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お正月だよ!男性学祭り(その1:『男性学入門』)(再)
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お正月だよ!男性学祭り(その1:『男性学入門』)(再)

2023-01-13 19:26
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     さて、相変わらず「男性学」関連の再録、前回に続いて伊藤公雄師匠の著作のレビューです。
     これは2015/07/03、もう八年前に発表されたもの。
     今回は伊藤師匠のパクリ疑惑を中心に、男性学がいかな無価値なものかを、ご覧いただきましょう。

     *     *     *

     ファレルの著作にヘンなレビュー 都合の悪いやつぁ黒歴史
     自治体の予算をありがとさん 男子学生disりまくり
     楽なモンだぜ 男性学音頭~♪

     というわけで今年もやって参りました、「ドラえもん祭」に代わってすっかりおなじみとなりました「男性学祭」!!
     男性学と言えば、当ブログでは渡辺恒夫、伊藤公雄という人物の名前を今まで幾度も挙げてきました*1
     簡単におさらいしておくと、渡辺氏は1986年に『脱男性の時代』を著し、また89年には『男性学の挑戦』を編んで日本で最初に「男性学」を提唱した人物です。以前の記事にもあるように、「男を脱する」のはよきことだ、という考えには疑問符を着けざるを得ませんが、論調は「男性は悪」とするものではなく、「男性は恐るべきデメリットを背負っている」ことを指摘したものであり、大いに頷くべき点の多い快著と言えます。
     彼は『脱男性の時代』の冒頭で

     最初に一つの予言をさせていただきたい。それは、
     二〇世紀が女性問題の世紀であったとすれば、
     二一世紀は男性問題の世紀になるだろう、

     ということである。
    (p1)


     と述べていました(強調部分は、元の文ではルビとして点々が打たれている箇所です)。
     が、千田有紀師匠の著書、『女性学/男性学』には、伊藤師匠が近しいことを言っていた、という下りがあるのです。


    日本において男性学というジャンルを打ち立てるのに大きな役割を果たした伊藤公雄は、「一九七〇年代から八〇年代にかけて「女性問題の時代」の開始があり、それが今後ともますます深化しようとしているとすれば、一九九〇年代は「男性問題の時代を告げる時にならざるをえない」といいます。
    (p132)


     つまり、言ってみれば伊藤師匠のパクリ疑惑が、この時浮上したのです。
     しかし、有紀師匠の本は引用が多い割に引用元の書名が書かれておらず*2、伊藤師匠が本当にこのように言っていたかどうか、未確認でした。
     さてこの伊藤師匠、主に90年代のメンズリブで活躍した「男性学の専門家」です。彼については永らく、『〈男らしさ〉のゆくえ〉』しか読んだことがなかったのですが、先日、何とはなしに『男性学入門』を手に取ってびっくりしました。これは96年の出版なのですが、「はじめに」に以下のようにあるのです。

     ぼくは、一九八九年の暮れ、一つの「予言」をしたことがある。
     それは次のようなものだった。
    「一九七〇年代から八〇年代にかけて、“女性問題”の時代があった。この女性問題は、今後、さらに重要な課題となるだろう。そして、こうした動きに対応するかたちで、一九九〇年代は、“男性問題”の時代がはじまるだろう」
     この「予言」は、どうも的中したようだ。
    (p1)


     何と言うか……全くいっしょですよね*3
     もちろん、年代設定は違います。
     渡辺氏が20世紀と21世紀と言っているのに対し、伊藤師匠は80年代と90年代。
     結果、伊藤師匠の予言だけが外れてしまったのはお気の毒ですが(当人は的中したと豪語していますが、「男性問題」の時代なんて来てませんものね)、しかし「他人の発言をパクって、手柄をいち早く我が物にするため、年代設定までも早めて記述した」ように見えるのはぼくだけでしょうか……?
     そもそも自己申告を見る限り、伊藤師匠が「予言」したのは89年で、86年に渡辺氏の著作が世に出た後。自分で「パクリました」と言っているようなものです。
     むろん、こうした(学術的データによる「予測」ではなく、印象や直感による)「予言」にパクリ問題が発生するものかどうか、ぼくは知りません。恐らくノストラダムスの後に「1999年に地球は滅びる」と予言した人も、パクリ扱いは受けてはいないでしょう。
     しかし、渡辺氏が伊藤師匠よりも早く「男性学」を提唱したにもかかわらず、フェミニストのバッシングを受け、黒歴史扱いを受けている*4ことを思うと、やはり納得できないものを感じます。
     呆れたことに伊藤師匠は『〈男らしさ〉のゆくえ』の中で参考文献として『脱男性の時代』、『男性学の挑戦』を挙げ、また『男性学入門』でもその研究について(ホンのチラッとだけですが)言及し、「読書案内」では『男性学の挑戦』を挙げています。知らないはずがないのです。

    *1 「夏休み千田有紀祭り(第一幕:メンリブ博士のメンズリブ教室)
    *2 とある人物が、有紀師匠の著書を「フェミニズムの良質なテキスト」として紹介していたので、ぼくのレビューにリンクを貼ったところ、「引用するなら出典元書誌情報とページ数を書いてくれ」とお叱りを受けました。師匠に言ってあげて!
    *3 さらに摩訶不思議なのですが、この一文は、同書の28pでも全く一字一句違わず、繰り返されています。
    *4 「夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)」の「■付記1■」をご覧ください。有紀師匠は伊藤師匠が最初に「男性学」を提唱したようなことを言っていますが、それはちょっとないでしょう。

     ――さて、それでは、自分たちに都合の悪い研究者の存在を抹殺してまで立ち上げた、伊藤師匠の「男性学」とはいかなるものか。まあ、「フェミニズム」を絶対の正義として前提し、男のあり方をdisる以上の内容はないのですが、せっかくですから簡単に表題の『男性学入門』をレビューしていくことにしましょう。
     伊藤師匠も前々回の田中師匠同様、大学で教鞭を執っていますが、第3章の「授業での学生たちの反応」という節を読んでいて腰を抜かしそうになりました。
     大学での男性学の講義に対し、女子の反応は多様性、具体性があるが、男子学生は一般的かつワンパターンな返答しか返ってこない、と師匠は嘆きます。
     男子学生のレポートが引用されるのですが、それは性別役割分業を肯定する内容。師匠はそれに対し、「旧来の意識から抜け出していない」と腐し出すのです。
     最初は「多様性、具体性の有無」を問題にしていたにもかかわらず、話がすり替わってしまっています。これでは「俺の押しつける考え以外はNGだ」と言っているだけで、そんな基準で男子の程度が低いと言われても、困ります。
     第1章冒頭でも「今の男の子は軟弱だ、ふにゃふにゃしていて頼りない、しかしその中身は旧態依然とした性役割に支配されている」などと書いていますが(この当時はお天気の挨拶でもするみたいに、とにかく「男が弱い」と繰り返すのが流行りでした)、そりゃ、自分の考え以外は認めない人に対してはそれ以外のリアクションはしようがないでしょう。
     3章では、欧米での男性学についても語られます。
     アメリカでは必ずしも親フェミニズム的な男性運動ばかりが一般的ではなく、反フェミニズム的な勢力が優位である印象もある、といった記述がされ、ワレン・ファレルもややそっちに行きかけていると腐してもいます(ちなみに本書では「ワレン・ファレル」「ウォレン・ファレル」と表記が一定しません)。
     第4章ではジェンダー論が概観され、ミードが引用されます*5。もっともこの時点でも、既にミードの過ちは明らかで、師匠も気が引けたのか、懐疑論との両論併記といった感じの書き方をしています。が、マネーについては(「読書案内」で『性の署名』が採り挙げられているだけで)言及なし。この時期に、既にウソがバレていたのでしょうか。
     第8章のタイトルは「もっと群れよう、男たち!」とされ、仕事以外の男たちのネットワークを作ろうとの提案がなされます。まだバブルの余韻冷めやらぬ当時としては、「仕事人間」のオッサンを嘲笑う論調が、ある程度の説得力を持っていたのでしょう。
     しかし「ホモソーシャル」などという概念の捏造を始めたフェミニズムにとっては、これももはや古びた主張ではないでしょうか。
     また、他の章でも「男は女に比べて共感的コミュニケーション能力に欠ける」といったこの当時よく言われたロジックが繰り返し語られているのですが、それもまたホモソーシャル論とは齟齬が生じます。

    *5 文化人類学者、マーガレット・ミードの研究は一時期、フェミニズムによって「男女のジェンダーが環境によって左右される」ことの論拠として採り挙げられていましたが、ミード自身によって「いや、そんなことは書いていない」と否定されてしまいました。

     第6章は「「働く主夫」の生活と意見」と題され、自分は「働く主夫」であるとドヤ顔の師匠。しかし、見る限り大学に通勤もしているし、「専業主夫」というわけではなく、一家の稼ぎ頭が師匠なのか奥さんなのかは判然としません。朝食は師匠が作るけれど、夕食は奥さんが作ることが多いとかで、こうなると「主夫」の定義がよくわからなくなってきます。どうも師匠がとにもかくにも「ワタシは主夫です」と言ってみたかっただけなんじゃ、という気が……。
     268pに書かれていることが象徴的です。男性は(他の家事もそうだけれども、とりわけ)洗濯という行為を嫌がる、しかし自分は洗濯が好きだ、と大いばり。自治体で講演を請け負った時、(こうした人たちはこういう税金をじゃぶじゃぶ投入した利権に与れ、本当に羨ましい限りでございます)とある職員が「私は家事を進んでやるよき夫」とアピってきたので洗濯について口にすると、その職員は呆然となって、「なるほど、洗濯はできない」と告白したそうです。師匠の、どうやら洗濯は男にとって最後の障壁らしい、と語る口調には、「この職員のような似非と違い、我こそは真の解放された男性なり」との得意さが感じられます。しかし、師匠の家庭のご事情は存じ上げませんが、一般的には仮に旦那がやると言っても(ましてや年頃の娘でもいれば)、下着の洗濯など、嫌がられるのではないでしょうか。
     先の「もっと群れよう、男たち!」との理念が『ホモソーシャル』との概念とバッティングする件と併せ、何だか勝部元気師匠を思い出します*6
     それはつまり、男性フェミニストがバカ正直にフェミニズムを実践すると、それが女性フェミニストへのブーメランとなってしまい、女性フェミニストからのお叱りを受けてしまう、との気の毒な構図です。いえ、伊藤師匠がこの後、女性フェミニストに叩かれたかどうかは知りませんが、いずれにせよこうした男性フェミニストを、そして主夫を、女性フェミニストが必ずしも歓迎しないことは、みなさんご承知の通りです。
     そもそも、この洗濯論、目下のぼくたちには極めて奇異なものに映ります。フェミニズムの華々しい成果としての非婚化がここまで進行した現在では、少なくとも自分一人の分の洗濯を行う男は、世に普通になっているはず。つまり「洗濯」は意識の高い人にのみ許された特権的行為でも何でもなくなったわけで、何というか、まあ、おめでとうございます
     さて、主夫についてまだまだ続きます。

    「専業主夫」たちの体験記を読んで感じるのは、「家事・育児」という労働が、それまでの仕事に追われる生活と比べれば、それなりの楽しさや新しい発見をもたらす労働であるということだ。
    (p277)


     へえ、だったら是非、女性たちにもその楽しさを分けてあげたいですね……と思っていると、とたんに家事について、無力感を感じる、イライラが生じる、評価されないことで不満が募るとその苦痛を語り出します。


     実際、「働く主夫」の生活をしているぼくも、このたいへんさは身に染みてよくわかる。
    (中略)
     いわば二四時間労働なのだ(まあ、これはこれで息抜きになって、楽しいところもないではないのだが)。
    (p277-278)


     どっちじゃい!!
     二四時間労働じゃ息抜きになんかなんないでしょうに(先には男性の労働こそ「仕事に追われる」非人間的なものだと言っていたばかりなのだから、もうメチャクチャです)。まさに筆致が一行毎に千変万化、何を言いたいのかさっぱりわかりません。
     結局、「家事労働などという苦痛なものを女性に押しつけてすみませんでした、贖罪のために家事をやります」というのならば辻褄はあいます。もっともそれが正しければ、女性たちはその男性の選択を大いに歓迎して、専業主夫を養うようになるはずですが。
     或いは「家事労働がことさらに悪いわけではない、性別役割分業という思い込みこそが許せないのだ」、といった主張も考え得る。しかしそうなると「女性が搾取されてきた(=主婦業が損)」という前提が揺らぎます。また、女性たちの専業主婦志向を説明できません。結局、「主夫普及運動」は他のフェミニズムのあらゆる主張と同様に、「意識の高い我々がお前らの洗脳を説いてやる」というものになるしかないのです。

    *6 「サニタリーボックスを汚物入れと呼ぶのは女性蔑視の現れ」。チンポ騎士を気取ってトイレの汚物入れについてインネンをつけたはいいが、女性からは総スカンという勝部師匠の気の毒な姿にみんなで涙しましょう。

     いえ、それでも「フェミニズム」は「とにもかくにも男が得をしている、男が全部悪い」と言っておけば話が済みました。
     しかし「男性学」はいささか事情が複雑です。「この世は絶対的男性優位社会である」という前提から出発して、「男性を解放しよう」という結論に至らねばならない、根本的絶対的矛盾を抱えた、奇妙奇天烈摩訶不思議な学問なのです。
    「男は男らしさの縛りに苦しんでいる」。
     ここまでは、ぼくも全面賛成です。
     しかし、それによってデメリットを被っているのであれば、男は被差別者と考える他はありません。
     そして、男が男らしさを捨てたら、「誰かがやらねばならない」その役割はどうなるのか。エラいエラい男性性に富んだフェミニスト様がえふいちに行ってくださるのでしょうか。
    「ジェンダーは男が陰謀で捏造したフィクション」であると主張しながら、一方ではコミュニケーション能力など、女性ジェンダーの美質を持ち上げ、男も女並みになるべきだと言っておきながら、しかし女は男並みになるべきだとの幾重にも幾重にも矛盾を折り重ねた主張しかしないから、読んでいるこちらは頭がおかしくなりそうです。
     結局、彼らの過ちは「フェミニズムから出発したこと」にあるとしか言いようがありません。
     一般的な男性(女性)は、恐らくですが言語化はしないまでも、何とはなしにでも女性のメリット、女性の業(女性にも悪いところ、男性を利用している面があること)についても、認識できているはずです。
     それらの直感を、フェミニズムは全て否定し、覆い隠してしまう。
     結局、これはやはり(あんまりこういうことばかり言いたくないのですが)「何か、体制が悪い」という彼らの習い性がするっとフェミニズムにハマり込んでしまったがために、起こってしまった過ちなのでしょう。
     90年代当時はフェミニズムや男性学が「既存の、マッチョな男性」へのカウンターであると自称することに、今に比べればまだしもリアリティがありました。もっとも、「今時の男は軟弱だ」との男性へのバッシングもまた、今より遙かに酸鼻を極めるものではあったのですが。
     本書には世間がフェミニズム、ジェンダーフリー論を支持し始めたと誇り、以下のような記述が度々登場します。

     さて、われら男たるもの、この文明史的転換を、「客観的に」見つめなおし、それこそ「男らしく」「いさぎよく」、古い〈男らしさ〉のこだわりから自由になれるのだろうか。
    (p194)

     これは、男性にとっては、ちょっと悔しいことだけど、そのへんは、「男らしく」(?)フェアーネスの態度を貫きたいものだ。
    (p257)


     これらはこの当時の彼らの決まり文句でした。つまり自軍の勝利に酔い、「お前ら、男らしさにこだわるなら『男らしく』男らしさを捨てる覚悟をしろよな」と皮肉っているつもりなのです。
     が、彼らはそもそもその「男らしさ」を否定しているのですから、復讐史観*7と同じ、ダブルスタンダードなんですよね。
     事実、男が、まさにフェミニスト様のご命令通りに「男らしさを捨てた」ことで、目下の男たちは「女ばかりずるい」と言うようになってきたわけです。しかしフェミニストたちはそうなると一転して、それへと罵詈雑言を浴びせるようになりました。
     今までひたすら十年一日の言葉を吐いてきた「男性学」者たちは果たして、これからそうした男性、そしてフェミニストたちへと届く言葉を、新たに紡ぎ出すことができるのでしょうか……?

    *7 やられたからやり返していいのだという論法ですが、これは非常にしばしば、当人は悪いことをしていない人物であろうと、男という属性を持っているだけでその相手への攻撃をも正当化してしまう、手前勝手な理論です。

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