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先日、AKB48のじゃんけん大会が行われたが、このイベントは、総選挙に比べると毎年いま一つ盛り上がりに欠ける。その理由は、一言で言うと「ファンが参加できない」ということだ。そこで今日は、「参加する」とは一体どういうことなのか、考えてみた。
じゃんけん大会は、二つの意味でファンが参加できない。
まず一つ目は、勝敗の行方に参加できない。
総選挙がイベントとして優れているのは、投票という行為を通じてファンがイベントそのものに深くコミットできるところだ。その勝敗の行方を、自分たちである程度コントロールすることができるのである。
これは、大きな「参加意識」をファンにもたらす。投票せずに見ていると、その順位は結局「他人事」としてしか捉えられないが、投票してから見ると、まるで自分自身が順位をつけられるかのような緊張感を味わえる。
競馬などでは、よく「馬券を買わないで見るのと買って見るのとでは大きく違う」といわれる
じゃんけん大会は、二つの意味でファンが参加できない。
まず一つ目は、勝敗の行方に参加できない。
総選挙がイベントとして優れているのは、投票という行為を通じてファンがイベントそのものに深くコミットできるところだ。その勝敗の行方を、自分たちである程度コントロールすることができるのである。
これは、大きな「参加意識」をファンにもたらす。投票せずに見ていると、その順位は結局「他人事」としてしか捉えられないが、投票してから見ると、まるで自分自身が順位をつけられるかのような緊張感を味わえる。
競馬などでは、よく「馬券を買わないで見るのと買って見るのとでは大きく違う」といわれる
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外部からではコミットできない静的でクローズな本でも、本の内部に「参加」すれば、動的でオープンな本のように感じることができるようにする、ということでしょうか。
岩崎夏海(著者)
>>1
まさにその通りですね。そしてそのためには、本の内容が参加しやすいものであること、具体的には自分自身に置き換えられたり、読み方によって内容が違ってくるような多義的なものになっていたりする必要があるのだと思います。