明治維新、天皇利用の体制 ニューマン
ジョセフ・ニューマンは一九一二年生まれ一九三七年に来日。英字紙の記者。一九四一年ゾルゲ・グループの情報を得て、ドイツのソ連侵攻を事前に報道する。帰国後一九四二年『グッドバイ・ジャパン』を出版。伊藤三郎著『グッドバイ・ジャパン』(朝日新聞社、一九九三年)に再録。その引用
・(明治)憲法(一八八九年公布)に公布によれば「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」である。理論的には、これは天皇に絶対の権力を与えているが、不思議なことに天皇はこれを行使することをこれまでほとんど許されていない。
日本人は世界最長で途切れたことのない君主をよく自慢するが、その天皇がまずほとんど統治したことがないことは言いたがらない。一八六七年の革命(明治維新)で、独裁体制の徳川幕府が倒されたが、この昔からの根強い慣行は変わらなかった。変わったのは、軍事独裁者の一群が
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
日本の権力構造に関する歴史を含めたニューマンの見識は実に深く完全です。
英米の植民地主義者たち(戦後間もないころ、覇権主義者と呼ばれていたが、最近では新保守主義者と呼ばれ出した。ところが、それもすたれて戦争屋と称される)もニューマンのものと似た観察を行っている。このことは世界的な常識なんだが、日本人の殆どはこのような認識を持つに至っていない。何故なら、そのような認識を日本人が持つのを止めようとする日本の支配層の思惑があり、メデイアや出版界もその思惑を忖度しているからだ。
ところが、平成になって雰囲気ががらりと変わって来ているのを私は感じる。戦争を否定する「平和」をキーワードにして天皇陛下が行動をなさっているのだ。明治天皇から昭和天皇までの長い期間、軍国主義者の傀儡的な存在に対する深い反省があるのだろう。
>>1
あなたの見解を聞かせて下さいよ。参考にしたいんです。決してけなしたりしませんから。
戦後米国がらみの戦争は数多くあるが、先進国で王室がある国の戦争(紛争)は、英国のサッチャー元首相時のアルゼンチンとのフォークランド戦争が頭に浮かんだ。あの時のことで強烈に頭に残っていることは、エリザベス女王の関与である。うすら覚えなので調べてみた。エリザベス女王の命令で、当時海軍中尉であり、次男のアンドリュー王子が,対潜水艦攻撃用ヘリコプターの副操縦士として航空母艦に乗船し、戦闘行為をすることを許したということである。行政府、国民とともに戦う王室である。王室が、政府、国民と喜怒哀楽を共にするということである。
>>4
なるほど、天皇陛下もエリザベス女王みたいに戦闘的になれということでしょうか?
本件、先日の記事でも一部紹介されましたが、何度でも採り上げ 掘り下げて頂きたい内容です。
日本人自らを、あるいは日本社会を映し出す鏡に他ならないからだ。何故 鏡が要るのか。自らを、あるいは社会を理想的に制御するために欠かせない「センサー」になるからだ。
> 従って、日本の陸軍も海軍も政府あるいは国民に対しては責任を負わない。彼等は天皇にのみ忠誠を誓っている。ということは、軍部は自分達以外には誰に対しても責任を負わない。
ここから教えられるのは「彼等」が採ったシステムは国民からのフィードバック・ループを完全に遮断していることだ。
絶対者を仕立て上げ、「彼等」のコマンドは絶対者の御託宣として下々の国民に発せられる。どんなに理不尽でも神の言葉に逆らうなど 以ての外。かくして国民から「彼等」に対してネガティブ・フィードバックは一切かからない。
センサーからのネガティブ・フィードバックが無ければ早晩システムは暴走する。アベ政治然り、ロボット然り。
「社長の***さんも君のことは随分 気に掛けておられるのだよ」━こうして過重労働強いるクソ上司も「彼等」のDNAをしっかり受け継いでいる。
Tips:
「孫崎享のつぶやき」-迷惑コメントを非表示にする方法━「非表示でもいい サーバーに残って欲しい こんなウザコメ書いてたんだと この世に生きた証 残したい」━白癬ども その心意気だ
http://magosaki-blog-tips.blogspot.com
>>7
実に明解で分かりやすいですね。賛同いたします。
>>5
どうも左翼系というか中国系というか得体のしれない人種は、自民系とか戦闘系とかレッテルを張るのがお好きなようだ。
単純にニューマン氏が英字紙の記者との紹介があるから、王室の英国と比較しているのではないかと思い取り上げてみただけであるのに、変な邪推を展開する。愚かといっているのであり、取り上げる必要性ないのに、いっていることと行動が全く一致しない人のようだ。
>>9
この課題と局面でわざわざ英王室がフォークランド紛争どう絡んだかをあなたが持ち出すもんだから、あなたが日本の皇室もそうあってほしいと思っているんだろうなと受け取るのが普通じゃないでしょうか?
ニューマンも孫崎先生も「天皇を利用する軍部や権力の不条理」を我々に紹介しているわけで、当然、そういう傾向に対して批判者の立場にあるのは明らかですよ。
以下は、松本清張の作品の一つ「象徴の設計」より。
近衛兵の氾濫(竹橋事件 明治11年)に手を焼いた岩倉具視と山形有朋は、権力を支える軍隊に「精神的主柱」がないことを痛感。西欧におけるキリスト教の「神」に匹適するものとして、「天皇」を利用することを着想した。かくして天皇を現人神に仕立て上げ、これを神格化することで、「軍人勅諭」(明治15年)を発布した。そして、人民に受け入れがたいものは必ず「天皇の意志」であることを強調した。
つまり、天皇制を設計したのは岩倉具視で、これを現実化したのが山県有朋である、というわけ。
日本の天皇は、古代はともかく、かなりの大昔から、ナポレオンのように軍を直接率いたり、
自分で親政する皇帝とは全然違う存在なので、
「皇帝のようには機能していないぞ」という意味のニューマンの指摘は悪意あるいは無知でしょうね。
軍部の専横という点では、法技術的に、軍部を統御できる権力を「内閣」に与えれば、軍部の専横を防げたとおもわれますが、
明治憲法ではそのようにしなかった。そもそも「内閣」ですら憲法上の制度ではなかったわけです。
どうしてそのようになったかについては井上毅の考え方が強い影響を与えたといわれています。詳細は略しますが、
まあ、人民などを信用していたら、国が分裂して列強に侵略されてしまうというようなものですね。
当時の日本の置かれた状況では、無理もないとわたしはおもいます。
問題は、それを情勢を見ながら十分に改定することができなかった硬直性だとおもいます。
今現在なら、憲法9条がそれにあたるでしょうか。
なお、「天皇には権力があるが、天皇は自分では行使しない」というのは、「自分の望む権力を天皇に行使してほしい」という
形で権力批判の原理になってきました。それは明治維新の原理そのものだったし、
2.26事件の反乱軍の指導原理は、君側の奸を除き天皇親政をというものでした(昭和維新と反乱軍は称した)。
つい先日の秋篠宮による宮内庁長官批判をサヨクが歓迎しているのも、君側の奸=安倍政権とみているわけですね。
しかし、2.26事件を考えても、日本ではこれは天皇を利用したたいへん起爆力のある権力批判原理なのですが、
それをサヨクがサヨクのくせに利用しているあたりは、アホっぽいとおもいます。