弱いなら弱いままで。
感情的であることが人間らしさの証だとは思わない。
今回の総選挙へのネットの反応を見ていて思ったのだが、たぶん、世の中には「冷静になり感情を切り離してものごとを考えること」は「悪」である、という思想があるのだろうね。
つまり、「目の前でこんなひどいことが起きているのに冷静になっている場合か!」という意見だ。
何か「ひどいこと」が起こった時、感情的な態度を選択しない人間は「冷たく」、また「非人間的」に見えるということなのだろうと思う。
「ひどいこと」が起こったら、あるいは起こりそうだったら、目一杯嘆かなくてはならない。感情的にならなくてはならない。そうしようとしない人間は人間的ではない、そういう理屈だろうか。
あるいは、原発問題でもヘイトスピーチでも何でもいいのだが、何か「ひどい現実」がある時、それを純粋に理論的に考えようとすることは、問題を真剣に捉えていないように思われるのかもしれない。
つまり、そういう時、いっしょになって「何てひどいんだ!」と怒らない人間は非情であるとみなされるのだ。
しかし、「冷静になれ」と「冷静になっている場合か!」というふたつの選択肢があるとき、いつも前者を選べるようでありたいものだと個人的には思う。冷静さを失っても良いことなどひとつもないと考えるからだ。
ある危機感を抱いてあせっている人にとって、同じようにあせっていない人は愚鈍に見えるのだろう。しかし、その人は愚鈍なのではなく、ただあせっても仕方ないことを知っているだけなのかもしれない。
この「冷静になっている場合か!」論法はいくらでも応用が効く。「大震災が起こったのに冷静になっている場合か!」とか「原発が爆発したのに冷静になっている場合か!」とか。
だが、じっさいにはそういうトラブルの時にこそ冷静になって考えなければならないのではないか。
この場合の「冷静さ」とは「自分もまた感情でものをいっている一面もあることを認める」ことも含まれる。逆説的だが、「自分だけが冷静で他の人はみな感情的」という見方はちっとも冷静でない可能性が高い。
「自分も他人もなかなか冷静ではいられない」という事実を見据えた上で、「だからこそ冷静になれるよう努力しよう」と訴えかけることが冷静な態度だと思う。
いつだって、冷静になって考えることには意味がある。どんなにひどいことが起こったとしても、だから冷静さを失ってもいいということにはならない。
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