今回のお題は、以前にも採り上げたことのある人気ブロガー海燕氏のブログです。
 またこれと連動して、ネット上でも海燕氏とドクター差別のやり取りがあったようです。
 それについては「女性専用車両は男性差別か? 海燕とドクター差別の対話(http://togetter.com/li/471051)」いう形でまとめました。興味のある方はご覧ください。

 さて、ここではブログについてです。
 内容は上のタイトルだけで大体わかるかと思うのですが、「女性にだけトッピング無料」とのサービスの店に対して「男性差別だ」と噛みついた人物がいた、というものです。
 海燕氏はそれに対し、

 100円のトッピングが無料になっているだけで、「男性差別の店、許せません」ってねえ。多くの「男性差別」論者がそうなのだが、この人も被害に対して怒りが大きすぎると思う。どう考えても深刻な被害があるわけではないだろうに、激しく怒っている(文章から読み取れる限りでは)。

 この「男性差別」への怒りは何なんだろう。レディースデイなり女性割引があることで、男性が大きな被害を受けているということなら「男性差別」論者が怒ることもわかる。しかし、あきらかにそうではないわけだ。

 といった意見を述べられていました。
 言うまでもなく、ぼくも海燕氏の考えに全面的に賛成です
 ぼくはドクター差別など、こうした「男性差別論壇(?)」の御仁たちについて、今まで幾度か、これではフェミニストたちに笑われてしまうだけなのではないか、つまり、彼女らに「彼らの存在こそ女性専用車両や女性への割引などを除いて男性差別がないことの証拠ではないか」と反論されたら、彼らはそれに対する再反論の言葉を持っていないのではないか、と書いてきました。
 海燕氏は以降、このように続けます。

レディースデイは男性差別か、といわれれば、まあ、そうかもしれないと思う。しかし、それを問題にするならそれ以前により大きく深刻な差別問題を無視するわけにはいかないのは当然でしょう。

 まさにその通り。
 海燕氏は「リクツはわからないでもない、でもプライオリティが違くね?」という疑問を表明していらっしゃるわけです。
 一体に彼らは、何故このような小さな問題にしか目を向けることができないのか。
 うんうんと頷きながら読んでいくと、海燕氏はこのようにおっしゃいます。

 一方、現代日本では女性の平均賃金は男性の七割程度に留まっている。ぼくが思うに、こちらはあきらかに大きな問題で、女性たちが怒っても当然だ。

 れれっ!?
 それこそが「より大きく深刻な差別問題」だったのでしょうか?
 それ以前に女性の多くが男性に養われているという事実は? だからこそマスコミも企業も「カネを持っているのは、消費者は女性」という考えでいるのでは? いかに海燕氏が「こちらはあきらかに大きな問題で、女性たちが怒っても当然だ。」とおっしゃろうとも、圧倒的多数の女性は事実上、「怒っていない」という現実は? 或いは専業主婦という存在は「政治的に正しくない」ので無視すべきなのでしょうか?
 でも女性の圧倒的多数は主婦志向であり、「女性もキャリアを目指すべき」といったフェミニズムがはやらなくなっているのは自明なのでは?
 男性が富を独占しているはずなのに、ホームレスになるのは男性ばかりであるという事実は?
 男性が女性に比べ常により危険な状況に置かれ、事件に巻き込まれる率、病死する率、自殺する率が圧倒的に高いという事実は?
 ある意味、フェミニズムはそうした「男性に強いられている生命の危機」というものを「最初からないこと」として目を伏せることで成り立っているガクモンです。
 その根底にあるのは、「男性は女性を護るべき」という全人類が共有するコンセンサスでしょう。
 いつも書くことですが「男性差別」などというものはこの世にはありません。
 何となれば、「男性の生命は女性よりも軽い」との強固な掟には、人類史上、一度として疑問を持たれたことがなかったのだから。
 ぼくたちがハエやカを何ら疑問を持たないままに殺虫剤で殺すことを「ハエ差別」と言わないように、「男性差別」などと言うものはない。
 もしそうした概念が生まれるとしたら、遠い未来に「男性人権宣言」がなされて以降のことでしょう。

 以降、海燕氏は「男性差別論者」に対して

いかにも視野狭窄的だ。

小を重視して大を無視するようでは差別を語る資格はないんじゃないか。

 とおっしゃいます。
 ぼくもそれに賛成しますが、同時に全く同じ言葉を「男性差別論者」と同時に海燕氏自身にも投げかけたい衝動に駆られるのです。
「男性差別論者」の主張がみみっちくまた片手落ちなものであることは全く否定し得ないが、実はフェミニズムもそれと全く同様にみみっちく片手落ちなわけです。その意味では――彼らの中に「ジェンダーフリー論者」がちらほらと見当たることが象徴するように――まさに「男性差別論者」は「フェミニスト」のパロディであり、全く同じ過ちを「再放送」し続ける存在であると言えます(ただしフェミニストは「権威」となっているがためそれが通ってしまっている、裏腹に「男性差別論者」にはそうした後ろ盾が一切ない、という違いはありますが)。
 また、海燕氏は

男性差別論者たちはようするに女性が「女性差別」を訴えることによって男性より上に立つことが許せないにではないか、と。常に男性が上でなければならないのだ。

 とおっしゃいますが、これは全く違うでしょう。
「男性差別論者」にあるのは「とにもかくにも損をした、許せぬ」というみみっちいと言えばみみっちいが、それ自体は正当な感性であるように思います。そこに勝手に「男性の支配欲求」を見て取ってしまうのは、フェミニズムを内面化してしまった者の妄想でしょう。
 ぼくは上に「男性は女性を護るべき」という価値観を全人類が共有している、と書きました。フェミニストに言わせればそうした価値観こそが「女性を支配したいという欲求からでている差別意識」のはずで、「男性差別論者」たちがそうした支配欲求を持っているなら、そもそも100円の女性割引に文句をつけるはずがない。
 その意味で、「男性差別論者」たちは「感性」としては「解放された、正しいものを持っている」はずと取り敢えず、言わねばならない。しかし彼らの言説は申し訳ないけれどもぶっちゃけみみっちく幼稚で、社会全般の理解を得られるようなものではない。
 そしてそうした者たちが大騒ぎすることで、社会は確実に「あぁ、やはり男性差別など取るに足りぬ虚構だ」と判断せざるを得ない。
 ぼくの著作は絶版になったまま、永久に日の目を見ない。

 一体、どうしてこうしたことになってしまったのでしょう。
 一つに、「女性専用車両」「レディースディ」は日常に溢れいつどこにでも目にするものです。だからどうしても文句が出やすい。
 海燕氏が言う「些末な問題」であるとの意見にぼくも賛成しますが、同時にあまりに広範に溢れているということは「塵も積もれば山となる」の言葉通り、やはり無視できないものである、とのリクツにはそれなりに理があると思います(ただし、繰り返すようにプライオリティ的には後回しにすればいいような問題だと考えますが)。
 二つ目としては、やはりこうした女性優遇のとばっちりを受けるのは弱者男性です。むろん、「強者男性は女性より優遇されている」などというわけでは全くないけれども、相対的に弱者寄りの男性の方が被害を大きく被っていることは事実。そのため、こうした小さなことに目が行きやすいと言うこと。申し訳ないけれども、やはり彼らはこうした単純明快な事柄に、目が行きがちなのでしょう。
 例えばDV冤罪による子供の連れ去り問題などは、まさに「男性差別」以外の何物でもないはずなのだけれども、彼らはあまり言及しない。
 失礼ながら彼らが手につけやすいのは「女性専用車両」といった単純明快な問題、しかも彼らが方法論として選択するのは、それを論理で責めるよりは車両に乗り込むといったパフォーマンスで周囲の快哉を浴びる(妄想に耽る)といったやり方。
 つまり彼らはどうも、ちまちまとリクツを考えるよりは先に手が出てしまうタイプであるようなのです。事実、ドクター差別の支持者に「あなたたちはフェミニズムについて知識がほとんどないように見受けられる」と語ったところ、「そんな知識など持つ必要はない」と居直られたこともあります。
 困ったことではありますが、リクツ派が何か言おうとすればどうしても既存のリクツ(つまりフェミニズムなど)に意見を圧殺され、新しいリクツが世に出にくい。そのため彼らのような言説、行動ばかりが目立ってしまう、といった事情があるのでしょう。
 しかし、それではやはり社会全般の理解は、得られません。
 もはや手遅れかも知れませんが、「男性差別論者」がすべきことはこうした事態を一度抽象化、概念化してみる努力でした。そうすればぼくが上に挙げた「男性は女性を護るべき」という全人類が共有するコンセンサスが浮かび上がってくる。ラーメンのサービスにしたって結局こういうのは女性の方が、「あなたの性別故にサービスをしますよ」というサービスの仕方に男性に比べてより食いつきやすいからこそ、行われるわけです。そうした女性の傾向は例えば「デートの時おごられたい」といった心性にもつながっているわけで、そこまで問題を演繹していけばこれだって実は充分な論点たり得る。
「男性差別論者」の一人で、「史上最大の革命を!」と謳っている方がいらっしゃいます。そう、この問題が「史上最大の革命」を引き起こす可能性は決してゼロではない。いや、もしまともな形でなしえたら間違いなくそれは「史上最大の革命」となる。しかし彼らに徹底的に欠如しているのはその準備として、もう少し物事を抽象化して考える努力ではないかと思うわけです。
(逆に「男性差別論者」を擁護する表現をするならば、彼らはそうした世の理不尽さを感覚では感じつつも、表現力に乏しく、結局口を吐いて出るのは「レディースディ許せん」といった言葉にしかならないのだ……とも言えましょうか)

 恐らくドクター差別のパフォーマンスのおかげで、「男性解放」は五十年ほどは遠退くことでしょう。
 とは言え、彼(や、在特会)を見ていて思うのは、彼らが左派の方法論をそのまんまパクった存在だということです。丁度、上に彼らを「フェミニズムの再放送」と形容したのと全く同じに。つまり彼らは言わば左派の「シャドウ」的な存在だということです。
 シャドウというのはユング心理学の用語であり……えぇと……すみません、知ったかぶりをしました。
 ヒーローものの最終回の一歩手前で出てくる「偽ヒーロー」みたいのがシャドウではないかと多分、思います。確か『スマイル! プリキュア』でも出てきていました。作品の総決算の一歩手前で、主人公たちのネガの部分を体現したキャラクターを登場させ、今一度主人公たちに内省を促す、シャドウの役割は大体そうしたものではないかと思います。
 その意味で、左派の彼らに対する嫌悪の何割かは「俺たちのやり方をパクリやがって」という情念に根ざしていると言えましょうし、そうした左派の方法論――それはパフォーマンスもそうですが『差別』といったレトリックも――はドクさべ氏によって今一度問われている、と言えるわけです。
 彼らがドクさべ氏をやっつけるとしてもドクさべ氏にやっつけられるとしても、いずれにせよもう少しやり方、考え方をブラッシュアップさせねば「新番組」には進めない。
最終回」は近いわけで、ぼくたちもそれを見逃さないようにしましょう。

■補遺■
 本記事を書いたかなり後になって、ツイッターでご教示いただいたのですが、ラーメン店の件、実はトッピングのみならず、2階の女性専用席の方が1階席より広くて明るいといった隔離政策が行われていたとのことです。
 いえ、海燕師匠のブログにもその辺りは引用されてはいるのですが、全体として元の投稿者が100円のサービスにばかり噛みついていたかのような印象を与える文章になっており、無理に「男性差別」を矮小化した、いささかバランスを欠いた記事に思えます。