現在SEAdLINNNGのレフェリーとして高橋奈七永を支える南月たいようインタビュー。全日本女子プロレス末期にプロレスラーデビューした、南月レフェリーが見た女子プロレス界を14000字でお届けします!
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【アジャコング インタビューシリーズ】
①「あの頃の全女はAKB48やジャニーズだった」
②恐るべし全女の異種格闘技戦/ダンプ松本、究極の親分肌
③偶然と必然が折り重なった「アジャ様」覚醒の瞬間
④ブル中野・2年間戦争/バイソン木村との哀しき別れ
⑤対抗戦ブームの終焉と全女退団……
⑥さらば! 私が愛した全日本女子プロレス
――現在はレフェリーとして活躍されてますが、全日本女子プロレス末期に入団されて。
南月 全女に入るきっかけはフジテレビで放送されていた『格闘女神ATHENA』なんですよ。
――深夜のフジテレビにやっていた全女の中継番組ですね。
南月 そうです。当時はテレビをつけたら何かしらプロレス番組をやっていたので、三沢(光晴)さんの試合とかも好きでよく見ていました。そんなときに、たまたま女子が試合をしているのを見て「女子プロレスもあるんだなあ」と。
南月 そこから見るようになったんです。『格闘女神ATHENA』は月に1回しか放送されていなかったのですけど、つんく♂プロデュースで『キッスの世界』がCDデビューするということで、ちょうどプロモーションビデオが流れていまして。
――高橋奈七永、納見佳容、脇澤美穂、中西百重のプロレスラーアイドルユニットですね。
――全女といえば優待券ですが、校門の前で?
南月 そうなんです(笑)。通っていた高校は、川崎市体育館から徒歩5分ぐらいの場所だったので会場から近いし、配るのにはちょうどよかったんでしょうね。
――いまだったら問題になってるでしょうね(笑)。
南月 当時も許可は取っていなかったんでしょうけど(笑)。その優待券に『キッスの世界』と書いてあるから「あの人たちだ!」と。しかも優待券があれば1500円で見られるので、帰り道に見に行ったんです。そこからですね、本格的に全女にハマっていったのは。
――優待券が人生を変えたわけすねぇ。
南月 ホントにそうなんです(笑)。プロレスラーといったら身体が大きくないとできないし、怪物的なイメージがあったんですけど、中西百重さんなんかは小さいのに強くて。「こんな小さい身体でも戦えるんだ!」とハマっていきました。当時は高校生だったのをいいことに、教室や図工室なんかをフル活用していまして。教室で紙テープを何百本も巻いたり、図工室で垂れ幕を作ったり(笑)。
――ガハハハハハハ!
南月 授業を抜け出して自転車で『キッスの世界』のイベントに向かってましたね(笑)。川崎から全女の目黒ビルまで自転車をこいでガレージマッチを見に行ったりもしてて。制服のまま選手の出待ちです(笑)。
――熱すぎますねぇ(笑)。出待ちは多かったんですか?
南月 いっぱいいましたよ。それにファンの中にも“位”があるんですよね。選手ごとに公認ファンクラブがあって「垂れ幕は先輩より先に貼らなきゃいけない」とか決まりもあって。自分はモモ(中西百恵)のファンクラブに入ったんですけど、ファンクラブの会長にスカウトされたことだったんですよね。
――制服姿で自転車で駆けつけるぐらいだから見所あるんじゃないかと。
南月 いろんな人がいましたね。選手の送り迎えをしている人もいたし、ファンクラブでお金を出し合って選手にシューズをプレゼントしたりとか。
――パトロンじゃないですけど、衣装を作るためにけっこうなお金を渡したりするようなファンも昔はいたみたいですからね。
南月 選手公認のファンクラブなので入会すると、モモにもあいさつに行くんですよ。「ファンクラブ入りました!」って。ほかの選手のファンクラブもあるので、全ファンクラブの集まりに参加したときは、それぞれのファンが50人ずつぐらいいて。
――それは圧倒されますね! 各ファンクラブは具体的にどんな活動をしていたんですか?
南月 自分はモモのファンクラブしか知らないんですけど、会報誌を作ってたりもしてました。会員が質問を書いてモモに答えてもらうと。あとは、ファンの人が撮った写真を載せたり、モモの戦績を記録したり。コンビニで印刷したような会報誌なんですけど、会報誌でしか見られない情報もあって。
――ファンクラブのメンバーが一緒に応援することもあったんですか?
南月 ありましたけど、基本は自由でしたよ。たぶんモモのファンクラブは恵まれていたんだと思います。ほかの選手のファンクラブは派閥があったかもしれないけど、モモのファンクラブは若めの人が多かったし、半分以上は男の人でしたし。あと、そのうち『格闘女神ATHENA』でアテナフレンズという企画が始まって、中高生をビッグマッチに招待するようになったので同年代の友達も増えましたね。会場が後楽園ホールのときはアテナフレンズの席が必ず北側なので、テレビに映って。「イエーイ!」みたいな感じで楽しかったですねえ。
――高校生活は全女の追っかけでかなり忙しかったんですね。
南月 深夜に自転車をこいで、全女がやってたカラオケボックス「しじゅうから」まで駆けつけることもありましたから。あそこでよくファン向けのカラオケイベントなんかをやっていたんですよ。
――夜中にイベントですか?
南月 部屋取りですね。カラオケボックスなので一部屋ずつ区切られているんで、各部屋を選手が回っていく感じでなんですけど。ファンは各部屋で待っているんですよね。で、けっこう広めの部屋は1人とか少人数で来た子とかが一緒にされちゃうんですよ。でも、やっぱり小さめの部屋を仲間内だけで取れたほうが楽しめるじゃないですか。だから、5~6部屋しかないその小部屋の取り合いで、夜中に場所取りに行ったりという。
――それで夜な夜な場所取りしてたんですか(笑)。
南月 ウチらは高校生だから、働いている人と違って自由に動けるじゃないですか。だから「絶対、夜中に行けば取れる!」と到着したら、すでに2~3部屋取られていて(笑)。
――熱狂的なファンがいるんですねぇ。
南月 あと交通事故で死にそうになったこともいっぱいあったし。当時は、片手に自転車のハンドルを握って、もう片手に1000個の紙テープを持って、後ろには垂れ幕やのぼりを刺して凄い幅をとって運転していたんですよ。だから車に轢かれそうになって。
――危ないですよ!!(笑)。1000個の紙テープや垂れ幕とかの応援グッズは普段は家に置いてあるんですか?
南月 いや、垂れ幕とかは学校です。
――学校に全女の垂れ幕(笑)。
南月 もう学校では好き放題やってましたから。卒業するときなんかも自分から卒アル委員に立候補して、卒業アルバムにモモの写真を載せたりしていましたから、全然関係ないのに(笑)。
――ガハハハハハハハハハハハ!!
南月 「モモ、卒アルに載ったよっ!」と本人に報告して(笑)。卒業式後のクラスの集合写真なんかも、黒板に「全日本女子プロレス最強!」と書いて撮りましたからね。
――それがみんなの一生の思い出として残ってるわけですか!(笑)。
南月 いまでは「なんかプロレス好きなヤツがいたなあ……」と思っているかもしれないですね(笑)。
――話は戻りますが、目黒ビルのガレージマッチのチケットはいくらだったんですか?
南月 あんまり覚えてないですけど……3000円とかかな? ガレージマッチは月2回ぐらい開催されていて。30人ぐらい入るのかな? いやでも、もっと凄い人で周りには人があふれてました。リングでかぶりつきで見られましたし、そこでしか見られない試合もあったので。夏とかは水を撒いたり、水鉄砲の中にタバスコを入れて打ち合ったり。お客さんもみんなずぶ濡れになるという(笑)。
――通常の試合とは違ったファンサービスだったんですね。
南月 高校生の自分が一番遠くに遠征したのは山形ですね。
――山形まで行ったんですか!
南月 休みの日だったと思うんですけど、近隣の駅に着くと、地元のスーパーとかに立ち寄って優待券を探したりもすんですよ。
――全女の地方興行には欠かせないですよね(笑)。
南月 地図を見ながら会場を目指して、全女の地方は屋外が多かったじゃないですか。会場を囲うブルーシートが見えてきたりして「……あ、会場が見えてきた!」みたいな。
――選手や関係者から「こんなところまで来たの!?」とビックリするでしょうね。
南月 それがまたファンとしては嬉しいんですよ。そのうち中西百重の応援団としてテレビにも抜かれるようになって。まあ、ウチらは特別というか、いまだに言われるぐらいファンの中でも有名でしたよね。
――伝説の応援団だったわけですね。
――「百」と「重」のTシャツ(笑)。
南月 ウチが「百」で友だちが「重」だったんですけどね。だから、ウチが全女の入門テストに行ったときは、選手たちに「“百”が来た!」って騒がれましたね。
――ハハハハハ! 高校卒業後は全女に入ることは決めていたんですか?<14000字の記事はまだまだ続く!>
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コメント
コメントを書く熱い青春ですねえ。ほんといい話です。
そして全女は最後まで全女イズムだったんですね。