閉じる
閉じる
×
今回は、日本三名園の一つ、後楽園について見ていきたい。
岡山後楽園の成り立ちは、これもまた江戸時代っぽい。まずまだ戦国時代の1597年、豊臣家の家老であった宇喜多秀家が、今の岡山市を南北に貫く旭川のほとりの小高い丘の上に城を建てた。これを、小高い丘の上に建てたことから「岡山城」と名づけた。
このとき、横を流れる旭川をお堀として有効活用するため、できた城をぐるりと取り囲むように大きく流れを迂回させた。すると城の安全性は高まったが、流れが不自然になってしまい、水量が増えると水が詰まって、城の上流がたびたび洪水に見舞われるようになった。
この築城したときはちょうど戦国時代のピークだったから、城はなによりも戦争のためのものだった。多少の洪水には目をつむって、防御力を最大限高める必要があった。
しかし戦国の世が終わって平和になると、洪水のうっとうしさだけが残った。しかし、今さら流れを元に戻すこともで
この記事は有料です。記事を購読すると、続きをお読みいただけます。
入会して購読
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。