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 赤木智弘さんについては度々「男性問題の論者」「フェミニズムの批判者」といった風聞を聞き、またフェミニストたちの集い、自分たちにとって煙たい存在に罵詈雑言を浴びせる「キモオタ叩きスレ」*でも度々名前が挙がっているのを拝見しておりました。
 が、不勉強なことに、ぼくは今まで著作を読んでいなかったのです。
 で、「いい加減読んでおかないと……」と考え、手に取ったのが本書。
 今回の記事は『エヴァ』を今ようやっと知ったヤツが「おまいら、『エヴァ』って知ってるか?」とドヤ顔で語るような今更感がつきまといますが、そこはご容赦ください。

*2chにはそういうのがパーマネントであるのです。本当にフェミニストはオタクの味方ですね。

 さて、彼はロスジェネ論壇というか、若年層の非正規労働者の代表という感じで論壇に登場した人物です。
 彼のデビュー作となる論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」は、ごくおおざっぱに言えば「我々若年非正規労働者層の現状は絶望的である、それをひっくり返すには戦争ぐらいしかない」といった主張をしたものでした。
 しかしそれは衆目を集めるための、単なる「暴論」ではありません。

問題なのは上層、・中層間の格差ではなく、中層・貧困層間の格差なのです。

 といった発言に象徴されるように、言わば彼の仮想敵は「中間層」。そうした格差間の差が流動化しないことに絶望的な彼は、それをリセットする「希望」として、戦争待望論をぶち上げるわけです(この論文は本書の第四章に掲載されているのですが、ご本人のサイトでも読むことができます。是非、ご一読ください)。
 第五章に進むと、内容はそれに対する左派層の言論人の批判の引用、それへの再反論へと移っていくのですが、見ていて驚くのはそうした旧来の知識人たちが赤木さんの主張を全く理解できずにいる点です。
 少なくとも本書を読む限りにおいて、そうした人々の赤木さんへの反論は相も変わらず「我々弱者が立ち向かうべきは彼ら強者だ」との二元論を振りかざすものでした。要は既に「中間層」となり、「貧困層」を搾取する側に回ってしまっている自分たちという現実に気づくことができず、いまだ「心は弱者」で居続けている図です。でなければ、「バカな右傾化した若者と俺ら頭いいインテリ」という図式に引きこもり続けているかです。ちなみに本書では知識人が若年層を「ネトウヨ」にカテゴライズしたがる心理、そうした左派から若年層が離反してしまう心理も、非常に鋭く分析されています。
 冗談抜きで、今の左翼はこういう現状から目を伏せることに、知的エネルギーの大方を費やしているんじゃないでしょうか
 そうした「わからず屋のジジイども」をばったばったと切り捨てていく赤木さんの姿は非常に痛快であり、魅力的です。
 また一方、第三章や第一章で語られているのは「若年男性」、或いは「弱者男性」をバッシングし続ける世間への違和。ここではまた同時に、左派の論客が「若年男性」を「ワルモノ」として排除しようとするロジックに与しているのを見ての、旧来の左派への嫌悪感も語られます。

 彼らは平等の名の下に、「女、子ども、老人」という「名目上の弱者」を幸せにはするかもしれません。しかし、「若者男性」という「名目上の強者」を幸せになどしないのです。

 という言葉にそれは象徴的に現れており、これはぼくが繰り返す「プアファットホワイトマン」の理論、つまり「白人男性」という先天的な強者の属性を持ちながら、後天的に弱者となった者を、「意識高い系」の人たちは容赦なくいじめ抜くのだ、という指摘と全く同じですね*。
 本書を読んでいくと目を引くのは「弱者男性」というタームです。
 昨今、ネット上で時々見かける言葉ですが、ひょっとして初出は赤木さんだったのでしょうか?(もし違うというご意見があればご一報ください、無知ですみません)
 考えると一昔前、『もてない男』において小谷野敦博士は「もてない男」を「性的弱者」と呼び、「男のクセに弱者を名乗るとは何事ぞ」とバッシングを受けました。本田透さんもまた、「日テレ版ドラえもん」くらいの、「漫画版ハルヒ」くらいの勢いで、オタ史の黒歴史とされてしまいました。闇の勢力にとって男性を「弱者」と認めることなど、絶対に許すことのできない暴挙であったからです。
 その時にせよ昨今の「弱者男性」バッシングにせよ、何、「我こそは弱者(或いはその味方)」と信じる者たちの「お前に弱者としてのアイデンティティや利権を渡してなるか」との必死の形相での逆ギレなのですな。

*ここは本書においても、

 つまり、左派の人たちは、「固有性に対する差別」と戦うことを重視するあまりに、「固有性によらない」差別に対する理解が浅くなっています。

 と指摘されています(言うまでもなく「性別」「人種」などが「固有性」にあたるわけですね)。

 繰り返す通り、本書はあくまでロスジェネ世代の貧困を問題にしているわけで、「女災」とはテーマがそもそも異なります。
 が、しかし同時に上に見た通りそのロジック、スタンスは極めて「女災」と被る部分が大であり、それは「私は主夫になりたい!」と題された第二章に最も強く現れています。
 赤木さんは自らのブログで「主夫になりたいので養ってくれ」といった旨の告知をしたところ、リアクションが芳しくなかったことを語り、

私が「女性の既得権益に対する略奪者」のようにうつっていたのだと思います。

 と想像します。結婚というものは、弱者女性が強者男性に養ってもらうという弱者救済のシステムであり、ならば経済的に余裕のある女性は弱者男性を「主夫」という形で養うべきなのではないか、というのが赤木さんの考えなのです。
 しかし……それであれば、主夫という存在に対して憤るのはそれこそ「花嫁修行中」の「ニート女性」だけで、バリバリ社会で働くキャリアウーマンはむしろ、「家事を担当してくれるとはありがたい」とばかりに、彼へとオファーを出してきそうなものではないでしょうか。そして少なくとも本書を見る限り、そうしたオファーはなかったわけです。
 赤木さんは

我々は食うや食わずで首を括る未来が待っている、「だからこそ私は、弱者男性の主夫化を真剣に考えるのです。

 ともおっしゃいますが、しかしぼくがちょっと感じたのは、そもそも主夫になるのであれば、ある程度女性とも交流が持てるだけのコミュニケーションスキルが必要とされる。そういうヤツはそもそも、負け組にはなっていないのではないか、という疑問です。
 また同時に、「主夫」という回路を開くことを怠ってきたことが、左派の欺瞞であり、怠慢であるともおっしゃいますが……う~ん、それも間違いではないと思いますが、ここはぼくもちょっとだけ左派に対して、同情を憶えました(詳しくは後ほど)。
 一方、『負け犬の遠吠え』に噛みつくところなどはまさに『電波男』そのもので、痛快です。赤木さんは酒井順子師匠の文章の端々から覗く女性の甘えを、

 これでは、「どうせ女性は結婚したら退職するのだから、最初っから入れ替え可能な程度の仕事しか与えないようにしよう」とか、「男性のほうが家族を養う義務があって大変だから、同じ能力の男性と女性だったら男性を雇おう」とする会社の判断は、就業差別などではなく、きわめて妥当なものだと思わざるを得ません

 と喝破します。
 しかし彼は同時に、そうした男女差を社会的文化的性差であろうともしています。
 つまり――本当のホンネはどうなるかとなると、ぼくには窺い知れないのですが――本書を読む限り、赤木さんは「弱者男性の主夫化」の構想を結構マジに考えていらっしゃるように読めるのです。
 ひょっとしたら、「希望は、戦争。」と語った論者が、戦いに依らない一縷の望みを、「弱者男性主夫化構想」に見出したのでしょうか――!?

 しかし、とぼくは思います。
「女らしさ」というものが社会的文化的性差であり、覆すことができるものかどうか、ぼくにはわかりません。
 とは言えこの二十年間、フェミニズムが行政を牛耳り、女性の社会進出に対して夥しいエネルギーと気の遠くなるような予算を費やしてきたことは明白な事実です。にもかかわらず、「婚活」ブームに見るように、女性の専業志向は収まるどころか加速しているようにさえ見えるのが現実。フェミニズムのしてきたことは全くの徒労だったわけで、上に「左派に同情を覚えた」というのはそこです。むろん、間違った方向に何十兆という血税を使われた国民、フェミニズムに無理強いをされた女性たちの方が遙かに気の毒ではあるのですが。
 いずれにせよそんな状況で男性の「主夫化」に現実味があるとは、ぼくにはとても思えません。
 一方、件の「負け犬」を自称する女性たちが実際のところ「強者女性」ではないかとの指摘は、結構あちこちでなされていたように思います。
 赤木さんもまた、酒井師匠の「ブランドもののお洋服を買っても満たされない、哀しいワタシ(大意)」といった呟きに、「俺はユニクロの服しか着れねーぞ!」と憤ります。いや、気持ちはわかりますが、あなただってブランドもののお洋服なんて興味ないでしょうに*。酒井師匠が嘆いているのはいいお洋服を着てもイケメンにナンパ一つされない我が身について、なのだとぼくには思えます(ちなみにイケメンとは俗に美男子の意味と捉えられることが多いようですが、ここでは胸ポケットから札ビラをはみ出させている金持ち男性を指します)。
 要は「負け犬」はあくまで経済上のバトルではなく恋愛上のバトルにおける「負け犬」なのだから、赤木さんとはそもそも、スタンスが違う(昨今のこの種の議論は意図的にかどうかは知りませんが、常にここを混同しているように思います)。
 酒井師匠の嘆きは(本人がどこまで自覚的かはわかりませんが)「経済強者になったはよかったが、それと引き替えに性的弱者にもなったでござる」という嘆き、「お嫁さんになりたかっただけなのに、オオカミの甘言に惑わされ企業社会へと連れて行かれてしまった赤ずきんちゃんの嘆き」だったのです。
 要するに、フェミニズムによって間違った配分をされたがため、赤木さんと酒井師匠は、いや、全地球の男性と女性は共に不幸になっているわけなのです。
 解決の手段は、論理的には二つしかありません。
 つまり、女性を家庭に戻すか、或いは主夫を娶らせること。
 いずれも強制はできないでしょうし、女性のマジョリティの意向を考えれば、前者の方が遙かに合理的でしょう。幾度も例に出しますが、日本経済新聞2006年1月16日号夕刊によると、翌年の就職を目指す大学三年生女子516人へアンケートを採ったところ、「結婚してもずっと一線で働きたい」と答えたのは僅か5.2%だったと言います。繰り返しますが、大学三年生です。これが短大や高卒を含めると、一体どういう数字になるのでしょうか(なのに、にもかかわらずこの新聞記事は、そんな結果を「意識の高い学生は少数派だ。」と、「私の考えに賛同しない者は悪だ」とでも言わんばかりに難癖をつけておりました)。
 女性に経済力を持たせることはこの二十数年、あらゆることを犠牲にして断行され、結果、若年層では女性の収入の方が高いとの逆転現象まで起こり、その上で弱者男性を娶った女性は限りなくゼロに近いという現実を考えれば、後者は実現性がないと考えるべきではないでしょうか。
 しかしこんなことを書くのですら、今、ぼくは勇気を振り絞っています。
「女性の社会進出」という絶対正義を疑うことは、現代社会ではタブーですから。
 いかに女性自身がそれを望んでいないとしても。
 この「宗教的禁忌」からぼくたちが解き放たれ、オカルト的な「宗教裁判」がこの世から消える日まで、そうしたことが声高に叫ばれることもまた、ないのでしょう。
 やはり「希望は、戦争」しかないのかも、知れません。

*余談ですが、ぼくは「ブランドファッション」と聞く度、バブル期に誰かが描いた「渋谷に一流大学の女子大生をモデルとしてスカウトに来たAVスタッフが、自分の着ているブランドもののお洋服を自慢する」というエロ漫画を思い出し、ついつい笑ってしまいます。

 さて、というわけで再び「希望は、戦争」に戻りましょう。
 この「暴論」では戦争のメリットとして「経済のリセット」と同時に、「お国のために戦って死ぬ」ことによって得られる自己承認欲求の充足についても言及されています。
 こうした「暴論」は「若いヤツはネトウヨだ」と短絡したまとめをされてしまうのではないか、左派がそのように短絡してこっちを叩く大義名分する危険はないか、との不安を憶えないでもありません。が、赤木さんはかなり左派寄りの人であり、少なくとも右派的な愛国心から上のようなことを書いたとは思えません。
 恐らく正確に指摘した者は少ないと思うのですが、この「暴論」からはむしろ、左派が今まで男性を貶めてばかりきたこと、男性の自己承認欲求を蔑ろにし続けてきたことへの深い怒りが垣間見えます。
 圧巻なのは終章である第六章。ここで赤木さんは「死ぬ死ぬ詐欺」を例に取り、「可愛い子供という存在には多くの寄付金が集まる」「裏腹にオッサンはそうした愛され方を全く期待できない」ことを嘆きます。子供の臓器移植にかけるコストで何十人ものフリーターを救える、しかし、

主観的な募金者は、フリーターなんかよりも、かわいい子どもを選んでしまう。こうして募金という「良心」すら、偏ってしまうことになります。

 というわけです。ぼく個人は、まあ子供が贔屓されること自体は仕方ないなとは思うのですが、この「子供」を「女性」に置き換えれば、いかに多くの「善意」が、「良心」が、弱者男性を殺戮し続けてきたかが窺い知れるのではないでしょうか?
 この終章の最後の節ではやや唐突に「アメリカにおいて『拡大家族計画』という疑似家族を人工的に作り出す政策が施行された」という小説を引用し、「役割が欲しい」、「自分のアイデンティティが欲しい」と切望するところで終わっています。

 そう、繰り返す通り本書のテーマは貧困層の労働問題なのですが、しかし通奏低音としてそこには、『電波男』につながる切実な叫びが流れ続けているのです。
 それはつまり、弱者男性としてこの社会のどこにも居場所がない者の、火を噴くような怒りと哀しみです。