僕は人生において犬や猫を始めとするペットの類を飼ったことが一度もない。物心ついた頃には近所に野良犬が一匹や二匹はうろついていて「噛まれると狂犬病になるよ」と脅されていた時代だった。実際野良犬に追い掛けられ怖い思いもした。飼育小屋の鶏が檻を破った野良犬に食べられた現場を目にしたこともある。だから犬や猫を飼いたいと思ったこともなかったし、そもそも飼おうにも団地住まいで飼える環境でもなかった。
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
死んでしまった野良猫やハトを、
畑の隅に友人と埋葬していました。
小学生の頃、畑のおじさんは、
隅っこだけやで、と、
許してくれました。
見知らぬ猫を、
木の根元に埋めていた母を
覚えています。
大切なことを学んでいたのかもしれません。
犬を飼っていましたが、
近所からもらわれてきた子でした。
今も仏壇の下の隅っこに
写真を飾って拝んでます。
ペットと暮らすことを
否定するわけではありませんが、
ペットショップのあり方は
かわるときが近づいていると思います。
震災などで行き場を失ったペットについては、
中学生の教科書でも話題として
取り上げられています。
変化は少しずつはじまってますよね、きっと。
私は1月に推定年齢5・6か月の猫を引き取りました。近くの公園で野良だったのですが(大阪の都会部です)、人懐こく野良生活も短かそうな様子だったので野良猫の世話をしている方に発見され保護されたのです。私はすでに60代前半の寡婦、もし猫が20年近く長生きすればそのときには80代前半となります。私自身は猫より絶対長生きする決意なのですが(笑)、そこにまったく不安がないと言ったら嘘になります。そんな若い年齢の猫を引き取る資格はなかったのかもしれないと考えると、エゴで無責任な人間だと言われてもしかたがないように思います。
今はその猫が可愛くてたまらず家族同然という気持ちですが、30年以内に70%の確率で起きるとされている大地震や大津波が仮に起こってしまい、自宅から避難しなければならなくなったらどうするのかということをよく考えるのですが、そのときに小原さんがおっしゃっている「命の線引き」という問題に直面することになるだろうと思います。避難場所に猫を連れていくことはたぶんできないので自宅に残したままになると思います。状況により世話を継続できなくなることなど考えたくもないことですが、考えておかないわけにはいきません。今はただ、できるだけ穏やかなときをともに長く過ごせること、猫が自分より先に天寿をまっとうしてくれることを祈るのみです。
>>2
ペットは野生動物ではないので人間に依存しなければ生きていけないんですよね。単なる個人の趣味を越えたレベルでそういう動物を人間社会はどう受け入れていくかを議論する時期に来ているような気がします。同じ税金でも殺処分以外の使い方を議論するべきなんだろうなと。
>>3
人間は誰もが自分の幸せを願うとき、他人に対してはある意味無責任なエゴのかたまりになるんじゃないでしょうか。批判もあるでしょうけど自分自身が批判に耐える覚悟があるならばそれでいいんだとも思いますよ。
友だちがコンビニの前に箱に入れられてドロドロになっていた子猫を育てています。保護したときは病気で、瀕死の状態だったようですが、3年経った今は元気なヤンチャ猫になっています。
保護したとき、この子を育てると覚悟したといいます。命を全うするまで共に暮らし共に生きる、そうでなければやはり飼うということはしてはいけないのではないかと私も思います。可哀想という同情だけでは共に生きる共に暮らすということは出来ないのが動物なのですから。
>>6
そう思いたいんですが、海岸にパーベキューのゴミを放置したり煙草をポイ捨てしたり、禁止されている河川敷でゴルフをしたりしている人たちを見ると、利己的で無責任な人間に他種の命を「飼う」なんて重大な責任が果たせるのだろうか。そういう命から癒やしを貰ったりする権利はないんじゃないだろうか、と思ってしまいます。