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 よい子のみんな!
 みんなが待っていた、『LGBTツクール』の最新版が遂に発売だ!
 その名も『ペドファイル利権を作ろう!』(愛称・ペドつく)

・表現の自由クラスタはペドファイルを幸福にしない


 ――と、まー、掴みのギャグはこのくらいにしまして
 できればしばらくは『腐女子の心理学』関連の再掲記事でつなごうと思っていたところ、動画にあんまりコメントもつかないままに新ネタに移行するのは(こちらの時間的精神的余裕を鑑みても)好ましくないのですが、まあしょうがありません。




 そう、「少女型ラブドール」についての件です。
 まあ、これはきっかけの一つに過ぎず、ここ数年、表現の自由クラスタがこぞって過剰なペドファイル擁護をしており(それがまた非道いものばかりで)、きな臭いなあとは感じておりました。
 ただでさえぼくは(彼らの界隈では)評判が悪いので、一応先に申し上げておきますが、少なくともラブドールそのものを、ぼくは規制すべきとは思いません。ただ、表立って見せびらかす趣味ではないので、こそこそと陰で楽しむようにするのが最善策だろうと考えます。
 そこを、ことさらに騒ぎを大きくするのは、逆効果としか思えない。これは欧米のスタイルをそのままパクったLGBTの解放運動に対しての、「そもそも日本にはホモ差別とかなかったんだから、過剰に大声を出すやり方に効果があるとは思えない」といった批判と、全く同じです。
 仮にあなたがペドファイルだとしても、「ペド差別」みたいなことを声高に叫ぶのは逆効果だろうし、少なくとも、今、表で騒いでいる人(青識亜論や、今回採り挙げるモトケン師匠のような、ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような人々)の後について行っても、恐らくあなたの利になることは何もない、何か妙な政治運動の手伝いをさせられるだけではないかなあ……という危惧をして、ぼくが今、この文章をしたためていることをご理解いただければ幸いです。
 なお、ペドファイルの無理筋の擁護をしたがる人々について、今回、ひとまずは「表現の自由クラスタ」と総称することにします。
 ネット上を見る限り、ほぼこの両者は重なっていると考える他、ないからです。

・弁護士は一般的大衆感覚を反映しない


 さて、数日前、モトケン師匠という御仁(弁護士さんで、大変多くのフォロワーのいらっしゃる方です)が以下のようなことをつぶやいていました。

普通の異性愛者の男が魅力的な女を見て「セックスしたい」と思ったときというのは、同意の有無なんか関係なしに「したい」と思うんじゃないの?
でも大抵の場合は同意を得られる見込みはないし、同意を得ずにしたら強姦罪になるからしないんでしょ(一部の例外はあるが)。
小児性愛者とどう違う?

― モトケン (@motoken_tw) June 4, 2020

成人の女性(または男性)相手のセックスについては、口説く余地がある点で小児性愛とは違うけど、同意が得られなければ大抵の人はしない、という点では成人相手も小児相手も変わらない。
ところが、小児性愛者については性的魅力を感じたらみんなやってしまうと考えている人がいる。
これは差別ですよ

― モトケン (@motoken_tw) June 4, 2020

 弁護士さんと思えぬ粗雑な物言いに呆気に取られ、ぼくは引用RTで

https://t.co/ORxjoPEpY7
「どう違う?」とか聞いてるけど「断るだけの判断力がない」という点で全然違うだろう。
それこそ昨日の「マスキュリニストが完全にフェミニズムのパロディである」のと同様、彼らもまたフェミのパロディなんだよね。
フェミは「あらゆるセックスを否定するため」、

― 兵頭新児@『女災』10th year! (@hyodoshinji) June 5, 2020

 とつぶやきました。
 が、師匠はどうしても理解が及ばないご様子。

>「断るだけの判断力がない」という点で全然違うだろう。

問題になるのは、被害者の判断力ではなく、加害者の判断力。
小児性愛者だからといって判断力が低いまたはないという根拠はなにもない。

― モトケン (@motoken_tw) June 5, 2020

 もちろん、小児性愛者は判断力が低いのでは……とする根拠はあります*1。ぼくはNAMBLA(少年とのセックスを認めよと運動している組織)などを例に挙げましたが、「日本の法制度が前提。」との答えが返ってきました。
 わけがわかりません。
 ガイジンと日本人のペドで、メンタリティが相当違うとする根拠でもあるならともかく、何で日本が前提なのか(ただ、こうした組織が堂々と活動をしているのを見ると、やっぱり「ガイジンは我が強い」という通念はある程度正しいんじゃないか……とは思えます)。
 また、そこを不問にしても「法制度」が出て来る理由がさっぱりわからない。
 しかしさらにその大前提として、「被害者の判断力がない」ことを何故不問にしなければならないのかが、全く理解できません。
 仮に、ペドと一般人の判断力が同じとの仮定を導入しても、被害者の判断力のなさを鑑みれば、「危険性」ということでは前者が上がってしまう。ペド当人に落ち度がなくとも、子供の親などの危機意識が大きくなるのは仕方がない。
 これは、男であればホモに対し、女であれば男全般に対し、ヘテロセクシャルや女に対する時よりも、リスクを考えて行動するのと同じことでしょう。
 もっとも、確かにだからと言って、何もしていないホモやペドに攻撃を加えることが正しいことにはなりません。
 師匠は

ところが、小児性愛者については性的魅力を感じたらみんなやってしまうと考えている人がいる。


 と続けていて、正直それが「真」なのかどうか、ぼくにはわかりかねるけれども、仮にそうだとするならば、それに続く、

これは差別ですよ

 も頷ける。
 しかしいずれにせよ先の「小児性愛者と一般人の危険度は変わらない」との詭弁とは飛躍がありすぎる。
 ぼくはそこを批判したつもりなのですが、師匠はあっさりと逃亡
 まあ、反論できるわけもありませんしね。

*1 これについては、かつてからずっと述べているのですが、

春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない
春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2)
「創作子どもポルノ」と子どもの人権
和月伸宏の児童ポルノ所持による書類送検(及びイオン系列のアダルト書籍販売中止)について

 辺りを参照。
 今回は詳述する余裕がありませんが、「表現の自由クラスタ」の中でも(実写の、実在の子供を被写体とした)児童ポルノを観ることを肯定している者がおり、まあ、お察しです。

・「ペド差別」は残念ながら、存在しない


 そんなこんなで表現の自由クラスタの詭弁の例としてtogetterにまとめたのですが*2、お仲間がわらわらと湧いてきて、いろいろとコメントをくださいました。
 その中でも一番しきりに書き込んでいた御仁(仮にYさんとしましょう)のコメントはどういうわけか消えてしまったのですが、記憶で再現するならば、

・「お前はペドファイルをどうしたい、死刑にしたいのか」などとこちらが言ってもいないことを根拠に罵ってくる。
・「少年とセックスすることを認めよなどと言っている組織があるのか」などと、こちらが明確に述べていることを、ちゃんと精読もせずにエラそうに質問してくる。「既に述べた」と返しても感謝も謝罪もない。

 といった次第。
 また、これは他の方ですが、NAMBLAの例に対しては、「ペドファイルの全員がNAMBLAの考えに同意しているのか」などと難じてくる。もう、100%じゃない限り0%なのだという典型的な詭弁ですね。
 こうした言い方をする方が、この界隈、非常に多い。
(ただし、「では何%がそうした考えの主なのか」を提示しにくいという事情がある以上、こちらもこうしたことを述べる場合、慎重であるべきとは思います)
 彼らの夢想するペドファイルというのは、世間の迫害に遭いながら自らの欲望を抑制し、悩み苦しみ続ける、驚くほどに神聖で清浄なマイノリティらしいのですが、ではその具体的な差別とは何かと尋ねると、Yさんの答えは「ネット上の激しいヘイトスピーチに苦しめられており、このままでは具体的な身の危険に発展するかも」というもの()。
 要は「ペド差別」というのはネット上での罵倒しか、現時点では存在していないらしいのです。
 どうもこの御仁はヘイトスピーチ規制賛成らしいですが、この主張は表現の自由クラスタとしては採用できない(したとしたら軽蔑するしかない)ものですよね。
 さらに、これらヘイトスピーチ()の発話者は、そのほとんどがフェミニストだと想像できる。しかし彼女らは「あらゆる性的欲望」を否定しているのだから、別にペドだけを特別扱いしているわけではない。
 つまりモトケン師匠の仮説は最初から間違っていて、「フェミは、普通の男もペドも性的魅力を感じたらみんなやってしまうと考えている、平等主義者」だったのです。
 そう考えるとどこに「ペド差別」とやらがあるのかが、ぼくにはどうにも見えてきません。
 Yさんがぼくに対して、舌舐めずりをせんばかりに「ペドを死刑にしろとでも言うのか」と難詰してきたことが象徴するように、結局今はまだ「被差別者としてのペド」像を確立するため、冤罪込みで必死でアリバイ証明をしようとしている段階である、と言えましょう。
 そう、彼らは『LGBTツクール』(正式タイトル、『LGBT利権ツクール』)の最新版、『ペド利権ツクール』のプレイの、真っ最中なのです。

*2 モトケン師匠vs兵頭新児

・彼らの運動にはまだ、ビジョンがない


 ヘイトスピーチについては一応、「法的には規制すべきではないが、許されるべきではない」との理屈は成り立ち得るし、その意味でヘイトスピーチを批判する書き込みもまた、否定されるべきではない。
 しかし逆にいうと、それ以外に、彼らがなし得ることは何もないわけです。
 例えばですが、フェミがドールの発売中止に追い込もうという運動でも始めれば、「開戦」の口実はできる。しかし残念ながら、いまだそうした状況には至っていない。
 恐らくですが、フェミにとってはもっとメジャーな場でなされる萌えキャラによるキャンペーンなどを中止に追い込むことの方が大事なのでしょう。もしここで大袈裟に「ペド差別けしからぬ」と騒げば、かえってペドの存在を可視化し、フェミを刺激するし、また他の一般的な人々の反感を招くのではないでしょうか。
 表現の自由クラスタにとっては、ことを大袈裟にした方が、利は大きい。「差別」が明確化した方が自分たちの主張に説得性が出るし、イベントをやったりで小銭が稼げますし、ゆくゆくは(LGBTがそうであるように)もっと大きな利権を育てられるかもしれない。しかし当のペドにとっては、黙っていた方が得なのではないでしょうか。
 そもそも、彼らは世間が(ペドに対して)どうあるべきだ、と考えているのでしょうか
 ぼくはコメント欄で彼らに繰り返し、「ならば、どうしたいのか。どのようなビジョンを持っているのか」と問いただしましたが、残念なことに答えは返ってきませんでした。
 例えばですが、引っ越し先のアパートの隣人に「ペドで~す」と挨拶しても普通に接してもらいたいんでしょうかね。「ホモ」の運動では、それに近いビジョンが理想とされますが、そんなことを言ったら頭がおかしいと思われるのは当然であること、両者共に変わりません。ホモやペドが「腫れ物」的に扱われるのはまあ、面白くないかもしれないが、それはオタクやブスがモテる社会というのは恐らく到来しない、辛いがそれは仕方がない、ということと同じです(先にネタバレをすると、実のところ「ジェンダーフリー」こそが、これが解消されるパラダイスが訪れるのだ、との空手形なのですが)。
 結局、黙ってりゃわからないんだから、わざわざ周知することじゃないとしか、ぼくには思えないのです。
 これはまた、少し前に炎上した杉田水脈氏の件を思い起こさせます。
 彼女の指摘は大変にラディカルで、「LGBTたちは不遇感を感じている、しかしそれは家族関係や友人関係などのパーソナルなことであり、法の改正などで解消するものとは思えない」といった視点を提示するものでした。
 キリスト教文化圏で法的に同性愛行為が禁じられていたのと異なり、日本にはそうした意味での差別はない。
 もちろん、一般的なヘテロ男性は「ホモ」を「キモい」と思うけれども、そうした感情の問題を持ち出しても仕方がない。上に書いたようにあまり表立ったことをせず、共存するのが利口だ、というのが一般的な考え方ではないでしょうか。

・彼らとフェミニストには違いが、ない


 さて、先にちょっとネタバレしましたが、「表現の自由クラスタ」――これはオタク界隈をうろちょろして、表現の自由を守ると称する運動を展開している、左翼思想にずっぽりと染まった人々のことですが――はフェミニストたちを批判するようなポーズを取りながら、実のところフェミとズブズブで、裏では癒着しています*3。モトケン師匠もちょっとツイを覗いたら、案の定、「ツイフェミ」に対し「自称フェミ、自称フェミ」と繰り返していました。だから彼らはフェミニズムの提示して見せた「ジェンダーフリー」を信じている。
 これはぼくたちの持つジェンダー(そしてそれが前提となっているとされるセクシュアリティ)を根底からリセットするという、非現実的な大革命思想です。ぶっちゃけるとそもそもどのようにすればそんなことができるのか、青写真すらでき上っていなさそうなのですが、今のところ男の娘ものの漫画でも読みながら「ジェンフリ」とかつぶやくと、満足できるご様子。
 しかしそもそもジェンダーをリセットすれば、恋愛も結婚もなくなってしまうしかない(仮に存続しても、今とは根本的に形が変わっているとするしかない)。オタク文化のみならず、あらゆる文化はなくなってしまうしかない(仮に存続しても、今とは根本的にその形が変わっているとするしかない)わけです。
 全く、検討するにも足りない空論です。

*3 これについては枚挙にいとまがないですが、まずは以下をご覧ください。




 また、先にLGBTについて盛んに繰り返しました。
 表現の自由クラスタがペドについて論じる時には常に、決まって「ホモもかつては差別されていたが云々」との言及があります。つまり彼らの運動は完全にLGBTの運動に倣ったものであり、またこのLGBTの論理的支柱になっているのはやはり、フェミニズム発のジェンダーフリーなのです。
 さらに、マジョリティに対して、顧みられないマイノリティを持ち出して来て「可哀想だろう、さあどうだ」と騒ぎ立てるというのがその方法論であり、そこには非常に往々にして「無知で冷酷な大衆」への憎悪と傲慢な優越心が伴います。
 これは障害者や黒人などの人権運動にもつきまといがちではあるものの、LGBTの運動はさらに「ジェンダーフリー」という「これから訪れるべき、新たなパラダイム」を提示するという性質がその傲慢な優越心をより露呈させがちであり、しかしそのビジョンの中身は残念ながらんどう――という辺りが、より以上に運動を空疎なものにしているのです。

 そう、表現の自由クラスタと「ツイフェミ」とは、全く変わらない人たちでした。
 彼ら彼女らが一見、戦っているように見えるのは同じ区画でファミマとローソンが陣地取り合戦している……どころか、同じファミマ同士で戦っているようなもの。どちらが勝とうと、こちらには被害しかありません。