真崎甚三郎は陸軍大臣になれず、代わりになったのは林銑十郎だった。これによって今度は真崎と林が対立するようになり、真崎は林の追い落とし工作をあれこれと計るが、逆に林の怒りを買って、今度は林が真崎に教育総監の地位も辞職するよう求める。

真崎はこれに頑として抵抗したが、ついにその地位を剥奪されてしまう。真崎は、この更迭劇の裏には軍務局長に就いていた永田鉄山がいると見る。林一人でこんなことはできないと考えたからだ。

そうして陰で永田鉄山の悪口を言うようになり、それを受けて皇道派若手将校が作成したと思われる永田批判の怪文書が撒かれたりもして、皇道派と統制派の対立は日ごとに険しさを増していった。

そんなときに、とんでもない事件が起こる。真崎に私淑していた皇道派の若手将校、相沢三郎が、陸軍省内で、永田鉄山を剣で斬りつけ、殺害してしまうのである。1935年8月12日のことだった。太平洋戦争終結のちょうど1