茶室の元祖は、東山文化の生みの親・足利義政が作った銀閣寺の一角、東求堂にある四畳半の部屋だとされている。義政はここを応接室的に使っていたのだが、そこにおいて「佗び茶」が発展していった。

禅宗は、室町幕府と深く結びついていたので、京都の街中にお寺を建てていった。その庭は、初めはそれまでの伝統に則って、あくまでも自然――特に海や山を模したものだった。それによって極楽浄土を表していた。

ところが、なにしろ街中に建てていたものだから、時代を経るにつれてどんどんとスペースがなくなり、庭に割ける面積も限られていった。そこで、新たに枯山水という様式を発展させ、自然の水や植物を使うのではなく、それらを抽象化した砂や石で代用していった。そんなふうに枯山水は、最初は「狭いスペースでも庭を成立させる」という実際的な意味があった。

ところが、そんなふうにやむをえずに始めた枯山水だったが、作ってみると元の本物の水や