杉田俊介さんの新作記事を読んだ。


 いままで「弱者男性」と呼ばれてきた人たちの「つらさ」に別方向からスポットライトをあてた興味深い記事である。非常に面白い。が、一方でふしぎと共感がない。

 いままでは「弱者男性」と呼称されていて、杉田の言葉では「非正規的なマジョリティ男性」と呼ばれる人たちの「つらさ」に焦点があたっているのだが、ぼくじしんは特に「男性はつらい」とも「男性がつらい」とも思わないから、ほとんど共感できないのだ。

 ただ、かれらを横から見ていると、たしかに苦しいのだろうとは思う。本人たちが苦しいといっているのだから、その言葉を否定する根拠はぼくにはない。

 だが、見ていれば見ているほど何とも奇妙な気持ちにはなる。かれら、「弱者男性(仮)」ないし「非正規的なマジョリティ男性」たちは、何がそれほど苦しいのだろうか?

 そう、ぼくもまた、ただ外的な条件だけを見るならその定義にに十分あてはまっているはずだ。低収入だし、障害者だし、独身だし、恋人も、そしてもちろん子供もいない。しかし、ぼくはべつに自分が不幸だとは思わない。

 たしかにお金がないことは不自由ではあるが、時々、てれびんにたかって美味しい寿司を食べられたりする程度でそれなりに幸せである。それではぼくと、「かれら」とは何が違うのか? そこがぼくにはきわめて興味深い。

 すぐに思いつくのは、外的な問題が共通しているとするなら、異なっているのは内的な問題だろうということだ。外的な面においてはぼくは紛れもない「弱者男性(仮)」だが、内的にはそうでもないかもしれないわけである。

 いい換えるなら、ぼくは社会においては「弱者男性」だが、実存においてはそうではない、ともいえる。

 杉田はいう。「非正規的なマジョリティ男性」たちの生のつらさは、「半ば制度の問題、半ば実存の問題」である、と。ぼくにはかれがこのようないい方を選んだ、選ばざるを得なかった理由が理解できると思う。

 この記事を読んだうえで、いや、「男性」とか「女性」という区分で考えることそのものがそもそも間違いなのだ、あくまで個人の苦しみの問題でしかないのだから個人という単位で考えるべきだろうという意見を述べている人を何人か見かけた。

 これは一見すると正論にも見えるが、「男性」と「女性」のところを「白人」と「黒人」に変えてみるとその問題点がよくわかる(わかる人には)。

 たしかに個人の苦しみは個人のものだが、その背景には歴然と社会構造の問題があるわけであり、黒人差別問題(や、白人差別問題)をないことにできないのと同様、女性差別問題(や、男性差別問題)をないことにはできないのである。

 したがって、「非正規的なマジョリティ男性」の生きるつらさを語るとき、単に人間としての実存のつらさがあるだけだ、と語ることは端的に間違えている。

 既存の弱者男性論やら男性学ではまだはっきりと分析され切っていないにせよ、そこにはおそらく社会制度の問題が関わっているからだ。ただ、むずかしいのはそれは純粋に制度の問題なのであって、制度を改善しさえすれば良くなるともいい切れないことである。

 「非正規的なマジョリティ男性」ないし「弱者男性(仮)」の人生にどうしようもないつらさ、苦しみがあるとして(あるのだろう、きっと)、それはただ社会制度から来ているものだとはとてもいえそうにない。その過半はあきらかに個人の実存の問題であるように思われる。

 だからこそ、杉田は「半ば制度の問題、半ば実存の問題」というような少々あいまいないい方を採用したのだ。

 それは「弱者男性(仮)」のつらさを自己責任論に回収させないためのいい方でもあるし、その一方で「つまり弱者男性をケアしない社会が悪い」といったいい草に終始することを防ぐための論法でもある。

 杉田はつまりはこういいたいのだろう。いったい「弱者男性(仮)」ないし「非正規的なマジョリティ男性」たちの「つらさ」はどこから来ているのか? それは制度から来ているとも実存から来ているとも断定することはできない、その両者が複雑に絡み合ってできている、と。

 じっさい、そうなのだろうと思う。かれの論旨は非常に明快でわかりやすい。しかし――ぼくはやはりどうしてもここで描かれている「弱者男性(仮)」の姿にまったく共感できないのである。

 ぼくは昔から「非正規的なマジョリティ男性」に属するであろう人間たち、つまり過去に「非モテ」とか「弱者男性」とか呼ばれていた人たちに対してシンパシーがない。ただモテないとか金がないとかいったことがそれほど苦しいとは思われないのである。

 もちろん、一般的な生活が成り立たないほどの貧困は基本的人権が侵害されている状況であるともいえるし、それがつらいのは十分に理解できる。

 しかし、「非正規的なマジョリティ男性」の「つらさ」はそのようなこと(だけ)ではないだろう。

 むしろ、それがつらいのは、「一人前の男でありながら人並みの生活費すら稼げないなんて」とか、「同期のほかの連中に比べて自分は給料が少ない。完全に負けている」といった自意識に起因するものだろうと考えられる。

 あるいはかれらの収入が少ないことそのものは社会制度の問題かもしれないが、そこから派生している自意識の苦悩は制度の問題とばかりはいい切れそうにない。それはまさに「半ば制度から、半ば実存から」生じている問題なのだ。

 したがって、この種の問題を解決するためには、社会制度と自意識の双方をどうにかしなければならないことになる。

 まず、外的な社会制度的には、男性だけが特別に「もっと男らしくあれ」とか「一人前の男になれ」といった「男らしさの呪い」をかけられる状況を解決しなければならないだろう。

 これらの「呪い」、つまりジェンダーの存在を否定したり疑問視したりする人もいるが、ぼく個人は紛れもなくジェンダーは存在するものと考えている。

 ただ、すべてのジェンダーが即ち悪だとも思っていない。結局、それもまたこの社会の文化のひとつなのであって、個人に猛烈に強制されない限りはそこまで問題視する必要はないのではないかとも思うのだ(とはいえ、じっさいには猛烈に強制されているからやはり問題なのだが)。

 とにかくジェンダーの呪いは、女性に対してだけではなく、男性に対しても大きな影響を与えている。それらは解決されるべきである、とぼくは思う。その上でこれはごくまっとうな意味でのフェミニズム的発想である、と捉えている。

 そしてまた、内的な自意識の問題としては、多くの男性が程度の差こそあれ内面化しているそのジェンダーを自ら解体していく作業が必要になるはずだ。

 そこには、フェミニズム由来の「男性とは加害者の性であり、差別的なマジョリティ勢力に属しているのだ」という自意識を解きほぐす作業も含まれていなければならない。

 つまりは「非正規的なマジョリティ男性」の内面的なつらさとは、その手の「強い男性でなければならないという呪縛」と「男性であるだけでマジョリティであるという加害者意識」とが組み合わさってできているものなのではないだろうか。

 もちろん、その割合は人によって違う。なかには「じっさいには強くもないのに社会的に強者として扱われてしまいがちな男性としての被害者意識」を抱えている人たちも相当数いるだろう。

 ただ、その手の被害者意識も、やはりマッチョな意味で一人前の男性でなければならないという規範意識と無縁ではないようにぼくには見える。

 そう、ぼくが「自称弱者男性」たちの語りを見ていて思うのは、かれらはどうにもマッチョイズムへのあこがれを手放そうとしていないように見えるということなのだ。

 かれらは口々に「弱者男性」としての自分の苦しみを語るが、その裏には「可能であれば強者男性でありたかった」という想いが透けて見える。

 単なるぼくの偏見だろうか。そうかもしれない。だが、それでもやはりぼくにはそのような例が多いように見えてならない。

 もちろん、先述したようにその一方で自分が男性性を加害的なものとして「原罪」のように捉えている人も一定数いるのだから事態は複雑ではある。

 ただ、それでも「非モテ」だとか「インセル」だとか「弱者男性論者」の人たちのしばしば女性嫌悪的な語りを見ていると、やはり「マッチョになれなかっただけのマッチョイズム信奉者」がそのかなりの割合を占めているのを感じる。

 逆にいうなら、そういった「強くあらなければならないという男性ジェンダーの呪縛」や「フェミニズム由来の原罪的な加害者意識」や「幾重にも屈折したマッチョな男性性へのあこがれ」がなければ、「弱者男性(仮)」であることそのものは、べつだん、そこまで苦しいことではないのではないだろうか。

 ただぼくがそう感じるというだけのことではあるかもしれないが、いくら考えてもどうにも正体のわからない「弱者男性の苦しみ」をあえて分析するなら、そういうことになりそうだと思うのだ。

 ある人は男性である自分を、「差別者」や「加害者」、そこまでいかなくても「この社会におけるマジョリティ」として認識し、そのことに傷ついている。

 またある人は男性であることを「フェミニストによる男性差別の被害者」として認識し、そのことを憤っている。そしてまたまたある人は「マッチョな意味で一人前の男性」になれない自分自身を蔑んだり、哀れんだりして苦しんでいる。そういう状況がある。

 それがすべてまとめて「弱者男性(仮)」の「つらさ」として語られている感が、ぼくにはあるのである。不幸なことだ。「弱者男性(仮)」の皆さんには、ぜひ、幸せになってほしい。

 かれらが被害者意識を一転させて加害に転じるような「闇落ち」に至らないことを、切に願っている。