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「ミソジニーとオタクに関する補遺(『日本会議の研究』感想おまけ)」を読む。(再)
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「ミソジニーとオタクに関する補遺(『日本会議の研究』感想おまけ)」を読む。(再)

2023-12-30 16:40
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     ――さて、本来毎週金曜の更新を常としてきましたが、昨日はうっかりしておりました。
     ともあれ、再録記事だけでも上げて、また元旦に投下を予定している動画の予告をしておこうと思い立ちました。

    https://twitter.com/i/status/1740980205622350334


     ここ数日は風邪のせいで頭が痛くて何も考えることができませんでした。コミケも当然欠席。ン十年通い続けて初めてのことです。

     まあ、かなり快復しては来ましたが……。
     さて今回の再録、前回記事の続編で、初出は2016年7月30日。


     ともあれサブカル側のオタクへの視線の一環ということで、ご覧ください。

     ================================

     というわけで、前回ご紹介したブログ記事に、続編が投下されていることに、先ほどスマホの誤作動気づきました。
     ちょっと読んでみたのですが、まず、興味深いと感じたのは、ブログ主のbokukoui師匠が(古い世代のオタクなのでしょう)、

    このように「オタク」趣味が社会に浸透して、「クールジャパン」などと公認される存在になるのと引き換えに、「オタク」は読み巧者であることを放擲してしまった、と小生は考えております。


     としている点で、この「読み巧者」という(何だか珍妙な)造語は、恐らく岡田斗司夫氏のオタク観に影響を受けたものかと思われます。
     何故これが興味深いか。
     というのはオタクの代表者をもって任ずるリベラル寄りの論者たちは、常に岡田氏を攻撃してきたからです。にもかかわらず、そうした人々と同じ「悪の組織」の「怪人」である師匠が岡田氏に影響を受けているのは、何だか奇妙です。
     何故、「悪の組織」は岡田氏を攻撃するのか。その理由の一つがまさに、岡田氏の「オタク=読み巧者」論だからです(岡田氏の名誉のために言っておきますが、この珍妙な造語そのものは師匠の手によるものであります)。
     岡田氏はオタクを「メディアリテラシーの達人」「鍛えられた受け手」であるように規定します。そしてそうした受け手を肯定し、増やそうともしています(『オタク学入門』や『プチクリ!』を参照のこと)。
     これはオタク文化の発祥を考えた時、極めてわかりやすい話です。「舞台」と「客席」、そして「楽屋」の三位一体感こそが、オタク文化の本質とも言えるのではないでしょうか。コミケ自体がそうした性質を持っていますし、或いは『ふぁんろーど』や『OUT』などから近年のニコニコ動画まで、一見すればそれは了解されるでしょう。
     しかしこれは「悪の組織」にとっては、あまり快い考え方ではない。彼らはクリエイター至上主義を掲げ、消費者としてのオタクを狂ったように憎悪しているからです。それは「悪の組織」の目的がこの地上に格差を生み、優れた才能を持った人間を改造し、「怪人」とすることで配下にし、「愚民」を恐怖政治で支配するという絶対的なヒエラルキーの確立にあるからなのです。彼らにとって「クリエイター」は、先兵たる「怪人」なのですね。
     いきおい、彼らは岡田氏を、或いは大塚英志氏などを叩くことになります。
     従来の「オタク」批判の特徴は岡田氏を阿部さんくらいの悪者であると仮想し、叩いた挙げ句、「連帯責任だ」として市井のオタクもついでに否定し、そして配下の「嫌オタク流」に命じて「萌え」を「女性差別」であると難じることで更に市井のオタクを叩き、そして、その一方では「岡田は今のオタク文化をわかっていない」と両者の分断工作をするという、何というか矛盾を矛盾で煮染めて矛盾でトッピングしたかのようなダブル、トリプルスタンダードでオタクを難じ、オタクに「何か知らないけれども我々は悪者なのだ」というアイデンティティを植えつけるところにありました。
     それに比べれば、師匠のオタク論はある種、「サブカルの高慢な自意識」を「(古参)オタク」に移植しただけのシンプルなモノ、と言えましょう。
     要するに「古株のオタクである俺はエラい(大意)」が彼の主張と言えます。

     さて、この辺でもうおなかいっぱいなのですが、肝心の師匠の「オタク=ミソジニスト」論についてまだ何も触れておりません。簡単にやっておきましょう。
     まず、当該記事での師匠の主張は、「オタクの全員がミソジニーだとは言っていない(大意)」とのこと。
     ただ、「オタク文化の隆盛と日本会議の隆盛はパラレルである(大意)」と。
     何だか、当ブログをご愛読いただいている方には、既視感のある光景ではないでしょうか。
     周知の通り、彼らは「悪の大首領」のコントロールによって動く「ロボット怪人」でありまして、プログラム以外の動きをすることはできません。それ故、各々の別個体が毎回毎回毎回毎回「同じこと」を繰り返し言い続けるのです。
     例えば、「中国嫁日記(その2)」。
     ここでは「中国人女性を嫁に娶った中年オタク」が一体全体どういうわけか、フェミニストたちから「人身売買だ!」と言い募られていた件について、触れています。「そんなことを言い出したら、国際結婚は全部人身売買では?」と思ったアナタは、フェミニズムに対する認識が浅い。「結婚は全て強姦である」と考えるのがフェミニズムなのですから。
     ぼくは上の記事で、紙屋高雪師匠のブログ記事を引用しました。紙屋師匠は『中国嫁日記』を楽しく読んでいながら、同時に

     もちろん虚構だから免罪されるものではなく、結局「女は若くてカワイイほうがいい」という価値観の強化や補強に加担しているではないかという非難は甘んじて受けなければいけないだろう。



     と主張します。はて、ではやはり『中国嫁日記』を否定するつもりなのかな、と思ったら、

     ただそれは本書のみが特別にかかえている問題ではない。


     という指摘を最後に、記事を唐突に終えています。
     つまり紙屋師匠の結論は、『中国嫁日記』は差別的である、しかしまた社会全体も同様に差別的である、ということです。
     また別な例として、『嫌オタク流』が思い浮かびます。この著者たちは何の根拠もなくオタクを(まさにbokukoui師匠同様に)体制寄りであり、韓国人差別者であり、女性差別者であり、黒人差別者であり、障害者差別者であると断言、後はただひたすらオタクへの罵詈雑言を並べ立てるという、まさにウルトラ級のトンデモ本。
     しかし、この著者たちはそこまで言っておいて、最後に

    結局、オタクの立脚してるメンタリティって一般人のメンタリティとまったくおなじで、僕はそこに憤りを感じるんですよ。(中略)そのメンタリティは一般人とまったく同じなんですよ。


     などと言い出すのです。
     即ち、彼ら「怪人」たちはみな一様に、「オタクはミソジニストだ」と絶叫し、しかる後、ぼそりと「その他大勢もまた同じである」とこっそりつけ足す、という戦略を取っているのです。
     ここから、彼らの不誠実さが見て取れます。
     あまりにもデタラメすぎて、その真意は想像するしかないのですが、

     1.「俺たちは選ばれし民であり、一般人どもを見下し、支配したい。しかしそれを吐露しては非難される」。だから叩いてもいいオタクだけを叩くことで自分の中の破壊衝動を満たしている。
     2.「フェミニズム様には逆らえないが、その反社会性を全開にするのはさすがにためらわれる(何しろフェミニズムを是とするなら、一般的なジェンダー観は全てリセットせねばならないのです)」。だから叩いてもいいオタクだけを叩くことで自分の中の破壊衝動を満たしている。
     3.「ショッカー」が毎回怪人を一体投入するのみの局地的消耗戦、それも何故かちびっ子をいじめることに執心しているので、彼らもそれに倣い、叩いてもいいオタクだけを叩くことで自分の中の破壊衝動を満たしている。

     以上が考えられましょうか。
     師匠はまた、北原みのり師匠が高島屋の萌え絵広告に文句をつけた件についても肯定し、

     何でも美少女の表象の「萌え」で塗りつぶすことによって、対象を「支配」したつもりになる、というところには、ミソジニーとの関連性を伺えるように思います。


     とも言いますが、「被写体をある種、支配する」のは絵画でも写真でも、何にでも言えることでしょう。ここでも師匠は「森羅万象に対して言えることをオタクに対してだけ言って、陰湿に叩く」という基本戦略を取っており、もう、万事がこの調子です。
     オタクを激しく見下す師匠は自身の根拠も何も示されない妄言が受け容れられないことをもって、

     斯様にテクストを読めないのが「オタク」の現状となってしまったのであれば、小生の前記事へネットから寄せられたコメントに少なからず見当違いなものがあったのも当然でありましょう。
     これもまた、読み巧者であった「オタク」の姿は今いずこと思わされるものでした。

     と絶叫します。
     自分の主張が根底からおかしいことについては、まるきり無反省のご様子です。
     師匠はまた、戦時中にサブカルチャーである浪花節が「国粋」としてもてはやされるようになったことを例に挙げ、

     サブカルチャーがサブである出自の誇りを忘れてメインカルチャーぶっても、それは結局自滅を招くだけではないかと思われます。


     とも言います(相変わらずプログラム通りの主張ですが、このような主張をする人々が税金をじゃぶじゃぶ使ってるフェミニストを称揚するのは一体、どうしたわけでしょう)。
     師匠はきっと、植松聖容疑者が阿部さんに直訴していたからネトウヨだと断じた人(註・山本弘氏)と、同じ感受性の主なのでしょう。

     もう一つ。
     この種の騒ぎで必ず鉄板で入るウザさ極まるイベントが、当該記事にも登場します。
    「女性にもオタクは多いぞとの反論と、それへのお答え」です。
     従来のこのイベントでは指摘された側が大慌てし、「いえ、男性のオタクはクズですが、女性のオタクは極めて優れた人たちですよ」と卑屈な笑みを浮かべて手もみを始めるという段取りがまるで聖なる儀式のように執り行われるのが通例なのですが、本件では「何か、話をずらす」という高級テクが使われております。
     具体的には「BLはホモソーシャルだ」との(本件とは関係ない)説をいきなり持ち出し、師匠の知人の「優れたBLはただ女が出ないというだけのモノではない(大意)」というどうでもいい談話をぶつけてお茶を濁すというもの(面倒なので詳しくは当該記事に当たってください)。
     仮にホモソーシャルが絶対悪なら、「ただ女が出ないというだけのモノではない」BLであろうとも許されるはずがないし、仮に許されるとしても、「優れてない凡百のBLはやはりホモソーシャルで許せぬ」ということになるはずです。
     それは仮に女性を性的にまなざすことが絶対悪だとするなら、「ただそれだけにとどまらない、優れた文芸性を持ったポルノ」だって悪であるに違いないのと、全く同じです。
     この項での師匠の主張は見ていて全く、論理的に成立していません。一体に、この種の論者はこうした何ら反論になっていない反論をしてドヤ顔、ということが大変に多いのですが、何故なんでしょうね。

     それと、菅野完師匠について。
     bokukoui師匠は菅野師匠の自己反省めいたツイートを引用し、「彼は反省しており、エラい(大意)」とむしろ彼を称揚しています。
     気持ち悪いことこの上ありませんが、実はこれはbokukoui師匠が「悪の組織の掟」を極めて優れた「読み巧者」として内面化していることの表れでもあります。
     フェミニズムにとって、「男は全員レイプ犯」である以上、実は性犯罪そのものは大した意味はないのです。
     原罪を持つ「男性」が「フェミニズム」という「洗礼」を受け、「悔い改めた」という「ジャンプ的キリスト教的物語」こそが彼らの秘密組織にとっては重要なわけで、むしろ訴えられた件は菅野師匠にとって勲章足り得ることですら、あるのです。「俺は正義に目覚めたぞ」と(当然、鳥越氏にも全く同じイベントがこれから、起きることでありましょう)。

     後、この種の人たちって、自分たちを「カウンター」と位置づけている割に、「自分たちに逆らう悪」を「反動(=バックラッシュ)」と称するのが大好きですよね。
     何か気持ち悪いですけど、これも恐らくショッカーが「偉大なる我々に逆らう者は死刑」とか言っているので、それの口真似をしているのでしょう。

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