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「古くならない文体」という命題に対する答えを探しあぐねていたぼくは、色々と本を読んだりしながら、何かヒントになるものはないかと探していた。
ところで、ぼくは子供の頃から本が大好きだった。読む量も、平均から比べると多い方だと思う。これまでずいぶんと色々な本を読んできたし、また今も読み続けている。
しかし一方では、そう極端に本を読む方でもなかった。ぼくより読書家の人というのは、同じ学校の同級生にもたいてい2、3人はいたものだ。
本が好きでいながら、なぜそれほど本を読まなかったかといえば、おそらくは「書く」ということをかなり幼い頃から意識していたからだ。ぼくは本を読むのも好きだったが、それ以上に文章を書きたい気持ちが強かった。何かを表現したかったのだ。だから、読むことよりも書くことの修練を積むことに興味があった。そのため、本を読むよりも、もっと他のことをしようと考えていたのだ。
ぼくが文章を書くうえで重要になると思っていたのは「美的センス」だった。あるいは美術的な知識だ。すなわち、美しいものを美しいと感じられる心であったり、美しさを論理的に構築できる知識だった。
そのためぼくは、美術作品を見るということをよくしていた。特に高校時代は、図書室に入り浸って美術全集を飽くことなく眺めていた。色々な作家の美術全集を見たが、取り分けアンリ・ルソーとサルバドール・ダリが好きだった。この二人の作品集は、何度も何度もくり返し見た。
また、美術を見るだけではなく、自分で描いてみることもした。高校1年生の時に東京芸術大学を目指すことを決めてからは、夏休みとか春休みのごとに美術予備校の短期集中講座に通ったし、3年生の時には毎日のように絵を描く日々だった。そうして大学に合格してからも、学校でのカリキュラムを通してずっと美術と触れ合ってきた。
そういうふうに、ぼくは自分の中の美術の能力を可能な限り高めてきた。そのうえで、そのセンスや知識でもって、文を書こうとしたのである。
ところで、いつの頃からか、ぼくは文章というものについて、好きなものの傾向がかなりはっきりしていた。ぼくが好きなのは翻訳家の書いた文章だった。ぼくは、小説家の文章にも好きなものがないわけではなかったが、後で振り返ると、夢中になって読んでいるのは、たいてい翻訳家が書いた文章だった。
ぼくが夢中になって読んだのは、子供の頃には井伏鱒二が訳した「ドリトル先生」シリーズ、中学生の頃には瀬田貞二が訳した「ナルニア国物語」シリーズ、大学生の頃には鼓直が訳した「百年の孤独」、そして大人になってからは、牛島信明が訳した「ドン・キホーテ」、村岡花子が訳した「ハックルベリイ・フィンの冒険」、福田恆存が訳した「老人と海」、柳瀬尚紀が訳した「ユリシーズ」などであった。
そんなふうに、ぼくは日本の翻訳家が訳した、外国の小説が好きだった。それは、もちろんその内容が好きだったというのもあるけれど、翻訳された日本語の文章も好きだったのだ。
ぼくが特に好きだったのは、鼓直の「百年の孤独」の訳文だ。それは、こんなふうな文章だ。少し長いが、以下に書き写す。
ところで、ぼくは子供の頃から本が大好きだった。読む量も、平均から比べると多い方だと思う。これまでずいぶんと色々な本を読んできたし、また今も読み続けている。
しかし一方では、そう極端に本を読む方でもなかった。ぼくより読書家の人というのは、同じ学校の同級生にもたいてい2、3人はいたものだ。
本が好きでいながら、なぜそれほど本を読まなかったかといえば、おそらくは「書く」ということをかなり幼い頃から意識していたからだ。ぼくは本を読むのも好きだったが、それ以上に文章を書きたい気持ちが強かった。何かを表現したかったのだ。だから、読むことよりも書くことの修練を積むことに興味があった。そのため、本を読むよりも、もっと他のことをしようと考えていたのだ。
ぼくが文章を書くうえで重要になると思っていたのは「美的センス」だった。あるいは美術的な知識だ。すなわち、美しいものを美しいと感じられる心であったり、美しさを論理的に構築できる知識だった。
そのためぼくは、美術作品を見るということをよくしていた。特に高校時代は、図書室に入り浸って美術全集を飽くことなく眺めていた。色々な作家の美術全集を見たが、取り分けアンリ・ルソーとサルバドール・ダリが好きだった。この二人の作品集は、何度も何度もくり返し見た。
また、美術を見るだけではなく、自分で描いてみることもした。高校1年生の時に東京芸術大学を目指すことを決めてからは、夏休みとか春休みのごとに美術予備校の短期集中講座に通ったし、3年生の時には毎日のように絵を描く日々だった。そうして大学に合格してからも、学校でのカリキュラムを通してずっと美術と触れ合ってきた。
そういうふうに、ぼくは自分の中の美術の能力を可能な限り高めてきた。そのうえで、そのセンスや知識でもって、文を書こうとしたのである。
ところで、いつの頃からか、ぼくは文章というものについて、好きなものの傾向がかなりはっきりしていた。ぼくが好きなのは翻訳家の書いた文章だった。ぼくは、小説家の文章にも好きなものがないわけではなかったが、後で振り返ると、夢中になって読んでいるのは、たいてい翻訳家が書いた文章だった。
ぼくが夢中になって読んだのは、子供の頃には井伏鱒二が訳した「ドリトル先生」シリーズ、中学生の頃には瀬田貞二が訳した「ナルニア国物語」シリーズ、大学生の頃には鼓直が訳した「百年の孤独」、そして大人になってからは、牛島信明が訳した「ドン・キホーテ」、村岡花子が訳した「ハックルベリイ・フィンの冒険」、福田恆存が訳した「老人と海」、柳瀬尚紀が訳した「ユリシーズ」などであった。
そんなふうに、ぼくは日本の翻訳家が訳した、外国の小説が好きだった。それは、もちろんその内容が好きだったというのもあるけれど、翻訳された日本語の文章も好きだったのだ。
ぼくが特に好きだったのは、鼓直の「百年の孤独」の訳文だ。それは、こんなふうな文章だ。少し長いが、以下に書き写す。
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コメント
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あ、だめだ・・・・。
僕は小説の類の、文化的・芸術的価値の高い文章は、どうも苦手なのですよ・・・
万人が敬遠する、超難解な哲学書は好きでよく読むのですが、
この記事の「百年の孤独」抽出部を読んだだけで、頭が痛くなる・・・
なにか、こんな物語アレルギーを治すようないい小説でもないでしょうか?
岩崎夏海(著者)
>>1
物語アレルギーを治すには、サトクリフの書いた歴史小説を読むといいと思います。綿密なリサーチに裏付けられているので、当時の風俗を記したレポートとしても読めるうえ、読んでいるといつの間にか物語にも引きずり込まれるからです。「第九軍団のワシ」が何と言っても傑作です。