「立憲民主党の勝利」と「希望の党の敗北」には多くの教訓が含まれている。
劇場型政治の終わりがその一つ。
立党のお披露目で、わざわざ小池百合子に似た女優が颯爽と歩く後ろ姿のイメージ映像を見せてから、壇上に並んだ議員たちの前に現れるあの派手な演出、電通的、人工的なイメージ操作は何も役に立たなかった。
「排除宣言」も、小泉郵政解散のときの「抵抗勢力」と同じで、「イジメ」の構図を作って残酷ショーを国民に味あわせようという演出。
「抵抗勢力イジメ」は当時の「改革ブーム」に浮かれた馬鹿な国民に大うけだったが、今回は「判官贔屓」の方が強くなってしまった。
人々は演出過剰な「劇場型政治」より、たった一人で立党した枝野幸男の「実直型政治」の方を選んでしまった。
演出による「劇場型政治」が古くなってしまったのである。
そして「改革ブーム」の終焉だ。
選挙のたびに、ずっと「改革改革」と言ってきた。
自民党に至ってはとうとう「革命」と言い出す始末だ。
だが立憲民主党は「改革」という言葉をほとんど使わなかった。
そもそも「保守」なら「改革」や「革命」という言葉を嫌うのが当たり前だ。
保守はフランス革命を徹底的に批判したエドマンド・バーグから始まったのだから、社会を「リセット」するような人工的な荒業を嫌う。
だからといって因習・陋習に固執するのは、保守ではない。
「因習保守」ではなく、時代に合わせて、漸進的に修繕を加えていくのが本当の「保守」である。
「改革保守」も「因習保守」もあり得ないのだ。
つまり小池百合子・希望の党の感覚がもう時代遅れになった。
自民党が「改革政党・革命政党」にまで到達したときに、やっと立憲民主党という「真っ当な保守政党」の萌芽が見えてきた。
それが今回の選挙だったのだ。
そこに「リベラル」が同居しているのは全然不思議ではない。
むしろ同居していなければならない。
保守思想はいくら理屈で分かった気になっても、伝統と慣習と進歩のバランスをとる感覚が、身に付かない者が多い。
慣習が因習にならぬように、進歩させるときにリベラルの感覚が要る。
不倫・姦通が悪であり犯罪という感覚は、もはやない。
あくまでも家族内の問題、プライベートな問題である。
だが、家族を守る慣習としては、まだ生きているから、道徳として口出ししたくなる気持ちも分かる。
ただし、政治家の場合は、「能力」と天秤にかける必要がある。能力ある者はどんな世界にも少ない。
能力がない政治家が不倫して遊んでるのなら、さっさと辞めてもらった方がいい。
あくまでもバランスを重んじるのが「保守」である。
不倫のすべてがNOとか、不倫のすべてがOKという原理主義はならない。
時と所と場面(TPO)に応じたバランス感覚を持つことが「保守」なのだ。
こういう抽象論、観念論が分からない者は信用できない。
獣でも、生物の本能として、バランスある反応をして、サバイバルしているはずだ。
最近の日本人は獣以下の発狂者ばかりである。
小林よしのりは「保守」である。
それは「リベラル」も内包する。
つまり、「保守」は「リベラル」よりも大きな概念なのである。
リベラルを排除した保守は、アナクロ保守となる。
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