人間は「不安」の生き物だ。どんな人間でも不安のセンサーが発達している。
なぜかというと、不安のセンサーは生命を守ってくれるからだ。不安のセンサーこそ、危機回避能力そのものである。

例えば、猛獣を見たら「襲われるんじゃないか」と「不安」になる。腐っている野菜を見たら「これを食べたらお腹を壊すんじゃないか」と「不安」になる。
そうした不安が、猛獣に近づかせないようにするし、腐った野菜を食べさせないようにする。人間は、そうやって不安のセンサーをよすがに危機を回避し、命を守ってきたのだ。

人間は不安のセンサーが強い。だから、不安に耐えられない。不安じゃないことを求める。
人間は、不安に耐えられないから猛獣に近づかない。不安に耐えられないから腐った野菜を食べない。そうすれば、不安じゃなくなるからだ。安心するのである。人間は、安心したがる生き物だ。それは、不安のセンサーが強いからだ。

人間は、不安に弱い。不安のセンサーが発達しているからこそ、不安に襲われると、そこからどうしても逃げ出してしまうのだ。
ところで、知識や情報が足りていないと、人間は不安から逃れる術を奪われる。
例えば、昔は雷が怖かった。雷は、多くの人間を不安に陥れた。
今なら、雷はなぜ起きるかとか、いつ起きるか、あるいはいつおさまるかというのも、知識や情報として分かってくるようになってきたので、不安は少ない。
しかし、昔は知識も情報もなく、雷は得体の知れない存在だったので、それは心の底から恐怖を催させた。心の底から命の危険を感じ、不安にさせられた。

そういう不安に、古代の人間も耐えられなかった。だから、彼らはそれを解消させてくれる何かを欲した。知識や情報がなくても不安を解消させてくれる「抗不安剤」を求めた。
古代においては、その抗不安剤の役割を「神話」が担っていた。


例えば、「雲の上には雷様という神様がいて、太鼓を叩いている。その太鼓の音が、雷の音なんだ」と教えられる。
すると、それを聞いた人は、不思議と不安を少なくさせることができるのだ。不安を回避させることができるのである。
不安というのは、「得体が知れない時」に最大となる。だから、得体が知れると、不安の多くは取り除かれるのだ。

そのため、神話というのは、いつの世でも「得体の知れないものを得体を知られるようにする」という役割を、社会の中で果たしてきた。
あるいはそれは「物語」と言い換えても良いだろう。時代の変化によって、神話における「神」の存在感は以前に比べると薄くなった。しかしそれで「話」そのもの価値が下がったわけではない。物語は依然として、人々の不安な気持ちを取り除くうえで大きな効用を発揮しているのだ。

例えば、ヘイトスピーチをする人々というのは、まさにそうした効用の恩恵にあずかっている。彼らは「物語」の受益者なのだ。彼らは、物語によって自らの不安を鎮めているのである。