2f17d8472830ba3970a752c851ab5040c9c7711d

 先週はアンチフェミのこれからについての動画をご紹介しました。



 これからしばらくはそれの補足になるような過去記事を採録して、つないでいこうかと。というか、本書については(その3)まで書いたので、これだけで精いっぱいでしょうが。

 さて本書は一時期気を吐いていた久米泰介師匠の訳書で、言ってみれば「マスキュリスト(=アンチフェミ左派)」のバイブル。
 本書を評することでアンチフェミ左派のダメさがおわかりいただけましょうが、それ以上にこの「ミサンドリー(であり、対の概念である「ミソジニー」)」という言葉と、ぼくたちがどう向きあっていくべきかが、ここでは問われています。
 先人の「おっちょこちょい」に、大いに学ぶことにしましょう。
 なお、初出から多少は文章をいじっていることをお含み置きください。

*     *     *

 実のところいまだ、本書を読破できておりません。先日、ようやっと三章までを読み終えたばかり。いつまで経っても終わりそうもないので、取り敢えず、この辺りで中間報告をしようと思った次第です。
 と言っても、正直現時点でのぼくの評価は、あまり高くありません。
 目次を見る限り以降の章も期待できないな……という印象なのですが、終章が「結論」となっており、ここで評価がひっくり返る可能性は大いにあります。
 今回はあくまでその前哨戦ということで、ご理解いただきたく存じます。

 ――本書を読んでいて思い出したのは、「男性差別告発本」(以降、「男性差別本」)です。
 具体的な書名を出すことは差し控えますが、ぼくが『女災』を出版する以前、「男性差別本」とでも称するべき書籍が五、六冊ほど出版されました。言うまでもなく学者や評論家などが出したものではありません。文章のプロではないと思しき方が、自費出版と思われる形で出したそうした書籍が、いくつかあったのです。
 ぼくとしては、その心意気を評価するにやぶさかではないのですが、内容は乱暴に言ってしまえば「○○は男性差別です、○○は男性差別です、○○も男性差別です、終わり」という感じで、あまり本として完成度が高い、批評性が獲得できているとは言い難いものがほとんどでした。指摘一つひとつは頷けるものが多いし、そもそも男性の窮状を表現しようとした時、既存のガクモンを援用すればフェミニズムの罠に絡め取られるし、何もない荒野に一から街を建設するが如き大事業が必要とされるのですから、そうそう辛辣に評しては悪いのですが。
 或いはここでドクさべを思い出してもいいかも知れません。「女性専用車両は男性差別です」という指摘自体は頷けるのですが、彼はそこで考えることを止めてしまい、そこに「一般女性への恫喝」というステキなトッピングを加わえ、全てを台無しにしてしまいました。

 本書もまた、上の「男性差別本」と、基本は変わりないように思います。
「日本語版への序文」では

 イデオロギーフェミニズムは確かにこの問題(引用者註・男性問題)を悪化させはしたが、しかしこの問題の原因ではない。
(6p)


 とあります。ぼくはまずこれに賛同します。
「序論」とも言える第一章では、

 ミソジニーのようにミサンドリーは文化的にプロパガンダされたヘイトだ。
(26p)


 とあります。
 以前にも「愛され格差」と表現したように、ぼくには男女のジェンダー差は超えがたいものであるように思えるのですが、とは言え、男性の株がここまで下がったのは近年のことであるのは事実で、一応、これにも首肯しておきましょう。
 もっとも上の文章の脚注で、著者は「ヘイト」は感情ではない、という摩訶不思議なことを言っています。これは恐らくフェミニズムが「ミソジニー」などといったフレーズを「攻撃呪文」として使う時になされる、「公共性のある表現は感情の発露であるに留まらず政治性を帯びる(ので、碧志摩メグは規制せよ)」というロジックの「パクリ」と思われ、だとするならば許容できません。が、この問題は七章で詳述するとの予告があるので、まずは置きましょう。
 以降も「男は男であるだけで断罪されなくてはならぬとされ、女は女というだけで救済されなくてはならないとされる(大意)(29p)」、「女はヒーローとして扱われ、男が肯定されるのは、改造され、去勢され、名誉女性になることによってのみのだ。男のための部屋は、この世にはない(大意)(30p)」などといった、非常に頷ける指摘が続きます。
 また、以下のような指摘もなされます。

 ポピュラーカルチャーにおけるミサンドリックな芸術や作品は、政治的な主張を必ずしも意図しているわけではない。大部分のそれは、既に私たちの社会に根付いている偏見をただ単に反映しているだけにすぎない。
(30p)


 まさにその通りで、ここを忘れるとフェミニズムと同じ、「悪者がメディアを操り大衆を洗脳をしているのだ」という陰謀論に陥ることになります。彼女らが「カウンターとしてジェンダーフリー教育で子供たちを逆洗脳しよう」と企み、惨めな失敗を繰り返していることは、最近*1も述べたかと思います。
 以上、著者たちの視点は、是非は置くとして極めてラディカルで刺激的。
 ところが二章以降の言わば「本論」に入ると、申し訳ないですがいささか退屈なものになっていきます。そう、テレビのバラエティーショー、ドラマ、映画などを採り上げての「○○は男性差別です、○○は男性差別です、○○も男性差別です」攻撃が始まるのです。

*1 「秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)


 第二章は「笑われる男性」。ここでは

 第六六回アカデミー賞授与式でされた司会のウーピー・ゴールドバーグのお決まりのコメディには以下のジョークが含まれていた。「次に紹介するプレゼンテーターの一人はサルの心を持っていた男を映画で演じた女性です、私の経験ではそのような男は珍しくありません。」「ロレーナ・ボビット〔夫ジョンの男性器を切断した〕は、是非ボブ・ドールにもやってほしい。」
(54p)


 といった下品なジョークでいかに男性が笑われているかを紹介します(ボブ・ドールは共和党の政治家ですが、殊更にフェミに嫌われるような人なのか、調べてもよくわかりません)。
 第三章「男性への見下し」のリード文では

私は男性が嫌いというわけではない。単に女性の方が優れているというだけだ。[…]とても賢い私の友人が訪ねた(原文ママ)。「すごく優秀な男性だけしか女性に釣り合わないことに気付いていた?」その瞬間、頭の中で火花が走ったわ。
(85p)


 というアンナ・クィンドレン(『ニューヨークタイムズ』の記者)のインタビューを引用します。
 映画『シーセッド・ヒーセッド』には典型的な「男はダメだが女は進歩派」史観に基づいた男女が登場します。最終的にこの二人は結婚するが、男が結婚と共に性的自由を手放すのに比べ、女は何も手放しません。これはヒロインが一流の女性で、男の稼ぎに頼らなくていいため。著者はこの映画には男の求める性的自由は悪、女の求める経済的職業的自由は善である、との前提がある、と指摘します。
 確かに一つひとつは見ていてムカつくのですが、こんなのがずっと続くので読んでいていささか食傷気味になります。

 アペンディクス1「準ミサンドリック映画」では映画『ピアノ・レッスン』がやり玉に挙がります。
 しかし読む限り、他愛ない「悪い夫から逃げた女性が再婚して幸福になる物語」を、著者が大仰に糾弾しているようにしか見えません(むろん、大前提としてそれが「声なき女性の声を拾い上げた素晴らしい映画」と大仰に称揚されているからこそなのですが)。
「男が悪者になっている」映画は全部けしからぬ、ではフェミニストの「表現狩り」と同じですし、ましてや現実の世界でも、「男性が女性に暴力を振るう」ことがその逆よりも多いことは自明であり、そこに文句を言っても仕方がありません。かつて、漫画の少女キャラが少年キャラよりも背が低く描かれていることを差別であると言い立てたフェミニストがいるのですが、著者の口ぶりは何だかそれを思い出します。
 何より奇妙なのは、この映画のラストで、「悪い夫」にいじめられていたヒロインは「よき男性」と再婚し、幸福になるのです。レズになるのでもなく、一人で生きるでもなく。
 それにも関わらず、著者はここに噛みつき、「言い訳だ」とにじり寄ります! これは「フェミニズムの押しつけ」との追及をかわすために、言い訳として用意されたラストなのだそうです。
 そんなバカな。単に商業映画だからハッピーエンドにしただけでしょう(もっとも、この点も指摘されてはいます)。
 こうなると、「証拠がないことこそ悪者が証拠を隠した証拠」という陰謀論です。著者はもう、相手を追求するためにあるかどうかもわからない動機を勘繰る、フェミニストモードに入ってしまっているのです。
 本作は、ヒロインが二人の男性から求愛されるという、ただの、よくあるレディースコミックに過ぎません。もっとも最終的に彼女を娶るのが元使用人であり、最終的にマオリ族に溶け込んでいくというびっくりなオチは反レディコミ的ではあるのですが。よくわからないのはこの二人目の男性はヒロインの指を切り落としてしまうというとんでもないやつで、どう考えても正義のヒーローにやっつけられる以外のオチのつけようがないところを、何故かヒロインとハッピーエンドを迎えるのです。どうも西洋文明をドロップアウトすることで「贖罪」がなされるというのが本作の思想のようで、フェミと言うよりはまた何か別なPCのために作られた映画のように思われます。
 いずれにせよこの映画評については「差別ケシカラン」というPCの暴走にしか読めないし、本編にもまた、(概ね頷きながら読んだものの)その萌芽はあるように思われます。
 こうした「男性差別、男性差別」といった(ちょっと冷静さを欠く)連呼は「男性差別クラスタ」のリアクション、「男性差別本」のスタンスとも「完全に一致」しているのですが、もう一つ、ちょっと思い出したことがあります。
 随分昔、『君はペット』という少女漫画がドラマ化された時の、2ちゃんねる男女板の反応です。要するに女性がイケメン君をペットとして飼うという(漫画原作の)ドラマが放映されたことがあるのですね。
「けしからぬ、仮に男女を入れ替えた作品があったとしたら、それが許されると思うか」。
 確かにそれはごもっともです。
 ただ三点、指摘しておかねばならないのは、エロ漫画、エロゲで幼い女の子をペットにするような話は、いくらでもあるということ。しかし一応、男たちはそれを反社会的表現とわきまえ、「ポルノ」という枠に押し留め、「裏物」としてきたのです(オタクを殲滅するため、オタクの味方を自称してこれら裏物を表に出そうとする悪の組織が存在することについては、本稿ではひとまず置きます)。
 それに比べ、女たちは自らが加害者になることに全く内省がないので、こうしたものを地上波ゴールデン枠で流してしまう、そここそが問題なのではないか、というのが、まず一点。
 もう一点は、上の観点に対する反論。確かに男女のジェンダーを考えた際、女性が上のような(男性をペットとして飼う)ことはリアリティは低いので、男性向けのそれとは同一に語れない。事実、上の作品は(すんません、未見なのですが)恐らくポルノ的な表現はなされていないはずです。ある種のインモラルさを持つ作品でも、そうした女性向け作品の特質故、ある程度、「ゴールデンでも観れるモノになってしまう」、即ちここにも男女の非対称性が動かしがたく横たわっているのであり、何でもかんでも逆転させて「差別だ、さあどうだ」と言うだけではあまり効果がない。
 三点目として、しかし更に、女性には「被害者を装うことによる加害者性」というまた別な「加害者性」がある。そこをこそ自覚し、また批判されるべきであるということ。
 即ち、「男が悪者扱いされている、許せぬ」と言いたいのであれば、映画におけるその断罪があからさまに過度であるとか、女の加害者性(被害者に居直り、無責任なまま、罪が糾弾されない、或いはヒーロー役の男性が彼女の意を汲む形であからさまに過度な攻撃を悪役男性に向けるなど)をこそが糾弾されないとならないのではないか。
 ぼくが『ダンガンロンパ』*2や『ネットハイ』*3などを紹介してきたのは、これら作品がそうした批評性を持っていたからでした。想像ですが推理物という「犯人の心理を分析する」内容が「女災を考察する」ことに親和性があること、もう一つはゲーム業界は出版業界と違ってフェミによる「検閲」がなされていないことが、これら作品群が優れた批評性を獲得できた理由ではないでしょうか。
 しかし、残念なことですが、少なくとも本書の筆致を見るに、著者たちがその辺りについて考えを巡らしているとは、ぼくには思えませんでした。

*2 「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
被害者性と加害者性の微妙な関係? 『スーパーダンガンロンパ2』の先進性に学べ!
今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
これからの女子キャラクター造形はこうなる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
弱者性と強者性は転倒する? 『絶対絶望少女』の先進性に学べ!
*3 「ネットハイ

 繰り返すように、ぼくは「男性差別」という言葉を好まない。それは、言ってみれば「男性差別」というワードそのものに「批評性の欠如」という欠陥が内包されているから、とでもいうことになるのです。
 見てきたように「男性差別本」やドクさべの敗因は「男性差別!」と叫んだ時点で、「何か、勝った」気になったところにあるとしか、言いようがないのですから。
 ならば、「ミサンドリー」という言葉はどうでしょう。
「ミソジニー」とは「女性差別」をただ単にカタカナにしてみただけの、粗雑な言葉です。そして「差別」よりもタチが悪い、「女性に対する嫌悪」という感情そのものを糾弾せよというおぞましさを含んだ言葉でもありました。
「ミサンドリー」もまた、それと同様であり、同じ轍を踏む可能性が大いにありましょう。本書のタイトルに「ミサンドリー」との言葉が使われ、副題に「男性差別」との言葉が使われているのは示唆的です。
 が、とはいえ、もう一つ、この言葉にはラディカルさが内包されているとも言えるのです。
 というのも、以前も指摘したように、「ミソジニー」が非実在、穏当に言っても局所的なのに対し、「ミサンドリー」は普遍だからです。
 もちろん、それならば同様に「女性差別」が非実在なのに対し、「男性差別」が普遍だからラディカルだぞ、とも言えるのですが、まあ、ぼくが「男性差別」という言葉を嫌うのは論者たちのその「普遍」に対する洞察の低さが原因とも言えましょう。
 それに比べ、「ミサンドリー」は話を感情の問題であるとしたという点では、明らかに一歩進んでいるのです。「男性差別」という言葉が男女の超えがたい「愛され格差」を勘定に入れていない言葉とするならば、「ミサンドリー」はそこに真っ向から切り込んだ言葉、と言えるわけですから。
(いえ、この非対称性を、「ミサンドリー」論者がどこまで理解しているかとなると、甚だしく疑問ですが……)
 本書について退屈だ退屈だと書きましたが、学術的な本である以上、ある意味「地味で退屈な調査結果の報告」という側面は避けられない。そういうことも大事ですから。
 それにまた、先にも述べた通り、「結論」では新たな視点による論理展開がなされている可能性は充分にある。
 ここしばらくあちこちで書いてきた文章と本稿で、ぼくの「ミサンドリー」という言葉に対するスタンスは大体、述べられたかと思います。
 後は、本書がそれを超える視点を提示してくれることを祈りつつ、四章以降に取り組んでいくことにしましょう。