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※この記事は、およそ12分で読めます※

 え~と、すみません、例のジョン・マネーについての記事の再掲をしばらく行うつもりが、また新ネタ。再掲の方は後に回すので、しばしお待ちを……。
 さて、匿名用アカウント氏のnoteが話題になっています。
『BEASTARS』という『週刊少年チャンピオン』連載の漫画を材に採ったもの。
 が、当然ぼくは未読だったがため、大慌てで漫画喫茶に飛び込むことになりました。

・兵頭、『BEASTARS』読んだってよ

 読んでみると巧みに描かれた、それなりに興味を惹く漫画だとの印象を持ったのですが、しかしぼく的にちょっととっつきにくい絵。
 また、登場キャラクターは全員が擬人化された動物という、子供向けのアニメでよくあるパターン。これ、かなりチャレンジブルですよね。ヒロインはウサギで、正直、萌えるには厳しいとしか。
 また、「動物たちによって構成される世界」となると、その「世界観」がどうしても気になりますが、それがなかなか描写されない。例えばどうしてさまざまな種の、食性も違う動物が共通の文化を持ち、共に暮らすようになったのかの経緯など。今時は世界観の説明を出し惜しみするのが通例なのでしょうが、とっとと説明して欲しいタチであるぼくにとってはそこが歯がゆく、それもちょっとマイナスとなりました。
 しかし、恐らくですが本作に関して「精緻な裏設定が練り上げられている」のではなく、「わりとフィーリングで描いてる」んじゃないかなあという気が……。
 そんなこんなで一巻を読み終えたところで挫折。『るろ剣 北海道編』と『トネガワ』に手を出すという、いかにもな「時代についていけなくなっている」ムーブに。
 というわけで本稿はあくまでも本作を一巻まで読んだ上での、匿名アカウント氏のnote記事の感想、という体裁になります。
 お読みいただく方も、(漫画の方は難しいとしても)まず匿名氏のnoteを読んでいただくことを、お勧めします。

 さて、匿名氏のnoteタイトルは「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」であり、展開されるのは、

『女性にとってフェミニズム的な考え方はあまりにも自然なので、特に注意しないでいると、いつの間にかそのような思考に陥る』


 といった命題です。
 というのは、本作はフェミ的な作品である。それにもかかわらず、作者の板垣巴留氏(板垣恵介さんの娘さんです)について調べてみても、ことさらにフェミ的な主張をしているとか、そうした気配がない。
 ということは、本作のフェミ的主張は、自然発生したものである。
 女は生まれながらにフェミなのではないか……というわけです。
 これは、ぼくの『トクサツガガガ』評と全く同じですよね*
 あれもまた、「単なるワガママ女が身勝手な愚痴を垂れ流している」だけのもの。
(しかし板垣氏は漫画の中では鶏の被り物をしているというが、『ガガガ』の作者も自画像を鶏として描いています。何か関係があるのかな)
 これら作品は期せずして、「女のワガママ」が「フェミ」とほぼイコールで結ばれてしまうことを如実に立証してしまっています。
 ただ、『ガガガ』の方は「女の子に赤いランドセルを背負わせようとするのは抑圧」など、よりフェミの言語に近い主張がなされており、本作の作者よりはフェミ度合いは高く、その手の本も一、二冊は読んでるかもなという感じがします。一方、本作にはそうした気配が希薄で、これは逆に言えば本作の方が「フェミの自然発生の過程がナマの形で表出されている」ということでもあります。
 さて、ではそれは一体、具体的にはどのようなものか。

* 去年はずっと、この作品について書いておりました。
 おかげで随分なテキスト量ですが……。

フェミナチガガガ
フェミナチガガガ(その2)
フェミナチガガガ(その3)
ショウジョマンガガ
ショウジョマンガガ(その2)

・女性作家、「共生」について考えるってよ

 簡単に説明しますと、本作は「肉食動物」と「草食動物」の対立が柱となった物語と言えます。
 冒頭、舞台の学園において肉食動物が草食動物を食い殺す事件が起こり、しばらくはそれにまつわるごたごたがストーリーの主軸になります。
「文明社会」である彼らの世界で「肉食」は最大のタブーとされます。人間社会なら「動物」を食えばいいわけですが、何しろ動物なのだから、共食いはご法度というわけですね。
 では肉食獣が何を食べているのかとなると、植物性の蛋白とミルクを摂取していると語られます。正規に流通するミルクは、メスの動物の「正当な労働」による産物と思しく、裏では非人道的な搾乳をさせている(さらには草食獣の肉の闇市場がある)との描写もあり、唸らされます。
 こうした作劇は考えようによっては、『仮面ライダー01』や『ウルトラマンタイガ』などの多文化共生礼賛の「次」に来るものといえなくもありません。
 例えば、『仮面ライダー01』では「ヒューマギア」と呼ばれるロボットが人間社会に溶け込んでおり、一方では排斥しようとする者、一方では兵器利用しようとする者がいる、という図式ですが、いずれにせよ「ヒューマギア」という素晴らしい存在との共生はよきこととして描かれ、それに否定的な者は、ライダー側にもいるとは言え、悪役として描かれるわけです(まあ、ぼくはまだ前半半分ほどしか見てないのですが……)。
 しかし本作では肉食獣と草食獣の軋轢が描かれ、主人公はレゴシと呼ばれる肉食獣の青年。即ち、「共生」がただいいこととして、それに反対する悪者をやっつけることが目的とされる(ないし、「共生」に水を差す悪者をやっつけることで、状況は改善されるとする)のではなく、「予め加害性を持っているとされる側の、内面」を描くことそのものが、本作のテーマとなっているのです。
 ここでは邪気のない「共生礼賛」に来る、「次」の物語が模索されているように思われます。
 また、そろそろお気づきの方もいらっしゃいましょうが、この冒頭の草食獣殺害事件が象徴するように、肉食獣の「食欲」は明らかに「性欲」のメタファーとして捉えられている。
 匿名氏自身も以下のように指摘しています。

「漫画作品『BEASTARS』のテーマは、性に根差した生きづらさという問題と、その克服にある」


 そして作品はレゴシの自らの欲望にまつわる苦悩を延々と描くことになる……いかがでしょう、結構いいと思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。ぼくも「あ、いけるかな」と思いました。

・肉食、悪だってよ

 ――が!
 その期待はあっさりと覆されることになります。
 あ、いや、何しろ一巻しか読んでないので、これはあくまで匿名氏のnoteを読んでの意見になりますが……。
 ある意味、未読のままでの批判になり、申し訳ないとは思うのですが、一応そこをお含み置きの上、お読みください。
 本作においては、肉食獣の全員が男で、草食獣の全員が女というわけではありません。実はエリート的な男が草食獣だったりで、肉食獣=ブルーカラー、草食獣=ホワイトカラー的なムードも漂っています。
 ここを単純に「男=肉食/女=草食」という図式にしてしまったら、作品構造が非常に安易で単調な、「わかりやすい薄っぺらな風刺漫画」となっていたでしょう。
 ただ……ではその辺りの構造を作者が精緻に考えていたかと言うと、それはそうではなく「何とはなしに、感覚でやっている」のではないかなあと。
 上の「草食系エリート男子」であるルイにしてもそうで、匿名氏は彼を、「形として男性として描いてるだけで、実質的には女性なのだ」とでもいった解釈をしているように思えますが、果たしてどうなのかなあと。
 未読分ではレゴシがこのルイの足を食う描写があるといいます。ルイは裏市の食肉として育てられていたという過去があり、足にはその印としての焼き印がある。そのため、レゴシにその忌まわしい印ごと、足を食ってくれと頼むというわけで、一応、これは「同意の上でのセックス」と取れなくもないですが、果たして両者に性的な感情があったかとなると、ぼくには何とも言えません。いえ、ちゃんと読んでから言えって話ですが。
 作者は「何とはなしに、感覚でやっている」と想像したのは、この辺りがそこまで煮詰められないままに描かれているのではと思ったからです。ルイが「BLの受け」のような存在、つまり「事実上の女性」として描かれているようには、ぼくには思われない。

・草、食っても悪くないってよ

 ――ルイの話は少々、余談めいていたかもしれません。
 本作でレゴシに次ぐ重要なキャラと言えば、ヒロインであるウサギのハルでしょう。彼女はもちろん草食獣であり、彼女へと「食欲」を感じたレゴシが彼女を殺害しそうになる場面が、一巻中盤のクライマックスになります。
 以降、まあ、ご想像通りハルが饒舌にモノローグを展開するのですが、それが「誰よりも弱いがため、性行為を通してしか、相手と対等になれない云々」といったもの。
 そう、彼女はとんでもないビッチウサギで、上のルイとも性関係を持っている、ヒロインにあるまじき存在。そんな彼女がレゴシと恋愛関係となるのですが、ハルがレゴシを誘惑し、レゴシがたじろぐといった描写がなされるようです。
 このキャラクターについては言いたいことがありすぎて、整理が難しいのですが……まず、先に書いた「動物漫画」とは随分思い切った設定だ、という疑問に対する答えがここで提出されているのです。
 どういった目的を持って、作者は本作を「動物漫画」としたのか。
 それは第一に、「ビッチの漂白化」です。仮にですが、これが人間のキャラクターの漫画として展開されたらどうでしょう。読者の男性はヒロインに「萌え」を(仮にどんなけったいな絵で描かれていようと多少は)感じるものであり、「ビッチ」性に拒否感を覚えることでしょう。
 つまり、「ビッチがヒロイン」はまさしく、動物だからこそ許されたといえるのです。
 一方では作者にとっても、「動物化」には「BL化」に近しい作用がある。BLとは言うまでもなく女性が自らの性欲から目を反らし、外在化させたまま、性的快感を得るための表現です。
「性には全く疎い私が、自分ではそんな気は全くないのに、男の子たちが勝手に寄ってきて、モテモテ」というわけですね。
 それなりに自分の容姿に自信のある女性ならば、主人公を女性として描く(即ちTLなりレディースコミックなりの作家になる)わけですが、ご当人がそうでない場合は、主人公を男の子にして、自分と心理的に「分離」するという一手間が必要になるわけです。
 本作の「動物化」も同じなのでは……というのが、ぼくの想像です。
 しかし、だからこそ、「動物化」には「作者の性的欲求の顕在化」という作用があります。それは丁度、BLに普段は窺い知れない作者の性癖が現れるのと同じです。
 何せ、一度明確に肉食獣の草食獣への「性欲」を「食欲」へと転化させたはずの本作なのに、ハルが登場したとたん、いきなり「恋愛」「セックス」という概念をまたよいしょと引っ張り出してきている。
 ハルは「食物」としても「女」としても、肉食獣からも草食獣からも、求められる相手として描かれている。
 即ち本作は「性欲」を「食欲」に置換した物語などではなく、「都合によってセックスを食欲に置き換えたり、そのままで提示したり」する漫画なのです。
 ぼくが本作を「感覚で描いているのだろう」としたのはそれで、この辺りの描写には「当初は食欲という暗喩で性欲を描こうとしたけど、何かヒロインが動物なので、その辺を気軽にストレートに描いちゃいました」という感じが、すごくするのです。
 そしてハルのビッチ的振る舞いは「何か、生き難いのでしょうがありません」と(よくわからない理由で)聖化されている。
 永野のりこという漫画家さんがいます。ぼくの好きな漫画家のベスト5に入るほどに入れ込んでいる作家さんなのですが、彼女の『土田君てアレですね!』という作だけはあまり好きになれません。
 ヒロインがかつてエロ本のモデルになっていて、それをネタに悪人にゆすられるというお話です。もちろん、その悪人の行動は肯定できないものの、ヒロインは自分の過去を「そこでしか自分を肯定できなかった」とのワンワードで免責している。
 その他にも作品のあちこちに男性性に対する嫌悪感(というよりも、それを悪としての断罪)が匂わされ、正直、永野作品はそれが通奏低音になっているものの、この作については少々、バランスの欠けた作品だなとの読後感を持ちました。
 本作もそれに近い構造を持っています。
 ビッチウサギは免責されつつやりまくっているのに、肉食獣は「セックスとは別枠の原罪としての食欲」を、頼んでもいないのに抱え込まされ、悩まざるを得ない状況に追い込まれている。
 何故、作者はこのような設定を配したのでしょうか。
 それが、作者の道徳律だからです。
 フェミニストが非常にしばしば、「レイプは支配欲によってなされる」と称することを、ここで思い出すべきでしょう。
 そう、「性欲」と「レイプ」は違うのだというのがフェミニストの、そしてこの作者の世界観です。
 この世には「愛」という尊いものがある。
 そして「愛」とは「ワタシが気持ちがいいこと」である。
 他の定義は、ありません。
 だから本作において、「食欲」と「性欲」という二つのコードが必要とされたのだし、それは匿名氏が繰り返すように、「女性の主観では正しい」こと。
 匿名氏は以下のように形容しています。

つまり、板垣巴留先生の中では、男の性欲と愛情は、分離可能なものだということになっているようなのだ。


 即ち、女性様絶対的被害者史観漫画、として成立しているのです、本作は。
 そう、本作の最大にして最悪の欺瞞は、この「食欲を性欲と言い張っている」点です。
 いえ、「寓話」なんだから、そんなことを言うのは「オオカミが服を着ているのはヘンだ」という言いがかりに近いとお感じになるかもしれませんが、しかしそれはそうではない。
 さっきから歯に物の挟まったような言い方をしていますが、結局、「食べたら死ぬ」以上、「食」を「性」に準えるのには限界があるのです。
 何となれば「性的対象となること」は女性にとって一方的な被害では全くなく、それが栄誉となる、自らの承認欲求を満足させる大きなメリットなのですから。
 そこを、「食べられると死ぬから」という理由で「性的対象となること」を一方的な被害であるとするのは、大いなる欺瞞なのです。
 これは「レディースコミック」です。
 自分の意志で、男が美女をレイプする漫画を描き、その快楽(承認欲求の充足)を散々味わった上で、その男に制裁を加えてみせる「負のポルノ」そのものです。
 しかし、さて、本作を予め「風刺」し、「論破」した作品が、大家によって描かれていることを、みなさんはご存知でしょうか。
 ――とまあ、今回はこんなところで。
 次回、いよいよ(『BEASTARS』の、俺が勝手に考えた)最終回です。