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小説『神神化身』第二部
第十二話
自分が眠っている時にも世界があるということを知った時は怖かった。子供向け雑誌の付録が上手く作れず、母親に作ってくれるよう頼んだ日に、巡(めぐり)は眠りの外の世界を知った。
朝起きると完成した付録の車が鎮座しており、母親は「寝ている間に作っておいたのよ」と笑った。その時、巡は恐怖を覚えた。眠っている間に、世界が自分を置き去りにしてしまったのだと思った。
最近の状況を見ていて、巡が思い出したのはそんなことだ。
九条鵺雲(くじょうやくも)が来てから、二週間余りが経った。
一生慣れることはないと思っていたのに、鵺雲は遠江國(とおとうみのくに)の舞奏社(まいかなずのやしろ)にとてもよく馴染んでいた。社人(やしろびと)達も、鵺雲が元々ここの覡(げき)であるかのように振る舞っている。鵺雲も、それが当たり前のような顔をしている。
そして、何より佐久夜(さくや)が変わった。
元が社人である佐久夜は、九条家の鵺雲に一定の敬意を払うだろう。そこまでは予想していた。だが、佐久夜と鵺雲の間にはどこか秘めやかな親密さがあった。巡には聞こえない位置で二人が会話をしている時、佐久夜は巡には見せたことのない表情を見せるのだ。
一体何を話しているのだろう。そう巡が考えると、タイミングを計ったかのように鵺雲が巡に視線を向け、小さく微笑んでみせるのだった。それがチームメイトに向ける親愛の笑みだとは思いたくはなかった。
秘上(ひめがみ)佐久夜が栄柴(さかしば)巡以外の人間とも上手くやれるだなんて知らなかった。それは、眠りに落ちている時に世界の全てが巡を置き去りにしていると知った時と同じ恐怖だった。
自分はどれだけ眠らずにいられるだろうか?
御斯葉衆(みしばしゅう)の三人が揃った初めての稽古は、結成から一週間が経って行われた。遠江國に来たばかりの鵺雲はやることが多く、スケジュールを合わせるのに苦難したのだ。
本当はずっと佐久夜と二人で稽古をしていたかった。佐久夜に舞奏(まいかなず)を見せることも恐ろしかったが、佐久夜なら巡がどんな舞奏を奉じても受け容れてくれるだろうという安心感があったからだ。
だが、鵺雲は違う。
血筋と化身(けしん)に重きを置いているから、栄柴巡に無条件の価値を見出してくれるような、そういう人間ではない。少し話して、そのことが分かった。
度を超えた化身信奉者であるからこそ、鵺雲は巡の実力を正確に査定するだろう。カミに認められた化身があるならば、見合った才能があるに違いない。それは、九条鵺雲の中に強固に存在するロジックだ。
鵺雲に信頼されるようになりたい、とは思わない。だが、巡は御斯葉衆に残らなければならない。だから、見せつけてやるのだ。自分が火を点けたものがどんな人間だったかを思い知らせる為に。
「初めての稽古、すごくワクワクするね。この日をとても楽しみにしていたんだ!」
そんな巡の内心などまるで知らない顔で、鵺雲がにこにこと笑っている。相変わらず、笑顔がやけに似合っている男だ。喜怒哀楽が全てそこに隠れてしまって、本心など何も無いように見える。
「とはいえ、僕達御斯葉衆の舞奏をどんなものにするかも定まっていないし、まずは伝統曲を舞ってみるのがいいと思うんだけど、どう思う?」
「俺の方は異存ありません」
鵺雲の言に対し、稽古着に着替えた佐久夜が答える。返事が遅れてしまったことに焦りを覚えながら、巡も「俺もそれでいいと思いまーす」と、笑顔で言った。
「でも、俺ってば上手く出来るかなー! それこそ伝統曲とか子供の頃やって以来だし? ずっと稽古してた鵺雲さんのお眼鏡に適うかどうかー?」
「おい。余計なところで謙遜を挟むな。この一週間、お前が俺としてきた稽古を覚えているだろう。お前の舞奏は他國の覡に比しても遜色無い。胸を張れ」
佐久夜が真面目な顔で言う。そこにきっと嘘は無い。こうしてブランクを強調してはいるが、巡は一週間必死で稽古をした。そして自分の身体が自分の想像以上に動かないことに苛立ち、今まで休んでいた自分を恨んだ。自分が天才と褒めそやされていた時の感覚を、半分も取り戻せていないだろう。本当はここに来るのが恐ろしかった。
それでもここに立てるのは、他ならぬ佐久夜が認めてくれたからだ。
「佐久ちゃんってば、褒めるのか怒るのかどっちかにしてくんない?」
「なら、怒られるようなことをするな」
「ちょっ、塩すぎない? そーいうこと言ってると巡くんグレちゃうぞー?」
「あはは、巡くんと佐久夜くんは仲がいいね」
鵺雲が軽やかに笑う。
「それじゃあ、俺からやる? 鵺雲さんに見られるのは緊張するけど、一番ブランクある人間がやった方がいいだろうし」
「ああ、それなんだけど……。僕からじゃ駄目かな? 実は僕も少し緊張してしまっていて。ほら、稽古は欠かしていなかったけれど、人に披露するのは久しぶりだから」
巡の提案を蹴るかのように、鵺雲がそう言ってくる。
一瞬の沈黙が過る。巡は、自分の表情が固まっていないか心配だった。九条家の跡取りに下手に出られて、拒否することなんか出来ようもない。
「そうなんですか? えー、じゃあどうぞ! 鵺雲さんの舞奏観たらモチベ上がりそうだし!」
「ありがとう、巡くん。佐久夜くんもそれでいいかな?」
「構いません」
佐久夜が短く答えるのに合わせ、鵺雲が小さく首を傾げた。
「それじゃあ、九条家の名に恥じない舞奏をお目に掛けるよ」
そうして、鵺雲の舞が始まった。
それは永遠にも数瞬にも感じられる、極めて矛盾した時間だった。
鵺雲が選んだ伝統曲は、多くの國で舞われる練習曲のようなものだった。別の覡やノノウが舞うところを何度も観たことのあるものだ。巡の身体にも刻み込まれているものであり、ある意味で新鮮味が無い。振り自体にも難しいところは殆ど無い。
だが、彼がそれを舞うだけで、単調な振りが壮麗で研ぎ澄まされたものに見えた。舞の先を知っているのに、何故か目を離せない。伝統的な振り付けからまるで逸脱していない、けれど新しい。
数百年の積み重ねがあるこの舞の、正解を見出したかのような錯覚があった。この曲を最も魅力的に舞おうとすれば、鵺雲の指先や視線を模倣することになるはずだ。
恐ろしかった。これでは、今後千年舞奏の進化はない。観囃子(みはやし)も、彼だけを求めるようになってしまうだろう。優雅で力が入っていないのに、見ている人間を無理矢理従わせるような舞奏だ。
舞奏には人間性が出る。使い古されたその言葉を思い出す。
なんてことを、と巡は思った。技量を比べるのなら、リストの「鬼火」を弾かせるよりも子犬のワルツを弾かせ競わせた方がいい。そこにはきっと、厳然たる差が見えるだろう。
これが、九条家の血。九条家の舞。
鵺雲に反感を覚えていた自分でさえも、屈服させようとする舞奏。
そこでふと、巡の心に魔が差した。
やってはならないことだと理性が叫んでいる。迸る火花に、わざわざ手を伸ばす必要はない。火傷するのが分かっているだけだ。肌を焼いて血を流すだけだ。
そして巡は、佐久夜の方に視線を向けてしまった。
「どうだった? 佐久夜くん」
舞奏が終わるなり、鵺雲は佐久夜にそう尋ねた。巡より先に。
佐久夜の方が鵺雲にやや近い位置にいただけ──とは思えなかった。鵺雲は意図的にそうしたのだ。そのことが痛いほど理解出来てしまった。
「──……素晴らしかったと、思います」
佐久夜がぶっきらぼうに答える。
「そう? 嬉しいな」
「遠江國御斯葉衆の覡には、相応しい舞奏かと」
傍から見れば淡泊にも見える対応だ。佐久夜の声は平坦であるし、どこか事務的ですらある。
けれど、巡は見てしまった。
佐久夜が鵺雲の舞奏を観ている時のまなざしを知ってしまった。
彼の目には、隠しようもない輝きが宿っていた。殆ど感情を表に出さない彼が、苦しいほど感動しているのが分かった。その目を潰してやりたい、と瞬間的に思う。
あの瞬間、佐久夜の心の中に栄柴巡はいなかった。
自分が眠っている時にも世界は存在し続けている。巡を置き去りにして動き続けている。
そのことを思い知らされたような気分だった。
夜が来る。巡の世界を奪う夜がここにある。
「巡くんはどうだった?」
鵺雲がそう尋ねてくる。
「勿論、凄かったですよ! いやーやっぱり九条家の跡取りって凄いんすねー! ちょっと感動しちゃったかも?」
「栄柴の覡にそう言ってもらえるなんて、僕の方が感動しちゃうよ」
鵺雲が花のように微笑みかけてきた。あれだけのことをやってのけたのに、鵺雲は息すら殆ど乱していない。恐ろしいくらいに整った、まるでカミ懸かった舞奏。
「それじゃ、今度は俺がやっちゃおうかな。佐久ちゃんトリでいいでしょ? 鵺雲さんの後にやんの緊張するけど、ここまで凄いもん見せられちゃ、もう関係無いっしょ」
「わあ、楽しみだなあ。まさかこんなに喜ばしいことが起こるなんてね」
緊張や恐れはもうどこにも無かった。あるのは自分が栄柴の血を引いているということへの誇りと、目の前の男に対する嫉妬の熱だった。許されるなら、九条鵺雲の喉笛を食い千切っていただろう。
これが見たいんだろう、と巡は思う。なら、見せつけてやる。
觸鈴(ふれすず)を構え、前を見据える。自らが鳴らした鈴の音が、火花の散る音に聞こえた。
*
巡が舞い終えた後、佐久夜はしばらく動けなかった。息をすることすら忘れていたように思う。
その隙に、鵺雲が感激したように駆け寄って行く。そして、いつもより数段弾んだ声で言う。
「凄いよ! ノノウ達に舞奏を指導していたとはいえ、巡くんは舞奏をやるのが久しぶりだということだったのに。そのブランクを全く感じさせないね」
「俺が指導していたのは覡ですよ。俺達が御斯葉衆になる前は、彼らが御斯葉衆で、覡でした」
鵺雲の目を見据えながら、巡ははっきりと言う。──お前が追い立てて、追い落としたものを見誤るな。と言っているかのようだった。その様子を黙って見つめていると、巡が不意にこちらを向いた。
「佐久ちゃんは?」
巡の目が、佐久夜を見ている。
「佐久ちゃんはどう思った?」
「……素晴らしかった。栄柴巡の舞奏として、至上のものだった」
佐久夜がそれだけ絞り出すと、巡はぞっとするような冷たい目で、薄い微笑みを浮かべた。佐久夜の言葉を疑っているわけではないだろう。どちらかといえばその笑みは、臣下(しんか)が及第点の答えを出した時の王の笑みだった。返答を間違えれば、こちらの首を刎(は)ねることすら厭(いと)わない人間の笑みだった。
「そうだ。巡くんの舞奏を見て思ったのだけど──そろそろ御斯葉衆のリーダーを決めなければね。僕としては、遠江國に元々あった名家である栄柴家の巡くんが相応しいと思うんだけど、どうかな?」
不意に鵺雲が謙虚さを滲ませた微笑みで言った。言葉通りの意味とは思えない。
「ええーっ、そんな理由で長らく舞奏から離れてた奴にリーダー任せます? 絶対やめた方がいいですって! ここは鵺雲さんでしょ!」
「だって、さっきの巡くんの舞奏は素晴らしかったじゃない?」
その通りだ、と佐久夜は思う。さっきの巡の舞奏は素晴らしかった。稽古の時とは比にならない。まるで別人のような舞だった。
そこには、栄柴の夜叉憑(やしゃつ)きの片鱗があった。
巡が選んだのは、伝統曲の中でも基本的でオーソドックスな──最初の一歩として選ばれるものであり、佐久夜が初めて巡の舞奏を観た時の曲だった。そこには、幼い頃の再演があった。意図を感じずにいられるほど、佐久夜は幸福な愚鈍(ぐどん)さを持ち合わせていなかった。
基本をなぞることが良しとされる伝統曲において、巡の舞は異端だった。込められた情念のようなものが炎のように立ち上り、舞の全体像を歪めていた。ただ舞っているだけなのに恐ろしく、触れればともに焼け落ちてしまいそうな、あるいは凍り付いてしまうかのような、そんな雰囲気があった。
幼馴染であるから分かってしまう。栄柴巡は怒りを覚えていた。根底に流れるものが深い悲しみと絶望であることが察せられる、根の深い怒りだった。それが巡の舞奏を極限まで研ぎ澄ましているのだ。
だからこそ、素晴らしかった。鵺雲の舞奏も素晴らしかった。思わず、目を奪われてしまうほどに。今まで生きていた中で、これだけ舞える人間は──これほどの才は見たことがなかった。
だが、やはり佐久夜は栄柴巡の舞奏が好きだった。自らを顧みることなく、全てを舞奏に捧げんとする苛烈(かれつ)な舞が。巡に憑いている夜叉は、栄柴巡に全てを要求するだろう。このまま続けていれば、至上の舞と引き換えに巡は食い尽くされてしまうはずだ。そうならない為に、巡は舞奏から離れたはずなのに。佐久夜だって、栄柴巡の人生を取り戻させてやろうとしたはずなのに。
それでも、自分の理想としているものはここにあった。
九条鵺雲が、自分に必要以上に構うわけがこれで分かった。あの男に会う度に、佐久夜は巡に言えないことが増えていく。巡には言えないようなことを、この短期間に二人でどれだけしただろうか。
巡にはそれを察するだけの、呪わしき聡明さがあった。そして、それを良しとしないだけの気高い傲慢さがあった。
巡が自分に執着していることには気づいている。ある意味で、巡にとって佐久夜は巡の自我の一部なのだろう。幼く不安定な時期に、あまりに強い支えになってしまった弊害だ。それを分かっているからこそ、鵺雲はそこに触れようとする。
そうすれば、巡が更に夜叉に近づくと知っているからだ。
「そうだ、佐久夜はどう思う?」
巡のその言葉で意識が引き戻される。
「そうだね。遠江國の社人として、佐久夜くんにも意見を聞きたいな」
「どう思う? 御斯葉衆のリーダー、どっちがいいと思う?」
「……俺は、」
まるで証言台にでも立たされたような気分で、佐久夜は呟く。あなたは、答えを知っているはずじゃないのか。咎人を裁く槌の音は、鵺雲が「でもまあ、まだ決めなくてもいいか」という声で留められた。そうして佐久夜は、自分が生き長らえたことを噛みしめる。
著:斜線堂有紀
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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©神神化身/ⅡⅤ