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GAEA JAPANの「驚異の新人」とは何だったのか? 長与千種が1995年に旗揚げした女子プロレス団体GAEA JAPANの1期生としてデビューした加藤園子インタビュー。17000字でお届けします!
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【アジャコング インタビューシリーズ】
①「あの頃の全女はAKB48やジャニーズだった」
②恐るべし全女の異種格闘技戦/ダンプ松本、究極の親分肌
③偶然と必然が折り重なった「アジャ様」覚醒の瞬間
④ブル中野・2年間戦争/バイソン木村との哀しき別れ
⑤対抗戦ブームの終焉と全女退団……
⑥さらば! 私が愛した全日本女子プロレス
――加藤さんがプロレスを始めたきっかけはなんだったんですか?
加藤 私はクラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)ですね。小学校1年生のときにクラッシュギャルズが歌っている姿をテレビで観たのがきっかけです。もともと叔母がプロレス大好きで。叔母さんの家に遊びに行くと、いつもプロレスを見ていたんですよ。でも、男子プロレスに興味はなかったし、小学生はどうしてもアニメのほうが見たいじゃないですか。だから「プロレスじゃなくてアニメを観たいのに!」って。でも、あるとき女子選手がリングの上で歌っていたのが凄く衝撃的で。「これはなんだ!?」って。
――それだけのインパクトがあったんですね。
加藤 たしか、あのときは全女の中継の前に、ロボコンだったかなあ。特撮キャラクターの番組にクラッシュギャルズが出ていたんですよね。そのあとに全女の女子プロ中継で歌って戦って……という感じだったと思うんですけど、そこで私の何かが撃ち抜かれました(笑)。
――そこから女子プロ入りを目指したんですか?
加藤 そうですね。中学生卒業の時点でプロレスラーになりたかったんですけど、当時はオーディション通過の基準が身長160~165センチで。私は背が低かったこともあったので、親は鼻で笑う感じでした。なので普通に高校に進学して。当時の私たちのアイドルは光GENJIだったんですけど、光GENJIと同じぐらい女子プロレスに熱中してましたよ。いわゆる追っかけですよね。
――相当熱烈に追っかけていたんですか?
加藤 長与千種のファンクラブに入ってましたから。長与さんはもう引退されてたんですけど。
――ファンクラブの会員は何人ぐらいいました?
加藤 ファンクラブのツアーでどこかに行くとなると、観光バス4~5台ぐらい出ていたので、200人以上はいたと思います。
――引退してもそのパワー!
加藤 クラッシュギャルズの2人が引退されたのは私が中学校のときですよ。私が高校生のときも人気はまったく衰えていなくて、そのぐらい熱いファンがいましたね。何かの集いや催し物があると必ず行ってましたね。映画撮影やテレビ撮影の観覧希望を出したり。
――本当に長与千種マニアだったんですね(笑)。
加藤 私、オタクなんですよ。何か一つを好きになるともうダメ。その体質はいまでも変わってないんですけど。実家は愛知県の春日井だったんですけど、あんまりプロレスの巡業が来るようなところじゃなくて。いまみたいにネットで情報を集められるわけじゃないので『週プロ』や『ゴング』とか雑誌でチェックしていました。そのときに好きだったのが全女とJWPだったので、愛知県内に来るとわかったらすぐにチケットを買ってましたね。
――それだけ情熱があるのに、体格の問題をクリアできなかったのは大きな悩みだったんでしょうね。
加藤 でも、当初は身長160センチに届いていないチャパリータASARIさんが、身長の制限を破って全女に入門したことが衝撃的だったんですよ。「じゃあ、私もできるじゃん!」と。たぶん、私の記憶では身長の壁を破ったのはチャパリータASARIさんが初めてだったんですよね。
――チャパリータASARIの登場は革命的な出来事だったという。
加藤 ただ、将来は現実的なところでいうと体育の先生になりたいなと思っていたんです。あとは「大人になったら絶対にゴルフが必要だから」ということで父親にゴルフも習わされていて。それとは別に父親は宝塚も好きだったので、宝塚を観にいく機会もあって、そっちにもハマってましたね。
――かなり多趣味ですね、お父さんも含めて。
加藤 でも、両親ともプロレスは大っ嫌いなんですよ! だから、父親は高校卒業後の進路を決めるときに「大学は出なさい」と。でも私は大学に行く気がなくて、プロレスに入りたいと言ったんですけど、大学かせめて宝塚ならいいという感じで。身長が低いし、宝塚なんか入れるわけないんですけど(笑)。
――宝塚も相当な難関ですよね(笑)。
加藤 父親はプロレスが相当イヤだったんでしょうねえ。でも、私は長与千種さんが新しい団体を旗揚げするという情報をファンクラブの集いで知っていて。
――GAEA JAPAN旗揚げの情報をすでにキャッチしてたんですか?
加藤 いや、まだGAEA JAPANという名前は出ていなかったんですけどね。その頃、長与さんは現役復帰されてJWPには上がっていたんですよ。だから私は「長与さんが上がる団体がいい」ということでJWP入門を考えていたし、やっぱり全女もブランドのある団体だし……と迷っていて。長与さんが新団体を旗揚げするという情報を知ったのは、ちょうど高校を卒業する年だったんです。
――それは運命を感じますねえ。
加藤 だから「GAEAは長与さんが私のためにつくってくれた団体なんだ!」って(笑)。
――ガハハハハハ!
加藤 凄いでしょ?(笑)。でも、ちゃんと根拠もあるんですよ。ファンクラブの集いでも長与さんは私のことは認識してくれてはいたので。
――200人以上いるファンの中でも加藤さんはかなり目立つ存在だった。
加藤 私が最初にファンクラブに参加したのが15歳だったんですよ。でも、ほかの人は20歳を超えている女性陣が多くて。私だけちょっと若いし、部活もバリバリやっていてボーイッシュだったので、キレイなお姉さまたちが多い中ではちょっと目立ってたんですよね。
――若いのに一生懸命参加してくれて、長与さんも可愛がってくれたんですね。
加藤 あるときファンクラブのイベントの最後に、長与さんに直接「じつはオーディションを受けたいと思っています」と直訴したんです。そしたら「履歴書を送りなさい」と。だから両親に内緒で履歴書を送ったんですよね。でも、その書類審査の合格通知が届いたんですけど、しばらく母親に隠されていたんですよ(笑)。
――親御さんの気持ちはよくわかります(笑)。
加藤 届くはずの通知が来ないから、こっちは「どうしよう、会社に確認しようかな? でも落ちているかもしれないし……」って凄く困ってて。仕方がないから恐る恐る母親に「なんかさ、私に届いてなかった?」と聞いたんです。そしたら「座りなさい」と。
――それで家族会議が始まるわけですか。
加藤 まず、ハガキを隠されたことに泣きながら抗議しました。そしたら父親が、オーディションを受けても背が低いからどうせ落ちるだろうと。それで納得して次の道に進めるんだったらいいんじゃないか……ということで、一度だけオーディションを受けていいという許可が出ました。
――オーディションはどこで行われたんですか?
加藤 新横浜にあったGAEA道場です。そのときは150~200人ぐらいはいたのかなあ。高3の9月だったんですけどね。
――かなり多いですね。
加藤 当時は対抗戦ブームのちょっとあとぐらいだったからですかね。それで女子プロのファンになって受けた人も多かったのかもしれないですね。
――オーディションの内容はどういうものだったんですか?
加藤 腕立て、腹筋、スクワット、縄跳び、あとは自分の特技とか、まあ一通りですね。それから簡単なマット運動もあったのかなあ。何人かいっぺんにスタートする感じで、長与さん、KAORUさん、ボンバー光さんの前でやりました。あとはフロントスタッフの方もいたか。
――本番に向けては万全の準備もして。
加藤 そうですね。家では腕立てとかもやっていたんですけど、こっちは緊張もしているし、ペースが違うんですよね。自分のペースでは50回腕立てできても、「はい、1、2、3、4……」と試験官のリズムに乗ってやらないといけなかったので。もちろんクリアはしたんですけど、楽々ではなく泣きながらやってました。
――合格したのは何人ぐらいだったんですか?
加藤 1期生は13人デビューしているのでその13人と、あと補欠みたいな子もいましたね。参加者が150人ぐらいだとしたら1割程度だったと思います。オーディションに合格すると、そのあと10月頭ぐらいに親子面談みたいなこともあったんですよ。こっちは未成年だし、実家を出て入寮しないといけないので。でも、合格したのに父親は最後まで断固反対で、最後まで怒ってましたね。
――お母さんは違ったんですか?
加藤 母親は諦めていたというか。私がどれだけプロレスが好きかを一番よく知っていたので。でも、私も「デビューして親孝行できればなあ」と思って入寮の準備をするんですけど……残念ながら父親は、12月23日の入寮日の1週間前に交通事故で亡くなっちゃったんですよねえ。
――ああ……。
加藤 コンビニにある公衆電話でたまたま誰かとしゃべっていたら、そこに車が突っ込んできて……。父親は最後までプロレスに反対していたので、プロレスラーになった姿をどう見たのか……って。
――そんな不幸を乗り越えて12月23日に入寮されたんですね。
加藤 1期生は先発隊が10月にもう入寮しているんですよ。1期生の先発隊が植松寿絵、永島千佳世、シュガー佐藤あたりかな。私を含めた後発隊が入寮したのが12月だったんですよね。後発隊のメンバーは私、里村明衣子、あと沼尾マキエとか。沼尾は辞めちゃったんですけど。
――沼尾さんはGAEAのドキュメンタリー映画『ガイア・ガールズ』で退団していく姿が描かれていましたもんね。
加藤 ああ、そっか。辞めていくところが出てましたね。先発隊の中には入寮するために高校をやめちゃった子もいたんですよ。
――えっ! それはまたおもいきりましたねえ。
加藤 だから後発隊にとっては「出遅れるんじゃないか……」と不安になったりもして。でも私は両親から高校卒業が最低条件だと言われていたので。
――後発隊の加藤さんからすれば、その3ヵ月に差を感じちゃうわけですね。
加藤 そうなんです。先発隊に対しては劣等感がありました。同じ後発隊だった里村は中学生だったんですよ。
――そうか、里村さんは15歳で入団ですもんね。 冷静に考えると、中学卒業後にプロレス入りするって凄いですよね。
加藤 でも、当時の女子プロ界にはまだ「高校卒業じゃ遅い」という雰囲気はあったじゃないですか。
――はい、そうですね。全然おかしくないというか。先発隊と後発隊の温度差というのもあったんですか?
加藤 先発隊に対してはかなり引け目がありました。しかも、先発隊の子たちはちょっと都会の子が多かったので。永島とか中野ちひろという子も関東出身だったから「田舎モンをバカにしてるんじゃないか」みたいな劣等感があったことは、大人になってから本人たちにも言ったりしてましたけど。だって、まだみんな子供だったし。
――10代にとっての3ヵ月は大きかったということですね。
加藤 だって里村が15歳でしょ、私が18歳、当時は植松が一番上で20歳とかだったのでね。
――GAEAの寮はどこにあったんですか?
加藤 寮は道場と同じ場所にあるんですけど、新横浜近くの横浜羽沢というところです。1階に道場、2階に寮。部屋には二段ベッドが4台あって、ベッドの上だけが自分たちのプライベート空間でした。1期生全員がそこにいるから、13人が一緒に生活して。1人はすぐにやめちゃったんですけどね。
――当時はどんなスケジュールで動いてたんですか?
加藤 まず、朝8時からトレーニングです。ランニングから始まって13時までびっちり基礎体力。そこから昼食ですけど、まず卵を10個食べて。
――卵10個?
加藤 フフフフ。私が歌っている『コノヤロー』という歌の中にそういう歌詞が入っているので、よかったら聞いてください(笑)。卵10個食べたあとにご飯を食べて、昼休みは1時間しかないので早く食べて休んで。そこから夕方まで……そうですねえ、18時か19時、遅いときは20時までやってたかなあ。
――長い!
加藤 午後の練習はリングトレーニングなんですけどね。ストレッチをしたあとにマット運動をやって。まったく受け身を取れない人の集まりだったので、とくにデビュー前は休み返上で。その1期生の中から数名が4月にデビューすることが決まっていたんですよ。
――入寮から3~4カ月でデビューって、かなり早いですよね。
加藤 それは親子面談のときに会社からもう言われていた気がします。「新人は4月にデビューさせます。娘さんはその候補に入ってます」と。もしかしたら全員に言っていたかもしれないですけどね。だから、そこも席の取り合いですよ。実際、1期生のうちの半分しかデビューできないので。
――お話をうかがっていると、長与さんが育ってきた全女とはやり方がまったく違いますね。全女の場合、新人には練習もそんなにさせてもらえていないというか。
加藤 全女の新人は雑用からですもんね。練習も、試合と試合のあいだにちょっとやるだけで。
――全女の新人の試合は押さえ込みが中心で、技は少しずつしか教えてもらえなかった。でもGAEAは受け身や技も教えていたんですね。
加藤 手取り足取り教えてもらっていたので、真逆の教え方だったかもしれないです。もちろんメチャクチャ厳しかったですけど……本当につらかったです。
――練習を教えていたのは長与さんだったんですか?
加藤 それぞれ役割が分かれていて、KAORUさんは基礎の受け身が中心で、長与さんはリング上でのプロレス、いわゆるプロレスリングですよね。で、ボンバーさんは基礎体力の監視役とか、あとは上下関係を教える役割だった気がします。
――プロレスラーとして育成しようという体制ですね。でも、その短い期間の中で辞めちゃう人もいたんですね。
加藤 いました。ウチらが練習している横で「もう辞めたいです」みたいなことを長与さんたちに直談判している人たちがいましたね。逆に逃げ出すという子はいなかったですね。
――そういう辞め方も全女と違うんですね。
加藤 そうかも。ちょっと柔道をかじってた子なんかは、地元では強かったのに、ウチらと同等の素人として扱われるじゃないですか。しかも、柔道とプロレスとは受け身も違うから、柔道のクセを正されていたんですよね。その子は、そういうのに耐えられなかったんじゃないですか? あと4月のデビュー戦のふるいから落とされちゃったり。
――デビュー戦のメンバーは長与さんたち3人から見ての判断だったということですか?
加藤 たぶん。練習を見てですかね。
――じゃあ、加藤さんは認められていたということですね。
加藤 私は自分自身でも絶対に入ると思っていたので。なんというか、若い頃、調子に乗ってたんで(笑)。周りを見渡したときに「あ、私は入るな」と思っちゃったんですよねえ。
――ハハハハハハ!
加藤 「私が入らないで誰が入るの?」 と。あとは私が「この人は入るだろうな」という人もエントリーされていたので、見る目はあったんだと思います。植松と、里村と、あとは私が入ると思ったのは永島ですね。
――中学校卒業したばっかりの里村さんがそこに入ってくるのがまた凄いですよね。あの頃、“脅威の新人”と言われていましたけど、その短時間で仕上げていたと聞いてさらに驚きです。
加藤 入寮からの3~4カ月間は濃密でしたからねえ。私、若い頃には戻りたくないですもん。絶対にヤダ。いまが一番楽しい(笑)。あとはデビュー戦の試合は私と里村との対戦だったんですけど、「試合で拍手がもらえなかったら、その場でクビだから」と。
――えっ!?
加藤 「おまえらの代わりなんていくらでもいるんだから」と言われながら練習していましたね。「つまらない試合をしてみろ。そしたらもう控え室には戻れないからな!」って。
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