インターネットは皮肉屋の集まり、ネットでは教条的な意見は陳腐な道徳的説教とみなされ軽蔑されることが少なくない。
だから、ここでぼくが「幸せはお金では決まらない」といったら、さぞかしたくさんのシニカルな反論が返ってくるかもしれない。
しかし、それはたくさんの統計調査によって立証された事実なのである。
たしかに、収入と幸福に相関関係はある。ある程度は。
だが、収入が一定額を超えると、そこから先は驚くほどわずかしか幸福度が上がらないというのが心理学者たちが出した意見だ。
お金と幸福について書かれた論文は数多いが、そのほとんどが同じ結論に至っている。
曰く、お金がまったくないことは不幸だが、一定額以上お金を持っていることは必ずしも幸福を意味しない。
また、宝くじがあたるといった幸運なライフイベントの効果もすぐに切れてしまう。
ひとはお金では幸せになれないのだ、と。
冷笑家たちがどんなに笑い飛ばしても、この事実は揺らがない。
このいささか道徳的に過ぎるようにも思われる結論にどうにか異論を提示しようとしたのが、『「幸せをお金で買う」5つの授業』の著者エリザベス・ダンとマイケル・ノートンである。
もっとも、かれらはただお金を使うだけでは幸せになれないことを認める。つまり、かれらに先行する17000ばかりの論文に敬意を表する。
しかし、そこからさらにひとつの問いをつなげるのだ。
それでは、お金をもっとうまく使ったとしたらどうか?
つまり、平凡な使い方では容易に幸せになれないとしても、より気の利いた使い方をすれば違ってくるのではないか?
その気の利いた使い方とは、具体的に以下の五か条で表される。
1.経験を買う。
2.ご褒美にする。
3.時間を買う。
4.先に支払って、あとで消費する。
5.他人に投資する。
これがつまり、「5つの授業」である。
もっとも、これだけではなんのことやらわからないだろう。もう少しくわしく解説しよう。
第1条の「経験を買う」とは、お金を「モノ」ではなく「経験」に支払うようにするという意味である。
いまでこそシンプル・ライフが称揚されるようになったが、それでもまだ、幸せを手に入れるためにはモノを買わなければならないと思い込んでいる人は多い。
モノはなんといってもそこに確固とした実体として存在しているという安心感がある。
それが自分のものになるのなら、お金は惜しまないという人は少なくないだろう。
それに対して、「経験」はいかにもあいまいである。
たとえば、ロケットに乗って宇宙空間まで駆け上がり、わずか数分間だけそこから下界を見下ろすといった経験に数千万円の価値があると信じることは簡単ではない。
それはたしかに胸躍る経験ではあるだろう。だが、あとには何も残らないではないか?
それに比べて高級車や薄型テレビは、少なくとも数年のあいだは実体として残る。
お金の使い道として、モノよりも経験を優先することはばかげているように思える。
ところが、それがそうでもないのだ。
なぜか? それはつまり、人間がきわめて順応性の高い生き物だからである。
ひとは、どんなモノにもあっというまに慣れてしまうのだ。
たとえば、高価な家に住んでいると、その家に対する満足度はしばらくは高いまま続く――しかし、生活そのものに対する満足度は一向に上がらないのである。
それに比べて、経験にお金を使うなら、ひとは後悔をせずに済む。
なぜなら、記憶の万華鏡のなかでは、何かしらの失敗や挫折すら美しく見えてくるから。
ひとは「やらなかったこと」こそを悔やむ生き物なのだ。
第2条の「ご褒美にする」は、そのお金の使い道を「ご褒美」として特別な体験にするということである。
これも人間の飽きっぽさと強く関係している。
ひとはただ味わうだけではあっというまに飽きてしまう。
たとえば、美味しいチョコレートを山ほど食べられるといった経験をすると、ひと粒ひと粒のチョコのありがたみを感じなくなってしまう。
ところが、ここでチョコを食べることを「ご褒美」に変え、簡単にはチョコを食べられないようにすると、そのチョコの美味しさは劇的に向上する。
これを