ラフカディオ・ハーンは著『神国日本』(一八八八年米国で出版し、日本では平凡社、一九七六年)から出版。その引用 356
・日本の教育は、見かけは西洋風でありながら、大体において、これまでも、また今でも、外見とは全く反対の方式に基いて行われているのである。その目的は、個人を。独歩の行動を出来るように鍛えるのではなく、個人を共同的行為にむくようにーつまり、厳しい社会機構の中に個人が妥当な位置を占めるのに適するようにー訓練を施すことであった。我々西洋人の間では、強要抑圧は子供時代に始まり、その後徐々にゆるめられる。極東のこの国での強要抑圧は、もっと後になってから始められ、その後だんだん締めつけが強まってゆく。
・クラス生活の調整は、多数に対し一人が独裁力を振るうという事ではない。多数がひとりを支配していくというのが常道であり、-その支配力たりや実に強烈なものであるー意識的にしろ無意識的
コメント
コメントを書く戦後も過去のことになり、いつの間にか、戦後の教育評価「相対評価」が、戦前の教育評価「絶対評価」にかわってしまっている。
我々の受けた戦後の教育の学習の評価は、教師の主観性を排して客観的に行うため、戦前の絶対評価にかわって相対評価で評価された。正規分布に基づく機械的に5段階に割り当てられたと記憶している。
いつの時点からかわからないが、絶対評価を加味した相対評価になり、55年指導要録改定から、「観点別学習状況」の評価が絶対評価になり、平成13年から「評点」も絶対評価にかわった。
教師が、絶対者になり、生徒の自由な発言が規制され、行動も、衣服も規制の対象に移り、個人としての生き方が教育現場で排除されてきており、全体主義の素地が、固められてきたとみるべきでしょうか。
私の答え。
(1)はい。当てはまります。安倍政権になってその傾向が益々強くなっているように感じて居ます。
(2)「制度の奴隷」とは言い得て妙です。
(3)日本人には特にその傾向が強くあるのじゃないでしょうか。日本には政治亡命、一般亡命、難民なんていうことが歴史上殆ど無い国ですから、猶更にその傾向は助長されているように思えます。悪く言えば、日本は有史以来収容所列島だと言っても過言ではないと思っています。
(4)ハーンの評価は今も通用する立派なものだと思います。
(4)ハーンの評価は今もしっかり通用する立派なものだと思います。
>>1
なるほど、確かに。
司馬遼太郎が『司馬遼太郎が考えたこと』全15巻の中で繰り返して考察した課題の一つが、明治国家の「重さ」ということである。明治維新後に作られた「国家」というものが人民の頭の上にのしかかった重さというものは、西欧諸国に無い、類のないものだったと繰り返し述べている。
逆に言えば、江戸期までの民衆のほとんどは、「国家」などと言うものをほとんど意識したことがないままに一生を終えた。
歴史家の網野善彦は、江戸期までの民衆の暮らしぶりの多様性、女性の自由・自立度の高さなどを文献で立証した。
歴史への炯眼をもってなる両氏のいうところからすれば、「国家」と言う圧力釜で「国民」を一律化し、戦争に行く場合にも「死んでこい」という言い方がなされるような、つまり、国民は人間以下の道具のような存在であるような、そういう重量感のすさまじい国家が形成されたのは明治以後だと考えるのが自然だろう。
今だに人びとが時代劇のなかにのんびりした庶民生活の面影をなつかしんだり、あるいは、江戸落語の登場人物たちにノスタルジックな懐かしみを感じたりするのは、「国家」以前の、江戸の生活の記憶が文化の中にはかろうじて残っており、それを捨て切れずにいるのだろうか。
ハーンは、その江戸の雰囲気を十分に知っていたはずであり、彼が批判しているのは明治国家の官僚と官僚制度がしだいに国を変質させつつあることを感じたからではなかったか。
いずれにしても、海外からもどって東京の雑踏にはいると、人間の姿かたちや立ち居振る舞いの画一性にめまいをおぼえる。なにか、みなが同じ方向に、同じようないでたちで、同じような顔をして歩いている。その不気味さ。
しかし、それは、全体としてのパワーを発揮するようなたぐいの何かではなく、個を殺すような傾向の空気なのである。
日米戦争の敗戦後、一瞬だけ、その重さが蒸発して自由な空間が訪れたことは、いろいろな人間が証言している。焼け跡には自由な、輝ける空気があったという。あの、悲惨な焼け跡の方が戦前の軍国主義の重さよりも輝いていたという人がいるくらいだから、戦前のかの国の異様さは想像を絶したのである。
いろいろ調べていると、1960年から70年代に社会の中軸をになっていた人びと(孫崎さんの世代)には、むしろ、上の言うことに逆らうような自立タイプ(いわゆる「豪傑」)がどの分野にも少なからずいたという印象である。つまり、集団に従わないタイプであり、「一匹狼」とも「アウトロー」とも揶揄されがちなタイプである。作家でいれば辺見庸が典型だろう。
こういうタイプが今は絶滅した。
そして、戦後生まれが社会の担い手となってから、つまり安倍、野田、前原といった世代だが、日本が三等国にしか見えない情けない国家になり下がり続けている。この時期から対米従属がまるで正しいことのように思う人びとが多数の国になっており、そして、同時に「失われた10年」「失われた20年」「失われた30年」の時代に突入してしまった。
自立なくして国家の繁栄なしである。
ご紹介を大変有難うございます。このような分析をしていたのは驚きです。
今の時代においても正に図星ではありませんか。事は官僚に限らないでしょう。
大手民間企業も似たり寄ったりではないでしょうか。
実体験から言えば、人間のロボット化、組織の軍隊化ということだと思います。
> ところがこのような強者一人に対して臆病ものが五十人いる。
これこそがこの国の根本的な病理に思えます。
矢部宏治氏に「知ってはいけない」で日本の支配構造を暴いて頂きながらも、どうしても腑に落ちないのは この点です。支配者-米軍に初めに圧力を受ける「最前線」の日本人に何故「強者」≒ゼロなのか。最大の問題は密約などより、特に上が殆ど臆病者で占められていることではないでしょうか。
>>5
有難うございました。何となく ”もやもや” していたことがすっきりした気がします。
『この国の根本的な病理』からの解放には、単なる独裁者という意味ではなく、英国で学ばれたインドのガンジー様、仏国で学ばれたホーチミン様のような方が、我が国に現れるまで待たなければならないということでしょうか。
国内のことはもちろんのこと、属国から解放のためにも、米国で数多学ばれた中から、『X氏』の登場を待つしかないということでしょうか。あまりにも、飛躍しすぎでしょうか。
>>6
昨夜の生放送からも、もう日本人にはDNAレベルでドレイ根性が染付いているのかと思いたくもなりますが、
それよりは長らくの「生活習慣」に因る気がします。また、そこには上と下が結束することが滅多に無いことも含まれそうです。上と下は常に支配する側とされる側に分離しているでしょう。上が更に強力な敵と対峙する時、下と一丸になって闘うなど日本では まずあり得ず、上はカンタンに負けて「上級ドレイ」化してしまいます。
「本当に自由な人生」の素晴らしさを体感したことがない人だらけでは、この悪循環を断切るのは容易ではないとも思います。
長年歴史的に培われて来た「統治方法」の完成版です。この大前提は「誰が何を考え、いかに行動しているか」を個人レベルで把握されていることです。そして、それが組織員全員に周知され得る環境にあることです。また、その個人の考え、行動が組織全体の意に反する場合、絶対的な権力によって是正ないし、排除される条件になっていることです。いわゆる全体主義的なしくみが出来ていることです。日本では江戸時代からその土壌は培われています。
今、教育現場をよく問題にされますが、基本的な原型は社会の現場、すなわち職場にあります。「しっかりした企業」は、労務管理のプロと警察の天下りを職場管理に専念させています。社員は頭の片隅には必ず「会社は自分をどう見ているか?」「【誤解】されるようなことはないだろうか?」と言う意識を置いて仕事をしています。だから、自分の自覚的な意思だけでなく他動的な意思でも働き、過労死や鬱が続出しているのです。その実社会の反映が教育の世界でもあります。会社では、個性よりも強調性、教育現場では、団体行動重視。メデイアの芸人は「空気を読む」を暗黙の裡に重視します。
集団主義で得をするのは、一番上で命令っする人と、すぐ下で庶民を好きに動かす人です。あとは、強権を振るって協力する闇勢力です。もう、日本人も、この欺瞞的な”しかけ”に気付き、反撃を開始すべき時です。
なお、問1、2、3、4の回答は、NO2様と同じです。
『致知』十一月号を開いたら、あのシンクロの井村雅代コーチが、「一流は道を開き、二流は道を選び、三流は道に従う」といった趣旨のことを述べていた。たしかに、井村は「道を開いた」人だが、それゆえにある時期日本ではバッシングされた。それでも、変わらずに井村は井村で居続け、ついに、「日本」が井村に屈した。
実に、フェアな原理が機能したわけである。
孫崎さんは外交政策分野の一流の思想家として歴史にのこるだろう。
どんなに権力に弾圧されようと、それが一流のパワーであり、歴史の原理なのだから。