どうも、前回に引き続き今年の10大ニュース、今回は5位から1位までを発表いたします。
 さて今回、「とん祭り」というフレーズが何度か繰り返されます。
 これはみうらじゅん氏が提唱した概念で、思わずツッコミたくなる珍祭・奇祭、つまり「とんまな祭り」を表現した言葉です。
 さあ、「面白い人たち」の開催した「とん祭り」を見物して、今年の笑い納めと参りましょう。

【第5位】「リベラルクラスタ」が必ず遁走する問題

「リベラルクラスタ」というのも大ざっぱな括りなのですが……今年、リベラルとおぼしき人々と腰を据えて議論をしようとして、こちらとしては誠意を持って議論に取り組もうとしたつもりなのだけれども、相手は遁走してしまった……という経験を五、六回ほどしたのです。
 彼らの多くは「男性差別クラスタ」の中の左派寄りの人々であったと、確か思います(すみません、当ブログを読んでくださっている方は何とはなしにおわかりと思いますが、ぼくはあまり記憶力が優秀ではなく、悪し様に罵った相手のこともちょっと時間が経つとすっかり忘れてしまう人間なのです)。
 今までも、それこそフェミニストを含め「議論をしたが話が噛みあわず、決裂」といった経験は無限にしてきました。しかし「この人とはちょっと話せるかな」と思った相手に見事に裏切られ……といった経験はあまり覚えがなく、それが立て続けに起こったのはいささかしょんぼりでした。ツイッターのせいでスタンスの違う人間と絡む機会が増えてしまったせいでしょうかね。
 ぶっちゃけ彼らとの論点がいかなものであったか、いちいち覚えてもいないのですが、多くは「表現の自由クラスタ」に、「フェミニストは口先では表現の自由を認めると言ってはいるが、著作などを見るとポルノを否定している。彼女らの味方をするのは得策ではない」といった言葉をぶつけたところ、相手は口を閉ざしてしまった――といった経緯を辿ったように思います。
 彼らの中には、さわやかなまでの「思考停止」、そして「グル様への絶対的帰依」しかない。
 小型の草食動物が大きな物音を聞くと、その脳のキャパを超えてフリーズしてしまうように、彼らは「聖書」に書かれていたことと異なる事実をぶつけられるとフリーズしてしまう
 でも、そんな人々の執り行う「お祭り」にどこまでの人々が乗ってくれるのか。それは反児ポ運動の現在を見れば、火を見るよりも明らかなのではないでしょうか。
 そして――上に「グル」と書きましたが、彼らの「グル」であるフェミニストたちが更に「グル」に選んだ人たちこそが第4位に選ばれた――。

【第4位】セクマイがプチおわコン化

 これについて、詳しくは「オカマがミスコンに出れない問題」、「障害者とオカマと、バリアフリー社会」を参照してください。
 既にいろいろ書いたのでそれほど付け加えることはないのですが、要はツイッター時代になり、彼ら「セクシャルマイノリティ」の生の声を、ぼくたちが聞くことができるようになった、と同時に彼らの主張にもクエスチョンマークをつけざるを得ない局面が増えてきた、といったことです。
 繰り返すように、彼らのロジックは基本、フェミニズムのバリアントと言っていいものです。時々例に出す、「オカマは女湯に入る権利があるのだ」と主張したフェミニストの例が象徴的で、申し訳ないけれどもセクマイとは、フェミニストにとっては自分たちの主張のダシとして利用するための「人権兵器」である面があることは否定できません。ある種、その意味で今の彼らの姿は、フェミニストたちが陥っている状況のデフォルメであると言えます。
 つまり、「ものすごい絶海の孤島におけるものすごい狭い共同体」でだけ行われていたお祭りに外部の目が入ることによって、そのお祭りがぼくたちにとって受け容れがたい「とん祭り」であることが知れ渡ってしまったという。
 この傾向に、これからいよいよターボがかかることはあっても、歯止めがかかることは、恐らくないでしょう。
 ちょうど現時点でもフェミニストが人工知能の学会誌に美少女アンドロイドが描かれていることに噛みつき、オタク層のリベラルクラスタにまで呆れられていましたが、これからこうしたことは数限りなく起こり、リベラルクラスタのフェミニスト、セクシャルマイノリティからの離反は顕著になっていくことと思います(ちなみにこの問題はそのイラストを描いたのが女性であった、というどうしようもないオチがつきました)。
 そして――上に「オカマが女湯に」と書きましたが、そうしたフェミニストたちのやり口を真似て、それと同じ奇矯なお祭りをしている人たちこそが第3位に選ばれた――。

【第3位】「女性専用車両乗りたいクラスタ」がフェミニストの味方だった問題

 さて、一方、まさに「ものすごい絶海の孤島におけるものすごい狭い共同体」でだけ行われていた「とん祭り」でありながら、あまりにも孤島すぎていまだほとんど観光客が訪れていないのがこちらです。
 今年の最初、ぼくが彼らの「とん祭り」をネットにアップしたことをきっかけに、いよいよぼくと彼らとの対立は激化してしまいました。詳しくは「ドクター差別と詰られし者たち」、また「ドクター差別と詰られし者たち(その2)」をご覧ください。
 彼らとは最近もちょっともめてしまいました。ドクさべのブログでは「コソコソ本を出し、コソコソ撮影し、コソコソ文句を言う」というエントリが設けられ、ぼくへの「批判」がなされています。この「コソコソ本を出し」という、意味不明なタイトルだけでドクさべの「面白さ」は十全に理解できましょうが、本文を見ていくと、ぼくの

ドクターが果たしてフェミニストの敵かとなると、大いに疑問です。そもそもフェミニズムに対する知識もないでしょうし。

 との発言に対し、以下のような「反論」がなされていました。

しかし、「フェミニズム」なんてものは勉強しすぎると、「女性学」を勉強しすぎると、ミイラ取りがミイラになりかねません。実際、「兵頭何がし」の発言には、その「傾向(=「女性様」に媚びる傾向)」が見られます(汗)

 ちなみに、私・ドクター差別は、「フェミニスト(=男女平等論者)」の敵ではありません。「ワガママ女性」及び「似非フェミニスト(=ワガママ女性に媚を売る輩)」の敵です。

 驚きました。
 よもや差別の専門家であらせられるドクターがフェミニストを「男女平等論者」と認識していたとは。
 驚くべき無知ぶりです。
 というか前段は「女性学」「フェミニズム」が女性に媚びる悪しき学問であるとの認識で書かれているのに、後段では「似非フェミニスト」だけが敵であると言っており、もうこの時点で論理は完全に破綻しているのですが、まあドクターに論理的整合性を求めるのはフェミニズムに論理的整合性を求めるのと同じくらい無意味なことです。
 こうした「似非フェミニスト」といったフレーズは「(田嶋陽子先生には賛同できないけれど)本来のフェミニストは男女平等論者であるはずだ」と素朴に考える、知識のない層や、或いはフェミニストの欺瞞を知りつつそれを隠蔽しようとするリベラル寄りの人々が持ち出しがちなものですが、ドクさべの場合は間違いなく前者でしょう。
 ドクさべの脳内における「フェミニスト」の理解は完全に七十年代のレベルでストップしてしまっているわけです(まあ彼の「市民運動」そのものが七十年代からタイムスリップしてきたものであり、それも道理なのですが)。
 物理学の初歩の初歩も知らないままに「相対論は間違いだ!」と称してトンデモ理論を唱える人がいますが、ドクさべのあり方は、彼らとあまりにも「完全に一致」しすぎています。
 ぼくは彼ら「女性専用車両乗りたいクラスタ」を皮肉って、「ジェンフリ厨」である、と表現してきました。いや、ジェンフリ厨も何も、彼らは下手をすると「ジェンダーフリー」という言葉すら知らないと思うのですが、しかし無思慮で一本調子な「平等」を要求し続ける時点で彼らはフェミニストの同類であり、ジェンダーフリー派である……といったことは既に何度も書いているかと思います。
 まさにドクさべは「女性学」を勉強しなさすぎたがため、ミイラ取りがミイラになり、その行動や思想がフェミニストとまでも「完全に一致」してしまったのです。
 そして更に、ここへ来てとうとう彼らが専ら「一般女性」へのテロだけを目的とし、フェミニスト――アカデミズムの一角に牙城を築き、(彼らの言葉で言う)「男性差別」を遂行し続ける人々――を敵と考えていない、ということが彼ら自身の口から語られてしまいました。
 ぼくは彼らを揶揄し、「フェミニストの食い残しのおまんじゅうを食べようとしている」と言ってきましたが、彼らはそう言われても(理解はできないでしょうが、仮に彼らに理解力があったと仮定しても)「はいそうです」としか言わなさそうです。
 どうぞ、頑張ってください。
 そして――上に「グル様への絶対的帰依」、「セクマイの人権兵器化」、「ミイラ取りがミイラに」と書いてきましたが、それらの全てに当てはまってしまう人たちこそが第2位に選ばれた――。

【第2位】I問題その後

 さて、この件は大変に微妙な問題を含んでおります(笑)。
 悩んだ末、本件に限り、イニシャルトークにさせていただくことにしました。
 ここに採り挙げられた方々、万一これをお読みになり「事実と相違する」というのであれば、どうぞご指摘ください。
 本件については既に「Iの問題発言について」、「ホモ雑誌の編集長が子供とのセックスを肯定しすぎな件、そしてフェミニストがそれをスルーしすぎな件」で書くべきことは書いたのですが、ここではこれ以降の経緯について簡単に、できる限り冷静に淡々とまとめてみることにしましょう。

 1.K師匠
 師匠はこちらと辛抱強く話していただき、かなり渋々という感じとは言え、Iの危険性を認めてくださいました。その経緯は「Iの「子供とのセックス肯定」について(改訂版)」にまとめられています。
 が!
 その後、ぼくが他の人との議論中、

K師匠は一応、Iが子供への性的虐待を肯定していることを認めたのだけれどもね。

 と書くと、彼女はそれに対し、

「肯定していることを認め」てはいません。曲解に基づいて話を広げられるのが迷惑なので、ブロックいたします。

 と言い出しました。どうも、実のところ何もわかってくださらなかったのでは……としょんぼりさせられました。

 2.I.M師匠
 彼女はN.M師匠との議論中、横からちょこちょことこちらを攻撃してきた方です。
 その時のぼくの「批判」に対しての彼女の言い分がとんでもなく、

まず最初に『Iさんの全著作、全発言を資料として用意して』『それを共有できる場をセッティングして』その上で特定の誰かに『この発言についての意見を聞きたい』という段取りなら『あり』だと思う。

一人の物書きの全著作、全発言を網羅するってかなり大変だよ。でもそれをやらないで、一部分だけ抜き書きして批判するのは失礼でしょ。自分が同じことされたら嫌でしょ。

それが最低限度の礼儀

 といったものでした。
 そんなことは現実問題として不可能なのは、言うまでもないことです。
 この「全発言」というのを一応、「公の場でなされた発言」、いえ、大まけにまけて「書籍としてまとめられた発言」とでもいった意味に取れば「不可能」とまでは言いませんが、しかしいずれにせよそこまでしなければ批判はならん、というのは空論とも言えない妄論です。それを常に遵守して「評論活動」をやっている研究家など、この世にはいないでしょう*。
 そして、それにもかかわらず、あろうことか。
 呆れたことに彼女はここまで言っておきながら、上の言葉に続きぼくを以下のように腐していたのです。

本田透さんの二番煎じを狙ってコケた無名のライターさんが同じ企画を出していても私なら見ないわ。つまらなそうだから。

 ここまで矛盾に矛盾を積み重ねた発言をして、彼女は何もおかしいと思わないのでしょうか。
 後、ついでに書いておくとぼくが本田透氏に多大な影響を受けていることは事実ですが、彼の著書と拙著とでは、内容的にはあんまり被ってないんですよね。読めばわかることですが
 それと最後に。
 余談ですが、彼女は「実在児童の人権擁護基金」の理事を務めていらっしゃいます

*ちなみにぼくは彼女らと話した時、Iの著作の問題発言のあったページをネット上にうpし、「確認してみてくれ」と言いました。彼女に対しても、個別にそう進言しました。それで充分だと思うし、それだけではどうしても納得できないのであれば彼女らが図書館で本に当たればいい話なのですが、それをなさったご様子はありません。
 当時、彼女らが口を揃えて「兵頭がIに直接インタビューをしていない」ことを根拠に(いや、ぼくが彼にインタビューしたことがないというのも、別に根拠はなく、「単に彼女らがそう思った」というだけのことなのですが)ぼくが不当であるかのように言い立てていたことは実に象徴的です。彼女らは「自分たちの耳に快い結論に至るまで」相手の取材は不足だと言い続けるのでしょう。

 3.C師匠
 彼に関しては、上の方たちとは直接の関係はありません。この問題でもめている時に出た新刊で彼が石原慎太郎氏とIを比較し、後者を称揚していたのを見て、ちょっと声をかけたのです。
 彼はぼくの訴えに対し、「『薔薇族』の編集者と知りあいなので問い質してみる」と言い、そのままになっていたので最近になってDMを送ろうとしたら、いつの間にやらブロックされておりました。そもそも彼とは二、三言交わしただけで、言い争いなどにはならなかったと記憶しているのですが。
 ちなみに余談ですが、彼はと学会のメンバーであったりします。

 そして――上に挙げた人たちとは縁もゆかりもない萌えオタたちの間で今年に巻き起こった、ささやかなムーブメントこそが第1位に選ばれた――。

【第1位】喪女ブーム

 はい、堂々の第1位です。
 ここしばらく、『わたモテ』に代表されるように、萌えの世界では「喪女」萌えが来ている、ということですね。
 これについては「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」に書きました。ごく大ざっぱにまとめれば、ある種の「聖性」に守られていた「女性性」というものに対して、よりにもよって萌え文化が批評性を持ち始め、鋭いメスでもってその腑分けをし始めた、とでもいった感じのことです。
 ツンデレが「ムカつくタカビー女」というバブル的女性像の「萌え化」ならば、喪女萌えは「冴えない地味女」というゼロ年代的女性像の「萌え化」です。
 では『わたモテ』に対して女性が必ずしも好意的な目を向けているかとなると、それはそうではないようです。
 前にも書きましたが、はてなでとある女性が本作について、憤死しそうな勢いで怒っているのを見たことがあります。彼女が言うには「もこっちには男性作者の自己が投影されている」とのこと。確かに、そういう側面は大いにあると思います。が、続けて言うには「女に自らのネガティビティを仮託している作者は許せない、何せ非モテ男子と違い、喪女はモテないルサンチマンで世を恨んだりはしないのだから」とのこと。
 おいおい、いくら何でもそれは女性を美化しすぎやろ。
 何しろぼくたちは今、男に自らの欲望を仮託している女の表現が、コミケに溢れているのを目の当たりにしているところなのですから。
 そしてぼくたちは今、モテない女のルサンチマン体系が国家を滅ぼしつつあるのを目の当たりにしているところなのですから。

 さて、そのまた一方で、昨今「ミソジニー男子」というのがある種の認知を得つつあります(この「認知」は「肯定されつつある」という意味ではなく、「そういうヤツがいるんだと知られつつある」ってことだよ)。何しろ先日に出た唐沢なをきの名作、『まんが家総進撃』にも「女の描く漫画は全てダメだ!」とネットで大暴れする「ミソジニー君」みたいな話があり、ちょっと驚きました。
 そうした「ミソジニー男子」は「キモオタ」どもである、というのがネット世論におけるコンセンサスであるように思います。
 確かにぼくたちは「ムカつく三次元女子を捨て、二次元女子と添い遂げることを選択した」選ばれし者たちです。そしてぼくたちのカリスマ、本田透氏はミソジニーの権化のようにも言われました。しかし『電波男』を丹念に読んでみると、その主張は「俺たちはモテない、だからといって秋葉テロに走るのもまずいし、二次元に引きこもっていようぜ」というものであることがわかります。
 つまり、「オタク=ミソジニー論」は「女性から撤退しつつある草食系男子」に対する、女性の逆切れ気味の言いがかり、という側面が強いように思うのです。
 この「オタク=ミソジニー論」を、先の「『わたモテ』許せない論」と結びつけてみるとどうでしょうか。
「男性が女性から撤退したこと」も、「男性が喪女に萌えていること」も、女性たちからしてみれば「私がブスだとでも言うの!?」と思え、不快なわけです。後者は結構辛いです。その女性がモテていなければ「もこっちのような喪女よりもブス」と言われているも同然であり、モテても「ブスだからモテたのだ」と言われ兼ねないのですから。
 だからまあ、ぼくも女性に無理して『わたモテ』のDVDを貸そうとは、思いません。
 しかし考えて欲しいのですが、ぼくたちがもこっちに萌えているのは――つまりこの「喪女ブーム」はある意味で、「(ムカつく女も多いけれども、)それでも女性を愛そう」というぼくたちの意思表示の表れです。
 考えてみれば本田氏はかなり早い時期から「喪女萌え」を提唱していた人でもあり、何とも象徴的です。
 一方、もこっちに対して、ミソジニーなオタク男子に対して憤る女性の中にあるのは、端で見ている方が恥ずかしさに顔から火を噴いてしまいそうになるような、晴れがましい自己像なのではないでしょうか。
 少し前、「婚活」がブームになりました。
 ブームの火つけ役、白河桃子さんの『「婚活」時代』を読むと、それは本来「結婚も難しいご時世だから女性も積極性を持とうぜ」というものだったのですが、その要点が履き違えられ、「婚活で玉の輿を」と考える女性たちが大量に溢れる結果となりました。
 オタクはここまで苦労して、女性を愛そうとしている。
 しかしいまだ女性は、昇り詰めた高みの上で、木の枝から降りられなくなった仔猫のごとくに狼狽し続けている。
 女性も、つまらないプライドを少し下方修正する必要があるのではないでしょうか。