1.無償の愛は存在するか。
ふりそそぐ銀雨から足早に逃れ、ある店で雨やどりしていたとき、となりに座った少年のiPodから、かすれた歌が聴こえてきた。ひと昔前のラブソング。若い恋人たちの切ない別れの歌だ。
その哀しげなヴォーカルに耳を澄ましながら、ふとわたしは考えた。なぜ、わたしたちの文化はこれほど愛にあふれているのだろう。そしてなぜ、わたしたちの現実はこれほど愛に飢えているのだろうか。
愛とは何だろう。愛なしに生きていくことはできないのだろうか。とりとめのない思索。そして、少年が立ち去る頃には、そんな思いも消えていた。この社会ではだれも、愛について長く考え込んだりしないのだ――。
しかし、わたしはいま、この「旅」の第九駅で「愛」を主題に据えてみたい。ここでいう愛とは恋愛だけではなく、友人愛や家族愛も含めたより広い範囲の愛情を指す。愛は現代の最もありふれたテーマだ。せいぜい陳腐に堕さないよう努力しよう。
さて、わたしたちの社会には愛を主題にした物語があふれている。「無償の愛」を扱ったものも少なくない。
無償の愛。何も見返りを求めない愛ということだ。しかし、わたしがその言葉から連想するのは数ある純愛物語ではなく、山本周五郎の時代小説『さぶ』である。
『さぶ』は山本の最高傑作のひとつだ。ラブストーリーですらない男同士の友情の物語だが、これほど愛について考えさせられる物語をほかに知らない。
物語は、小雨が霧のようにけぶる夕方、両国橋をさぶが泣きながら渡って行くところから始まる。栄二がそのあとを追い、店をやめて実家に帰るというさぶをいたわりなぐさめ、また、励ます。
それから数年。栄二はその優れた才能を示し、職人として成り上がっていく。一方、愚図なさぶは日の目があたらないまま。
しかし、そんなあるとき、事件が起こる。栄二が冤罪によって寄場送りとなるのだ。栄二は濡れ衣を着せられた怨みと怒りによって別人のようになってしまう。そして、そんな栄二をさぶは献身的に支えつづける。
この物語の主人公は栄二だが、タイトルになっているように、より重要な役割をはたすのはさぶのほうだ。さぶが栄二に対してささげる無償の友情は印象的である。
物語全編を通してさぶは栄二を支えつづけ、しかも何ひとつ見返りを求めない。しかし、栄二はさぶのその「無償の愛」を疑い、何か狙いがあるのではないかと勘ぐる。
さぶの献身と栄二の疑念は対立し、対決し、栄二は最後の最後までさぶを疑いつづける。かれの心のなかでは自分を冤罪におとしいれた犯人や、自分の無罪を信じなかった親方たちへの復讐心が火のように燃えていて、ひとを信じるなどとてもできないのだ。
無実の罪を着せられたときかれが見た人間の姿、それは、いままで家族のように信じあっていたはずの仲間でも、あたりまえのように自分を見捨て、裏切るものなのだ、というものであった。
そんな残酷な現実、世界の真実を見たかれが、どうして「無償の愛」などという戯言を信じられるだろう。しかし、それでもなお、さぶは栄二を支えることをやめない。栄二自身がその友情を拒み、かれを疑い、否定したというのに、それでもさぶは献身を続ける。
さぶだけではない。さまざまな人々が栄二を支えようとする。ひとを疑い、拒み、寄せ付けようとしない栄二のために、無数の人々が骨を折る。それが栄二には信じられない。なぜだ。いまの自分に親切をしたところで何の得がある。かれはそう考える。
しかし、そういうかれ自身、かれと同じようにひとに騙されおとしいれられて生きてきた人足寄場の仲間たちを見捨てることができず、さまざまに親切を働くのである。
そのプロセスを通し、栄二はかつてあたりまえのように甘受していたさまざまなことが、決してあたりまえなどではなかったことを知る。
かれはたしかに不運であった。しかし、ひっきょう、運不運が何であろう。かれは十数年も同じ釜の飯を食った人々に裏切られたが、ほとんど付き合いもないような人々が助けてくれた。
あるとき、事故にあったかれを助けるために、寄場の仲間たちが集まってくる。そしてようやく栄二の心のなかで燃えていた人間不信の炎は静まる。否。このときようやくかれは「人間」を発見したのだ。
かれが新たに発見した人間とは、ときには平然とひとを裏切り、見捨て、そうかと思うと命を捨ててでも助けようとする、そういうふしぎな存在であった。それじたいひとつの「謎」としかいいようがない、ふしぎな、しかし愛おしい存在であった。
それでは、さぶはどうなのか。物語は一貫して栄二の視点で進み、さぶの内心はわからない。さぶがいったい何を考え、思い、栄二に対し献身を続けたのか。その本当のところは謎のままだ。
ただ、わたしにはわかるような気がする。献身といい、犠牲というが、さぶには栄二のために犠牲になったつもりも、我が身を捨てて献身しているつもりもなかったであろう。
栄二がそう感じていたように、自己犠牲には欺瞞が付きまとう。さぶの友情はそういう質のものではない。ただ、さぶはそうしたかったからしたまでだ。
さぶは栄二に同情していたのだろうか。それもあるかもしれない。しかし、同情というだけではかれの行動を説明しきれない。
ひとついえることは、栄二を支えることはさぶにとって「歓び」であったということである。つまりはさぶを栄二を好きだったのだ。愛するものにとって、愛することそのものが歓びである。
なぜすべてを失った自分にそんなにしてくれる、と問う栄二に対し、さぶはいいかえす。栄二自身がかつて両国橋で店をやめようとする自分を止めてくれたではないか。あれはいったいなぜなのだ、ひとのやることにはいつもわけがあるものではない、そうではないか、と。
栄二は困惑しながらも、さぶの言葉を受けいれざるをえない。さぶが栄二に示すのは、この世には「無条件の愛」が存在するという事実である。惜しみなく与えて何ひとつ見返りを求めない愛。それじたいが歓びであるがゆえに、あいてから何かを得ようとする必要がない、そんな愛。
2.世界をこの子のために。
読者のなかには、そんな愛が本当に存在するのかと(まさに栄二のように)疑う方もいるだろう。しかし、わたしたちはそれに近いものがあることを知っている。親が子に注ぐ愛である。
むろん、すべての親が子に対し無償の愛を注げるわけではない。しかし、そうであってなお、もしこの世に無償の愛というものが存在しえるとしたら、それは親の愛以外にない。
親は子を無条件に愛する。親は子と愛を巡って「取り引き」することもない。もし「もし泣きやんだら愛してあげる」とか「次のテストの点数が良かったら愛してあげる」といったかたちで取り引きするとしたら、それは無条件の愛ではない。
もちろん、どんな親も子を無限に許容することとはできない。親は子が間違いを犯したと感じたら叱るだろう。しかし、子が重い過ちを犯したとしても、親は子を愛することをやめない。
「無条件の愛」を備えている親は、たとえ子供が乱暴でも、テストの点数が悪くても、子供を見放すことをしないだろう。その欠点も汚点も、すべて含めて愛すること、それが「無条件の愛」である。
このような愛をもつ親に育てられた子供は、「見捨てられる不安」を抱くことなく育つかもしれない。これをしなければ見捨てられるとか、あれをしたら愛されなくなるといった不安とは無縁に育つのだ。
だからといってまっすぐに育つとは限らない、途中、道を間違えることもあるかもしれないけれど、少なくともその子は自分が何をしても親は無条件の愛を注いでくれるという自信をもって育つことになるだろう。
これはある意味で究極の自信である。自分の容姿に対する自信とか、積み重ねた技術に対する自信といったものは、結局、それが崩れればなくなってしまうもの。
しかし、自分の「存在」そのものに対する自信は何かを無くしたことによって揺らぐものではない。だから「たとえ世界が自分を責めたとしても、愛してくれるひとがいる」ということを深く心から信じている人間は、自己否定の不安に悩まされることはないと思う。
自己肯定感とは自分は賢いとか美しいという認識のことではない。自分がどんなに小さな人間でも、愚かでも弱くても醜くても、それをためらいなく肯定してくれるひとがいる、という深い信仰なのである。
それでは、「無条件の愛」を学習しなかった子供はどうなるのか。たとえば「テストでいい成績を取ったら愛してあげる」といった「条件付きの愛」のもとで育てられた子供は、大人になるにつれ「愛とはゲームである」と学習するだろう。
そして、この学習結果に従っているかぎり、かれは根本的な自己肯定感を身につけることができない。なぜなら、愛がゲームである以上、そのゲームにおいて勝者であるうちは愛を得られるけれども、敗者となったとたんすべてを失うことになることは明白だからだ。
こうして、かれらはそのゲームに熱中していくことになる。最後まで勝ちつづけることもあるし、途中で挫折することもあるだろう。そしてまた、ゲームに依存するあまり、心を病んでいくこともしばしばである。
いわゆる「心の病」にジェンダーの差が見られることは広く知られている。ひきこもりは男性に多く、摂食障害は女性に多い。これは男性が「成績競争で勝ちつづけたら愛される」という「条件」を、女性が「綺麗で可愛かったら愛される」という「条件」を学習しながら育つからだろう。
そしていったん「愛はゲームである」と認識してしまったひとは、勝っても勝っても、不安を取り除くことはできない。むしろ勝ちつづければ勝ちつづけるほど、無理はたまり、心はストレスにむしばまれていく。
「条件付きの愛」は依存性の薬物に似ている。一時は天にも舞いあがるほど心を高揚させてくれるが、いずれその効果が切れると副作用に心は乱れ、死んでしまいたいような気分になるのだ。
だから、社会は「無条件の愛は素晴らしい」というメッセージを発信する。それはしばしば「純愛」と呼ばれ、悲惨な現実を前にしても決して見捨てないような強い愛の物語というかたちを採る。
『ある愛の詩』や、『ノルウェイの森』、『世界の中心で愛をさけぶ』、純愛物語のベストセラーは数かぎりない。ひとはやはり「大人になってからも無条件の愛を見出すことはできる」という物語を必要としているのだ。
だれもが両親から無条件の愛を注がれているわけではないし、それにこの社会で生きることはその能力によって判定され、差別されていくことにほかならないのだから。
しかし、恋愛はどうしようもなく「条件付き」である。わたしたちは恋愛においてあいての容姿や性格を「品定め」し、付き合ってもよいかどうか判断する。そういう恋愛を物語のなかの「純愛」と比べて「不純」だというひとがいる。
そういうひとたちはときに現実を否定し、物語のなかに逃げこむ。それはそれでひとつの生き方ではあるだろう。そうでない人々は「条件付きの愛のゲーム」をそれなりに割りきって楽しむ。割りきって楽しむぶんには「条件付きの愛のゲーム」はとても楽しい。それは性的享楽とワンセットになった、大人の秘密の楽しみとでもいうべきものだ。
しかし、ほんとうに心が渇いているひとたちは、どうしてもそこで割り切ることができない。かれらはときに「無条件の愛」を求めてあいてに無理をいったり、次々とパートナーを変えたりする。そしてあいてを傷つけ、自分もまた傷つく。
それでは、幼児期に「無条件の愛」を注がれなかった人々はどうなるのか。一生、存在の孤独と愛への渇望を癒やすことはできないのか。そうではない、とわたしは信じたい。ひとは変わることができる。そのはずである。
3.『アウグストゥス』。
ヘルマン・ヘッセに『アウグストゥス』と題する短編がある。特別な運命を背負ったアウグストゥスという名の若者の一生を追った物語だ。
アウグストゥスが生まれたとき、最近夫を失ったばかりの母親は、名付け親のビンスワンガー老人に薦められ、迷ったあげく「この子が誰からも愛される人間になるように」と願いをかける。
彼女は金持ちになることよりも、権力を得ることよりも、愛されることのほうがより幸福をもたらしてくれると信じたのである。
この願いは叶い、アウグストゥスはだれからも愛される子供に育つ。そしてかれがとなりのビンスワンガー老人の家を訪れると、暖炉の火は赤く燃え、どこからか幾重にも重なった妙なる音楽が鳴り響き、そしてきらきらと光る子供たちでいっぱいになるのだった。それはアウグストゥスがそれまで見聞きしたものなかでも最も素晴らしいものだった。
しかし、アウグストゥスが12歳になる頃には、隣家を訪ねてもその光る子供たちの幻影を見ることはできなくなる。そして長ずるとアウグストゥスの魅力はさらに増してゆく。
何処に行っても彼の後を追い、身を捧げて仕える人々がいて、彼は微笑んで、かつて子供だった昔に小さな女の子から指輪を受け取ったのと同じ仕方でそれを受け取った。彼の眼や唇には願いを叶える魔力があり、女たちは濃やかな心遣いで彼を包み、友人たちは彼に夢中になった。そして誰ひとりとして――彼自身もそれをほとんど感じなかったのだが――彼の心がどれほど空虚に貪欲になってしまい、魂が病気になって苦しんでいたかが分らなかった。
やがてアウグストゥスは悪徳に心を捧げるようになる。かれを愛してやまない人々をだまし、裏切り、利用して使い捨てにすることに走る。悪徳だけが愛されることに疲れたこの若者を癒してくれた。そしてやがてかれは悪徳にすらも倦み、自殺を企てる。
ところが、そこにあのビンスワンガー老人が表れて、かれのかわりに毒杯をあおってしまう。そして、不幸に終わったアウグストゥスの人生のつぐないに、もういちどだけ願いを叶えてやろうというのだった。
この申し出にアウグストゥスは懊悩しつつも願う。「役に立たなかった古い魔法を取り去って、その代りに人々を愛することができるようにしてください!」。
ふたたび願いは叶い、アウグストゥスはすべてを失う。いままでの背徳の代償にかれはあらゆる人々から嘲られ、罵られ、最後には牢獄に入れられることになる。しかし、それと同時に、かれはいままでかれを強くさいなんでいたニヒリズムから開放される。
しかし今はどんな人を見ても彼は嬉しく心を打たれ感動した。遊んだり学校へ行ったりする子供たちを見るのが好きだった。家の前のベンチに座り、萎れた手をお日様に当てて温めている老人たちが好きだった。女の子を憧れに満ちた眼差しで追っている若い徒弟や、仕事を終えて、子供たちを腕に抱いて家路につく労働者や、夕方町外れの街灯の下に立って待ち、彼のような追放された男などにまで春をひさぐ、みすぼらしい身なりの娼婦を見たりすると、この人たちはみんな兄弟や姉妹なのだった。そして誰もが愛する母親の思い出や、もっと良い生れや、もっと素晴らしく、もっと高貴な運命のひそかな印を身に帯びており、誰もが愛しく注目に値し、良く考えるきっかけを与えてくれ、そして誰ひとりとして、自分で感じているほど悪人ではないのだった。
そしてアウグストゥスはついにあのビンスワンガー老人の家にたどり着く。老人は以前と同じに迎え入れてくれた。そして、あのかすかな楽しい音楽がどこからか聴こえてき、無数の小さな精霊たちがふわふわとただよいやって来て、精巧にからみ合って旋回する。
アウグストゥスはそれを見、耳を済ませ、「その感じ易い子供の感覚のすべてを遥かに再び見いだした楽園の中に解き放った」。アウグストゥスは救われたのである。
この寓話が示していることはだれの目にもあきらかであろう。ひとはただ愛されているだけだと、いずれそれに慣れ、倦み、退廃的な心境におちいっていく。
しかし、ひとたび愛することを覚えれば、それは世界を薔薇色にもかがやかせ、だれもが少年時代には知っていたはずのあの黄金の楽園へと誘ってくれる。愛されることより愛することのほうがより偉大な祝福なのだ、と。
あるいはあなたはこの物語をありふれた偽善に過ぎないと考えるかもしれぬ。ひとは愛されることによってのみ幸福になれるのであって、愛されることなしに愛することなどできないのだ、と。
しかし、それならばこの世はやがて愛されることだけを望み、愛することを知らない人々によって占領されるはずである。わたしたちはどこかで憎悪と復讐の鎖を断ち切らなければならない。ひとを愛することを知り、そのことによってわたしたち自身を救いださなければならない。そう思う。
「内なる蛇」はまたも囁くことだろう。「お前自身がそのようには愛されなかったというのに、なぜお前の息子に「無条件の愛」をくれてやる必要がある?」と。
しかし、愛はわたしたちの奥のいのちの泉から湧きだしてくる。捧げれば捧げるほどに、わたしたちは自分自身を癒していくのである。
つまらない綺麗事と思われるだろうか? 与えられることではなく与えることがひとを救うなど信じられないと? それでは、愛することがひとをどのように変えるものか、その真実を示したひとつの物語を読んでみよう。羅川真里茂の傑作『ニューヨークニューヨーク』である。
4.愛の報酬。
『ニューヨークニューヨーク』はアメリカの同性愛者の警察官ケインを主人公にした一連の物語からなる。自由の都ニューヨークで、放蕩を尽くしながら生きていくこの青年は、あるときのちに生涯のパートナーとなる若者メルと出逢って人生が変わる。
しかし、ここで取り上げたいのは、ケインとメルのことではなく、ケインの母親の物語である。息子にゲイであることをカミングアウトされた彼女は、その事実を受け入れることができず、悩み、苦しむ。彼女はいずれ息子が結婚し、孫を抱かせてくれるものと思い込んでいたのだ。
息子は彼女のその期待と夢を無残に打ち砕いた。彼女は息子を愛しているが故に、どうしても同性愛者としてのかれを受けいれることができない。
彼女は息子と口論し、傷つけ、傷つけられる。しかし、長い葛藤の末に、彼女はついに息子を受けいれることを決心する。彼女は思う。夫をはじめ、いままで自分が出逢ってきた人々は、そのヒューマニズムを自分に分け与えてくれた。
いままた、自分の世界は広がっていこうとしているのだ、と。そして、彼女は息子が精神的危機におちいったとき、だれよりも力強くその心を支えるのだ。
これこそ愛すること、受けいれることの報酬である。もしケインが異性愛者で、彼女の期待を裏切らなかったとしたらどうだろう。彼女は傷つくこともなく、悩むこともなく、つまり戦うことなく人生を終えることができたであろう。
しかし、そのとき、彼女は同性愛者を初めとするマイノリティの人々に対する偏見と差別を一生涯正すことなく終わったに違いない。
あるいはそれはそれでひとつの「幸福」ではあるのかもしれない。が、そこには予期せぬ真実と向かい合い、苦しみ、傷つきながらもそれを乗り越えて世界を広げる感動、つまり戦場感覚者の感動はない。
彼女は息子を無条件に愛することによって、それにふさわしい報酬を得たのである。アウグストゥスの選択は間違いではなかった。
ひとは、愛されることではなく、愛することによって変わっていくことができる。わたしたちがだれかを無条件に愛することによって発見するもの、それはそのあいてのかけがえなさの感触である。
かれにいかなる欠点があるとしても、かれが自分の人生に迷惑をかけ、かれのために不便を強いられるとしても、それでもなお、かれの存在はかけがえがなく愛おしいという実感。
第一駅で、わたしは選択的中絶やヒューマンエンハンスメントについて語った。もういちど振り返ってみよう。わたしたちはなぜより強く、賢く、美しくありたいと思うのだろうか。あるいは、なぜ自分の子供にそうあってほしいと願うのだろうか。
そこにあるものは「完全」を指向し、「不完全」な現実を否定する意思である。しかし、不完全な現実の人間を否認しつづけるなら、当然、そんなあいてに対し無条件の愛をそそぐことなどできない。
そのとき、愛はあいてに無数の「条件」を課し、それに応えさせることによってあいてをより「完全」へと近づけていこうとする欲望という形を取るだろう。
一方、「無条件な愛」は不完全なあいてをそのままに慈しむ。あいてのその不完全性、弱さも愚かしさもすべて含めて愛するのだ。そのとき初めてひとは同様に不完全なこの世界や、自分自身を愛することができるようになるだろう。
どんな種類のものであっても、能力は常に代替可能である。いかなる不世出の天才といえども、ほかの存在をもって代替しうる。
たとえば、いまアメリカの大統領が倒れたとしても、だれかがかわりにその職を務めるだけだろう。しかし、存在は代替不可能だ。たとえそのひとが能力的にひとより劣っているとしても、そのひとの存在は唯一無二であり、何者かによって代わりがきくようなものでは全くない。
その絶対唯一性を個の性と書き「個性」と呼ぶ。ひとの個性とは、他人と比べて傑出している性質をいうのではない。そうではなく、いかなる傑出した性質によっても換えることができぬ「かけがえのなさ」をいうのである。
あなたはかけがえがない。わたしもまた、かけがえがない。世界はかけがえのない音で満たされた、二度とは再演されない音楽である。わたしはそんな世界を、わたし自身を愛する。
もちろん、わたしは世界のすべてを容認することはできない。ときにわたしはだれかの愚かしさに腹を立てる。不条理な出来事にあえばうんざりして嘆く。
しかし、それでもなお、わたしはこの世界を愛している。それは親がわが子を愛するのと同じ愛だ。わが子が不器用であったり、未熟であったりするほどに、よりいっそう愛おしく感じるような愛である。
そこには何ひとつ「条件」は存在しない。むろん、神ならぬひとである以上、時折り「蛇」の囁きに耳を貸したくなることもあるだろう。そしてまた、じっさいにむやみと腹を立てて怒鳴り散らしたりするようなことも、時にはある。愛は常に試練にさらされているのだ。
しかし、それでもなお、愛することの「歓び」はわたしを導きつづけるだろう。だから、わたしは、稚拙であるがゆえにいっそう胸にせまる演奏を愛するようにこの世界を愛する。
たとえだれひとりとしてわたしを愛さないとしても、わたしはこの未完成で不完全な世界をそのままに愛するであろう。
その愛は、大聖堂に響きわたる天使の音楽さながら、この世界に響いていき、どこか遠い場所にかすかな残響をとどかせる。そう、この世界にはそういった愛の残響がみちているのだ。見知らぬだれかの愛なしにはわたしはここにこうしてあることはなかった。
だからもっと耳を澄まそう。愛の歌が聴こえてくるように。
コメント
コメントを書く見知らぬだれかの愛なしにはわたしはここにこうしてあることはなかった。
この文章が心に刺さりました。つい、私はあの人にああしてあげたのに…分かってくれないなどと考えてしまうんです。さもしいですね。自分も人からの愛によって存在してるんだから、心を広く持たないといけないなーと思いました。
まあ、なかなかむずかしいですけれどね。ここで第二部が終わり、次から第三部に入ります。