事実なのかどうかという「たしからしさの度合い」という意味だろう。
だから、上に書いたことをいい換えるなら、「いま、たしかとされていること」は「ある程度たしからしいということでしかない」ということになる。そして、それを「80%くらい正しそう」とか「63度くらい正しそう」というように「数値化」して「定量的」に示すことはできない。
よってある事実が「ほんとうに正しいのかどうか」を議論することはきわめてむずかしく、結局は主観の域を出ないということである。
もちろん、社会的に「ほとんど確実に正しいだろう」というコンセンサスが取れている事実はある。たとえば、地球は宇宙に浮かんだ球体である、といったことはそうだ。
しかし、この先のツイートに書かれているように、それに対してすら反対する人はいる。そして、そういう人を説き伏せることはきわめてむずかしいのだ。なぜか? そういう人は頭が悪くてこの世の真実を理解できないから、といってしまうことは簡単だ。
だが、そうなのだろうか? それは結局、自分の説の蓋然性を盲信しているに過ぎないのでは? 上記のツイートは、このように続いている(長々と引用してしまってごめんなさい)。
地球平面説を信じる人々を追ったNetflixのドキュメンタリー映画『ビハインド・ザ・カーブ』には、実験で地球が平らであることを証明しようとする人物が登場する。もしも地球が本当に球体だとしたら、自転により1時間に15度回る。ジャイロスコープでそれを検証することで、球体説を反証しようとする。彼は2万ドルもするジャイロスコープを購入し、何時間経ってもそれが傾かないことを検証しようとした。地球が平らであり球体ではないことを、実験で証明しようとしたのだ。結果、ジャイロスコープはきっかり1時間で15度傾いた。それを見た彼の反応は「誤作動かもしれない」だった。彼の頭の中には(YouTubeの動画などで学んだ)地球平面説の〝証拠〟が、すでに1000個も2000個も詰め込まれていたのだ。だから、たった1つの「地球が丸い証拠」を発見しても、平面説を捨てる気になれなかった。球体説に蓋然性を覚えるよりも、実験装置の誤作動を疑うほうが、彼にとっては蓋然的だった。扱うものが地球平面説だから笑っていられる。でも、本質的には私たちと彼らの間に大きな違いはない。彼らが「地球が丸い証拠」を知らなかったように、私たちだって、すべての物事について万全の知識を持っているわけではない。今までの信念を捨てるよりも、それを守るようなロジックを創造してしまう。
もし逆だったら、と考えてみよう。たったいま、何か「地球球体説」を覆し、じつは地球は平面だったことを証明するような決定的な証拠が見つかったとする。たとえば全能の神とか宇宙人が地球は球体だと見せかけていただけだったとか。
そのとき、ぼくたちはその「事実」を受け入れられるだろうか? おそらく無理だろう。まず大半の人は「そんなわけはない」と考えるはずだ。それが常識的な考え方というものだ。
じっさいに飛行機などで地球を一周している人もいるわけだし、宇宙から見た写真もあるし、と数々の「反証」を思い浮かべ、その説を否定するに違いない。しかし、それはジャイロスコープの「誤作動かもしれない」と考えた人と同じような発想なのではないか。
すでに自分の頭のなかに「膨大な証拠」があるとき、それに反する「新しい証拠」を受け入れることはきわめてむずかしい。
これはもちろん、極端な話ではある。しかし、人間は自分が信じている説を補強するようにしか考えない、そうでない証拠が見つかったとしても「めずらしい例外だ」としか考えない、そういう傾向はたしかにあると感じる。
たとえばぼくは歴史的にいわゆる南京事件(南京大虐殺)が起こったことは事実だと考えていて、その説を否定するネトウヨをバカにしたりするのだけれど、ぼくの説の根拠も結局は絶対的なものではない。
じっさいに膨大な「証拠」があることはたしかだが、つまるところ、ぼくの説もそのようなさまざまな「証拠」をパッチワークのようにつなぎ合わせて作り出した、ひとつの「物語」でしかないともいえるわけだ。
それでもぼくがその説を信じるのは、ぼくにとってそれが蓋然性が高い物語であると思えるからだ。その説を信じることのほうが、たとえば「すべて中国の陰謀だ!」といった陰謀論を信じるよりぼくにとっては蓋然的に思われるのである。
だが、先に述べたように、それが「どのくらい真実なのか」を「数値的」にいい表して比較することはできない。だから、結局は「信じるか、信じないか」の話でしかなくなってしまいがちだ。
ということは、おそらく、たぶんぼくは「南京事件があったということは紛れもない真実だ。その証拠はこれだけある」というふうに主張するべきではないのだろう。
そのかわり、「南京事件実在論の蓋然性は高く、非実在論の蓋然性は低いと考えるべきこれだけの理由がある」と話を進めていくほうが妥当なのだと思われる。だれであれ人と対話するときには、相手の説にも相手なりの蓋然性があると考えるべきなのではないだろうか。
たとえ、それがたとえ地球平面説のようなぼくにとって限りなく蓋然性が低いように思える説であっても。
インターネットで対話(ダイアローグ)が成り立たない最大の理由は、蓋然性ではなく「絶対の真実」を持ち出して話をするからだろう。
「自分の意見は絶対に正しい」、「相手の意見は絶対に間違えている」。そういった意見同士の対立はどこまでいっても妥協点を見いだせない。それは結局は相手に自分の主張に対する服従を求めているに過ぎないからだ。
このようなぼくの考え方はいかにも素朴な相対主義に過ぎないように見えるだろうか。しかし、Twitterあたりでのあまりに独善的な「絶対主義」を見ていると、まずは素朴な相対主義に立ち返りたくなるのである。
もっとも、問題はその先だ。素朴な相対主義者のぼくは絶対主義者に対してどう振る舞うべきなのだろうか。
たとえば「アンチワクチン」とか「Qアノン」、あるいは「ネトウヨ」とか「パヨク」とか「ツイフェミ」みたいな人に対して、ぼくはどう話していけば良いのか。
ぼくがいわゆる「原発処理水」の問題に対し興味があるのはそこなのだ。ぼく個人は処理水の安全性を信じる立場を取る。それがなぜなのかというと、情報に一定の透明性があると考えるからだ。
処理水は東電だけでなく、日本政府だけでもなく、国際原子力機関や漁業関係者などによってチェックされる(とされている)。これら複数の機関がそろって陰謀を巡らせていると考えるよりは、じっさいに処理水が基準を満たしていると考えるほうが、ぼくにとっては蓋然性が高い。
しかし、世の中には国も東電もIAEAも信じられないというひるわけなのだ。その人にとっては「国や東電やIAEAが共謀しているかもしれない」という陰謀論は十分な蓋然性を持つ。
そういうことをいわれると、ぼくとしては自分の説のほうが正しく、陰謀論は間違えているという話をしたい誘惑を感じるわけだが、その種の話し方は決して陰謀論者を納得させられないだろう。
相手はすでに陰謀論に蓋然性を感じていて、それに背く証拠は「めずらしい偶然」としか感じられないだろうからだ。となると、ぼくは相手の説にも相手なりの蓋然性があることを認めざるを得ない。
そして、ここで相対主義の欠点が露呈する。素朴な相対主義的には「しょせん互いの世界観の差の問題ですよね。どっちもそれなりに説得力がありますよね」という話に持っていくしかないわけだが、それで済ませるにはあまりに問題が巨大すぎるのである。
それでは、いったいどうすれば良いのか。
ミステリファンならすぐに名前が思い浮かぶことだろうが、ある世界的に有名な作品の推理小説のトリックで「容疑者全員が共謀して全員分のアリバイを作って上で被害者を殺していた」というものがある。
これはある意味で陰謀論トリックといえるのではないかと思う。じつは容疑者たちにはある隠された共通点(ミッシング・リンク)があるのだが、それが見えないためにそれぞれの人物の動機が見えなくなっているのである。
あるいは政府と東電とIAEAにもその種の「ミッシング・リンク」があるのかもしれない。その部分が見える人にとっては、陰謀論は真実に思えるわけだ。
もちろん、それも蓋然性の、世界観の問題に過ぎない。そして、それぞれの蓋然性は定量的に比べることができないので「自分の説のほうがこれほど矛盾なく事象を説明でき、蓋然性が高いぞ」といったところで、究極的にははっきり比較する方法はない。故にこそ人は理解し合えず、異なる価値観の持ち主同士で対話は成り立たない。
だが、それでも社会的に「事実」を決定していかなければならないことはある。「風評被害」という言葉があるが、「被害」がある以上、「加害」もあるはずだ。
科学的安全処置がほどこされた「原発処理水」をあくまで「汚染水」と呼び、どこまでもその危険性を叫びつづけることは必然的に廃炉作業を遅らせることに加担する「加害行為」であるとぼくは考える。
だから、そういう人たちがかれらの蓋然性にもとづき、どれほど「東電や国なんて信用できない!」と叫んだとしても、処理水は放出するべきであると考える。
しかし、そういう態度は結局は社会の分断を深めるだけであるのかもしれない。それなら、いったいどうすればいいのか?
まずはある種の相対主義という土俵に乗ってくれる相手を探すことなのかな、と思う。ロジカルに陰謀論がウソであることを証明することはできない。そして、自分の説の蓋然性を数値化して比較し相手を説得することもできない。
そうだとすれば、相手にも「すべては蓋然性の問題である」と理解してもらった上で互いの世界観を比較していく。それくらいしかできないのではないか。つまりは絶対的な意味での「真実」や「正義」を捨て去ることである。
ぼくは南京事件の実在を唱えるだけの理由があるが、それが絶対的な正義であり真実であるという考え方は捨てるべきだろう。その種の「正義」を抱えているかぎり、人はどうしても傲慢に相手を踏みにじろうとするからである。
ただ、だからといって「どのような事実を物語として採用するのも各個人の自由だ」ということにはならない。その種の考え方はあまりに行き過ぎている。
たとえ数値化し定量的に比べることができないとしても、それぞれの説に蓋然性の差はあるのであって、それは無視して良いものではないのだ。
だからこそ、最終的に互いに理解しあえないとしても、対話には意味があるのである。ふと、そんなことを思った。あなたの考え方はいかがだろうか?
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