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ファミリーヒストリー その3
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ファミリーヒストリー その3

2016-08-26 11:32
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    ■戦後の名古屋。父母の時代へ。


    父、登は、食堂を継ぐつもりはなかった。

    父は、江戸川乱歩のデビュー作である「二銭銅貨」を読み、
    読書の面白さをしった。

    また、山本屋食堂には、古墳発掘で明治大学の発掘チームが
    滞在中に来てくれた。
    父が15才のとき、1950年に名古屋市北区の白山藪から
    5世紀のものと思われる前方後円墳から鏡や鉄製の刀などが発掘されたからだ。

    少年時代の父、登は、明治大学生との交流で、大学の存在を知った。
    また、考古学や歴史というものに興味をもつきっかけになった。


    昼間は山本屋食堂の出前があるため、高校は定時制高校であった。
    幸い、近くに明和高校があり、そこで勉強した。
    父の時代はまだ、大学進学率は低かった。
    父の60人の中学校の同級生のうち、大学に進学したのは2人だけだった。

    とみ江がわたしに話したことがある。
    「夜中まで捩り鉢巻きをして勉強していた」と。

    昼間は働いていることもあり、受験は3教科だけの私学を受験した。
    私学で学費が安かった立命館大学を受けた。
    最初は、大学も夜学であった。
    立命館大学で日本史を勉強し、就職は名古屋で社会科の教員となり
    定年まで勤めた。

    父と母との間に長男であるわたしが1963年10月に生まれる。
    鹿十朗にとっての初孫である。


    翌年、東京五輪開幕。東海道新幹線が開通する。
    黒川の食堂の前で、鹿十朗とわたしとの唯一といってよい写真が残されている。
    わたしは1才に満たないころであろう。大泣きをしている。

    そのわずか数ヶ月に鹿十朗死去。享年59才であった。

    妻、とみ江は、1965年に商売をやめて、
    黒川の土地を隣のパチンコ屋に売却する。
    商売は父の弟、弘がその後春日井市で継ぐことになった。

    一家は現在の名古屋市守山区に引っ越すことになった。
    1966年のことである。


    何もない守山の地に引っ越した理由を母は「子育てのためだ」といっていた。
    道路は舗装されておらず、空き地と田んぼだらけの守山で
    1968年にわたしに妹が生まれる。

    とみ江の趣味は土地の売買であった。
    角地を買い、値上がりするまで待ち、売り抜けることであった。
    高度成長期にはその投資法はうまくいった。

    だが、失敗もあった。
    それが名古屋市北東辺の守山の土地と岐阜山間のひるがの高原の土地だった。
    この二つは何年しても値上がりしなかったからだ。
    それで、売れない土地、守山に一族郎党を引き連れて
    現在の守山に移ることになった、というのが真相なのかもしれない。

    現在は、公共交通も整備され、守山は人口が増加している。

    山本家が守山に引っ越した昭和30年代は
    守山区の人口は6~7万人程度であったが、今では20万人に近い。


    わたしの祖母であるとみ江(鹿十朗の妻)は、
    ひるがの高原に別荘を建て、夏、そこで過ごすことを楽しみにしていた。
    とみ江の長男、登(わたしの父)は教員であり、
    長い夏休みがあり、比較的ゆったりと休みがとれる。

    わたしが子どものときの我が家は、毎年、夏休みは
    ひるがの高原ということになる。
    わたしにとって、幼い日々の貴重な毎夏の思い出である。

    とみ江は自らのことにはお金を使わず、
    4人のこどもたちのためにお金を使った。
    子ども4人にそれぞれ一軒家を建てた。
    商売引退後も暮らしていけるようにと、賃貸アパートも建てた。
    ひるがの高原に別荘を建てた。

    ここに行く、あそこに行くと、子たちと旅をした。
    料金が高い旅館に泊まると、
    いつも子たちを叱った。「この旅館は高すぎる」と。

    ただし、そうはいっても、とみ江が詠んだ俳句は、

    子の心素直に受けて下呂の雪。

    とみ江は俳句をよく詠んだ。
    子規顕彰全国俳句大会で入選する。
    ひるがの高原で詠んだ一句を応募した。

    髪カット七月の空軽くせり。

    とみ江が入選したのは1983年のことだが、たとえば、
    2015年の子規顕彰全国俳句大会はおよそ9000通の句の応募があり、
    入選作は40であったことから入選は狭き門であったのだろう。

    とみ江は晩学であった。
    ノートも持たず、
    広告の裏(当時の広告は両面印刷がなく、裏面は白紙であった)に、
    短くなった鉛筆で俳句を詠んだ。
    孫のわたしにも、晩学の苦労話をした。
    祖母が台所で漢字の練習をよくしていたのをわたしは覚えている。

    秘す晩学届かぬ詩へ夏の果て。(ひるがの山荘にて)

    祖母とみ江の俳句には、亡き夫の鹿十朗を偲ぶものがいくつかある。

    亡き夫(つま)の残り香のする夏帽子。(ひるがの)
    話しかけ語りつ亡夫(つま)の墓洗う。
    こもごもと語る亡夫と十二月。

    亡き鹿十朗にとみ江がこもごもと語ったことはなんであったのだろう。

    4人の子ども達のことだったのだろうか。

    あるいは、わたしたち孫たちの成長であったのだろうか。


    祖父母の子育てに関して。
    昭和20年代と30年代の食堂経営時代のとみ江は
    子どもの学校行事には一切行くことがなかった。
    店が忙しかったからだ。

    父母の子育てに関して。
    守山の田舎で、わたしの母がPTAの役員になり、
    母はわたしや妹の学校行事にはいつも参加してくれた。
    そして、父、登は、
    「親が子の教育に関わる、ようやく家庭らしい家庭が築けた」
    と思ったそうだ。

    父、登は、よき父であった。
    父はよくキャッチボールをわたしとしてくれた。
    ソファや机や本棚などの家具を日曜大工でコツコツと製作した。
    美術全集、文学全集、クラシックレコードの全集などを置いて、
    「そばに本があふれる空間」を用意した。


    祖母、とみ江も俳句、華道、踊りなど、習い事に精を出した。
    芭蕉を尊敬して、各地を回って俳句を読んだ。
    晩年、句集を2冊出版した。
    「句集 鮎の宿」(1985年、東海共同印刷)
    「句集 寒梅」(1992年 東海共同印刷)


    日本は食えない時代からようやく脱却して、
    精神的な欲求、文学、音楽などの芸術への欲求を満たせる時代になった。

    高度成長期の時代の恩恵を真っ先に受けたのが、
    わたしたち「戦争を知らないこどもたち」である。

    平和な時代、家庭での愛があふれる時代にわたしは育った。
    進学校には塾にいかなくてもいける時代でもあった。
    現代のような経済格差はなく、私立の中学校はほとんどなかった。


    だが、わたしは、音楽の道を目指していたこともあり、
    ほとんど勉強はしなかった。



    ■名古屋から東京へ。わたしたち夫婦の取り組み


    わたしは名古屋を出た。
    東京で職を見つけたからだ。

    平成2年に就職し、バブル世代と呼ばれた。
    証券業界で30年近く働いている。
    2000年に東京都江戸川区のマンションを購入した。

    わたしは1995年に結婚した。
    1997年、長男が誕生した。
    1999年、次男誕生。
    そして、次男を抱いた後、とみ江はガンで入院。
    そのまま、1999年に鹿十朗のもとへと旅立った。

    とみ江、享年90才であった。


    我が家では、その後、
    2003年に三男誕生。
    2005年に四男が誕生。
    わたしたち夫婦は、四人の子どもに恵まれた。

    わたしは、中学生や高校生や大学のとき、勉強が得意ではなかった。
    ピアノや作曲やバンド活動に明け暮れていた。

    だが、不思議なことに、就職してから、勉強が面白くなった口だ。
    19年間社会人学生をしている。
    とみ江の血だろうか、晩学なのであろう。

    一方、我が妻も宝石の学校、デザインの学校と、
    かれこれ10年以上通学している。
    これが、東京在住のよいところで、
    ニッチな分野に一流の先生が近くにいて、習うことができる。
    妻はジュエリーをデザインして、石を選び、金型も自作して、
    年に一回、展示会をしている。

    これらは子育てには悪いことではないと思っている。
    親が好きなことをやっているので、
    子どもも自分が好きなことは大人になってもできるのだ安心するだろう。
    子どもには、恐怖心や心配や競争は不要だ。

    わたしたち夫婦の子育て。
    親が好きなことに打ち込む姿を見せることが、一番の教育だと考えている。
    そして、兄弟を差別しないこと。
    比べないこと。



    ■再び北海道へ。山本家100年振りの帰還。息子たちの時代


    2016年春、わたしたちの長男が、小児外科医を志し、
    北海道大学医学部を受験。合格した。
    我が家は開業医でもないため、長男は勤務医となるつもりだ。
    一流の小児外科になった後に、宇宙飛行士に応募して、
    火星に行くのが長男が高校三年生のときの夢であった。

    北大医学部は1919年の創立。
    日本で最も歴史のある医学部のひとつだ。

    医学部の最初の講義はラテン語とドイツ語で行われたという記録が残っている。

    2019年に北海道大学医学部は創立100周年を祝う。

    1919年といえば、鹿十朗が高等小学校を卒業したと思われる年である。
    北海道から名古屋に出稼ぎに出た頃である。

    鹿十朗のひ孫、登にとっての孫、わたしたちにとっての息子は、
    これから、北海道を拠点とする。


    山本家、100年振り北海道へ帰還。

    野球が得意であった我が父、登のように、息子は大学で野球部に入った。
    音楽が得意なわたしの影響もあって、息子はドラムが生涯の趣味になった。
    いろいろなものを息子は、先祖から受け継いでいる。

    江戸時代の兼吉の岡山の塩田経営、
    明治の金次郎の北海道開拓、
    大正、昭和の鹿十朗の出稼ぎ労働者、
    戦後、名古屋で食堂商売、
    父、登の名古屋での教員生活、
    平成、わたしの東京での証券マン人生。
    北海道で医者となる長男。

    これからは、息子たちの時代である。


    ざっと、150年ほど、高祖父、曽祖父、祖父、父。
    そして子どもたちのことを振り返った。

    長万部には鹿十朗の墓がある。
    祖母、とみ江が晩年に鹿十朗を忍んで建てたものだ。
    昭和55年、1980年に建立した。
    そのとき、とみ江は北大のある札幌に立ち寄っている。

    時計台鉄筋包む今朝の秋。
    今別れ又何の日ぞ秋の墓地。


    わたしたちの生きる社会は幸せだろうか。

    毎日ようにテロが起こっている。大災害も頻繁に起こっている。

    だが、一方で、社会は確実に豊かになっている。

    そして、日本は、そうはいっても、平和だ。


    この平和は多くの犠牲の上に勝ち取られたものだ。
    基本的人権もある。言論の自由もある。
    生活保護があり、健康保険もある。
    インターネットもあり、スマホもある。
    電化製品があふれる、モノが豊かな時代となった。
    勉強したければ、無料で勉強できるアプリも多数ある。
    格安チケットで世界中を飛行機で移動できる。
    だれでも自分のことをフェイスブックやブログに画像や映像付きで
    書き残すことができる。


    一方で、この時代は、格差社会といわれている。
    ブラック企業が問題となっている。
    若者の就職難は続いている。
    給料が上がらない。
    老後破産が相次いでいる。
    国家間の緊張が高まり、改憲、国防が新たな国家課題になりつつある。


    子どもの世代、孫の世代に、平和な社会がこれからもずっと続くようにと
    願わずにいられない。


    2016年7月記す
    日本株ファンドマネージャ
    山本 潤


    参考:

    毎日新聞社 昭和史

    北海道大学医学部50年史



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