映画『帰ってきたヒトラー』を見た。コメディータッチであるが、考えさせられる映画である。ヒトラーに現代社会が如何に退廃した社会になっているかを批判させ、その批判が的を得ている、つまり、ヒトラー的言動が再びドイツ社会で受容される可能性を指摘した風刺映画である。
簡単に冒頭部分をウィキペヂアで見てみる。
「1945年4月30日に自殺したアドルフ・ヒトラーは、自殺直前の記憶だけを失った状態でベルリンの空き地で目を覚ます。ヒトラーは戦争指導に戻るため総統地下壕に向かおうとするが、ベルリンの人々が自分を総統と認識していないことに疑問を抱く。ヒトラーは情報を得るために立ち寄ったキオスクで、自分がいる時代が2011年のベルリンであることに気付き衝撃を受け、空腹と疲労が重なりその場に倒れ込んでしまう。
倒れ込んだヒトラーは、キオスクの主人に介抱され目を覚ます。キオスクの主人はヒトラーを見て「ヒト
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コメントを書くヒトラーと言えば、私がどうしても看過できないことは彼を支援したのが、主としてファイナンスを一手に引き受けることによってですが、米国のウオール街だったということです。そして、それに関連して「お金で買えないものはこの世にない」という古今東西多くの人々が受け入れて来ている命題です。これも真理です。
ヒトラーもムッソリーニも、現在に至ってはウクライナのネオナチ政権、イスラエルのリクード政権、米国に至ってrはデイック・チェイニー一派が牛耳るCOG体制、これら全てが例外なく国境なき巨大資本の代表格であるロスチャイルド、ロックフェラー家等々の信任を得、且つファイナンスを受けて居るのです。換言すれば、それら体制や権力家たちは資本の強欲を満たすための尖兵たちと言えるのです。
とは言え、金で買えないものも確かにあります。それらは回教徒たちの共同体、ロシア共同体、中国共同体、北朝鮮共同体です。そして、これら共同体以外に資本の強欲に規制を加えようとするリベラル集団もそうです。
続く
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続き
お金で購えない個人の哲学、そして上記の諸々の共同体は資本の強欲家たちとそれに追従する人々には嫌われます。何故なら、儲けさせてくらないからです。今起こっているロシアと中国との不穏な緊張は単なる嫌悪から抗争に発展したものだと思います。米国が盛んに進めて居る「テロとの戦い」はISという怪しい国家を使って回教共同体に挑発を加える陰湿な偽旗作戦です。
日本の安倍政権は国境なき巨大資本の信任を得てめでたくファイナンスを得られているから強大な力を発揮しているととも言えるのです。その意味では実に合理性を得た政治現象だと思うのですが、それらの政権は得てして中核の部分にカルト性を帯びて居ます。カルト性はサイコパスです。暴発するのです。国境なき巨大資本は注意しないと暴発で自ら世界と共に消滅するリスクを抱え込んでいるのです。
相も変わらず、巨大資本に操を売った媒体は回教徒、ロシア、中国、北朝鮮を蛇蝎の如く誹謗して留まることを知りません。実に危険な状況にこの地球はあるのです。リベラルは世界的に結集しなくてはならない時期にあります。
戦争犯罪人として、ドイツでは、ヒットラーという個人名が出てくる。日本では、どうか。勝てば様々な個人名が出てくるが、負けた場合は連帯責任であり、個人名は隠れてしまう。個人は、戦犯でなく英雄なのです。
負ければ、日本国が負けたわけであるが、敗戦の責任を個人名にすることは絶対にないのです。また、個人責任に及ぶので、国家の敗戦を認めるわけにはいかず終戦とするしかないのです。二重帳簿で国家運営をすれば、おのずからそのようになるのです。日本の怖さであり、不気味さでもあるのです。日本人には当たり前でも、外国人には絶対理解できないことなのでしょう。日本社会は、二重帳簿社会から脱皮しなければ、米国隷属から逃れないともいえる。
孫崎さんの折に触れての映画評、けっこう楽しみになって来ました。
いつも「見たくなる」批評です。
ドイツ人の視点について考えさせられますね。
彼らは、自分を外から見る視点をもっていますね。かつ、非常に複雑な視点構造をもっている。
ヒトラーに一理あるということを確認しながら、そこに再びひきづりこまれないよう自戒を忘れないのだということが、この批評でわかりました。
とにかく駄インテリは、自分の主張ばっか。自分の正しさを言い募る。自分を疑わない。駄から駄インテリなんだ駄。