自分が彼(彼女)だったかもしれないと感じる人と擦れ違う瞬間はないだろうか。ぼくはたびたびある。たとえば徒競走で横並びだったランナーのひとりが最終コーナーで転んだとき。たとえば通勤ラッシュ時に駅の階段を昇っていて目の前の人が派手に転んだとき。タイミングを間違えていればぼく自身が彼(あるいは彼女)だったかもしれないという思いが去来する。だから手こそ差し伸べられずとも、救いがあることを心の中で祈る。同情とは違う。見下しているつもりもない。自分の方がその人より幸せだなんて思ってもいない。幸せも不幸せも運次第というか、ただの巡り合わせに大きく左右されることもあると思っているからこそ「たまたま」転んでしまった人のことをタイミングが違っていれば自分だったかもしれないと感じるのだと思う。
草の根広告社
「ぼくが彼だったかもしれない」
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