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「でも、……ぼくはなにをすればいいの?」
「学校にいって、遊んでいればいいんです。ほかの男の子のように。」
「ぼくは、ほかの男の子じゃないんだ。」

 素晴らしかった。どういえばいいのだろう、とにかく素晴らしいのだ。読む前から期待していたが、その期待を上回る出来だった。

 物語は、ひとりの少年が舞台に立つところから始まる。かれの名はデューン。伝統あるロイヤル劇場では最年少のソロ。そこから時間は過去へと戻り、デューンがその舞台に立つまでの道のりを描いていく。

 このように書くと、なんだよくある天才少年ものか、と早合点される方もおられるかもしれない。一面ではその通りではある。デューンがバレエの天才であることは疑いようもない。

 しかし、かれの姉クリスタルと、母モードの存在が、この物語にほかにはない深みを添えている。

 クリスタルはこの作品のもう一方の主人公と言っていいだろう。モードにとっては待望の女の子で、彼女に溺愛されて育つことになる。そしてその愛こそがすべてを狂わせていく。

 むかし踊り子だったモードは、クリスタルの将来に期待をかけ、彼女をバレリーナに育てようとするのだ。じっさい、クリスタルにはそれだけの天稟があった。しかし、甘やかされ、贔屓される暮らしのなかで、次第にその才能は色褪せていく。

 一方、デューンはバレエを踊るために生まれてきたような子供だった。その天才はだれにでもひと目でわかった――かれの家族以外には。

 息子に普通の子供であることしか求めない父親と、クリスタルにすべての夢を託した母親は、デューンを決して認めない。そして、そのクリスタルはかれをさんざん苛めぬく。その態度はやがて虐待に近いものにまでなっていく。

 すこやかにのびていこうとするデューンの才能は、くりかえし、くりかえし、じつの家族によって踏みつけられる。

 しかし、それでもなお、デューン、その天才は、折れることなく芽を出し、茎をのばし、花を咲かせていく。まるで、みにくいアヒルの子が、美しい白鳥に変身しようとするように。

 母に認められなくても、家に居場所がなくても、ひとたび舞台に立てば、デューンほど華麗に踊る者はいない。そう、かれこそはバレエダンサー。生まれつき、見えない文字で額にそう記された「踊る者」。

 失意がかれのバレエを育み、孤独がかれのバレエを磨いていく。求めても得られない愛の代わりに、拍手と賞賛を手にいれる術をデューンは学ぶ。そしてやがては万人がかれの天才を認めるまでになっていく。

 ただそれだけなら、単なる芸術家の苦労話といって済むことかもしれない。辛いこともあったが、それすら成長の糧だったと。ところが、これらの残酷なほどの試練にもかかわらず、より深く苦しむことになるのは、クリスタルのほうなのだ。

 家族の理解を得られなかったデューンは、その代償のように行く先々で理解者を見つける。だれもがかれの才能を愛し、その天真爛漫な性格に惹かれていく。

 デューンはだれも恨まない。悪意の塊のようなクリスタルにまで深い愛情を注ぎ、裏切られても裏切られても愛することをやめないのだ。

 それに対し、クリスタルは長じるにつれて弟の才能に嫉妬するようになる。彼女はありとあらゆる手管を用い、弟をバレエから遠ざけようとする。まるでシンデレラの意地悪な姉のように。

 凡庸な作家なら、デューンの人生の障害物、どこにでもいる意地の悪い女性としてクリスタルを描き、それで済ませてしまっただろう。ルーマ・ゴッデンは違う。

 物語が後半に入り、デューンの才能が輝きはじめると、初めはただの「意地悪な姉」だったクリスタルは、デューン以上に屈折した内面を抱え、その美貌と才能のためにかえって荒んでしまった少女として、見違えるような魅力を放ちはじめる。

 可愛い、美しい、優雅なクリスタル。しかし、彼女にはデューンほどの才能はない。バレエ以外のことなら、何もかも彼女が優れているだろう。バレエ以外のことなら。しかし、バレエは彼女を選ばなかった。

 あたりまえのように頭角をあらわしていく弟への嫉妬が彼女を苛む。そのあいだにクリスタル自身も稀有な才能を発揮しはじめるのだが、彼女にはそれだけでは足りないのだ。

 そして、運命は彼女にいままでの成功の対価を支払うことを求める。信じていたものに裏切られたクリスタルは、自分自身に絶望し奈落の底へと突き落とされていく。

 くらやみの底から光のなかへ駆け上がっていく弟と、光のなかから暗黒へ堕ちていく姉――その劇的な明暗! その時点でこの作品は優れた児童文学という次元を超え、一本のきわめて優れた小説としか云いようがないものになる。

 発売日から考えてありえないことだが、