新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう
「芸術家と偏執性~ロダンとカミーユ編」小林よしのりライジング Vol.269
・同じタグは複数追加できません
・最大文字数を超えているため追加できません
(全角20文字半角40文字まで)
・タグの登録数が上限に達しているため追加できません
(最大10まで)
・タグのロックは1記事あたり最大5つまでです
・ロックされているタグは削除出来ません
・不正な操作です
・タグの追加に失敗しました。お手数をおかけしますが、しばらくしてから再度お試し下さい
第269号 2018.5.8発行
「小林よしのりライジング」
【今週のお知らせ】
第80回「芸術家と偏執性~ロダンとカミーユ編」
「人が嘲笑い、破壊できないためしつこく笑いものにしたこの作品は、私の全人生の成果であり、私の美学の軸そのものである」 オーギュスト・ロダン(1908年、ル・マルタン紙にて)
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
イチ川みおりん
風邪っぴき2ばん
2ばん?
惜しい・・・これからじっくり読みます。
ごーごー、九州ゴー宣道場!
の5ーーー!
録です。イヤ、6デスネ。
7
配信ありがとうございます。
藤岡弘も私生活が見えないかな。あと意外と出川てっちゃんも。
九州で衝撃な名物はあくまきです。
おやつか食事かお供え物か、よそもんにゃどうカテゴリーしていいかわからんとこがすごい。
あまちゃんのまめぶ的な。誰かおせーて。
これからライジング読みます。
トンデモ見聞録読みました、
傑作。
木蘭先生好きの僕が言っても説得力は無いかもですけど、
どんどん凄くなっていく
世の中の正当な評価がそろそろ欲しい、
トンデモ見聞録書籍化どうでしょうか?
打撃10傑
10。
こんがんは。今週も配信ありがとうございます。
今ざっと読ませていただいただけですが、もくれんさん、今週も「芸術家と偏執性」シリーズ(?)、読み応えがありました☆彡
カミーユ・クローデルですか…。私も、彼女とロダンとの関係性は、男女というものを考える上で、とても興味深いカップルだと考えていたので、採り上げて下さって嬉しいです(*^▽^*)
カミーユは家庭が複雑で、母親とは最後まで相容れなかったらしいですね。家族同士でもわかり合えない、憎しみ合う、酷い仕打ちをする…。これは現代でも起こりえる問題ですね。人間の苦悩というものは、いつの時代も似かよっているのかな。
創作は男だけのもの、女は芸術家の想像力を刺激する存在、という男尊女卑がまかりとおっていた時代、カミーユは後世大きな評価を得た女性芸術家の先駆者であり(ロダンの模倣に過ぎない、盗作ではないかと言われ続けたことの悔しさはものすごかったでしょうが)、ただの犠牲者というわけでもなさそうです。
芸術家のエゴ、人間の身勝手さ、老いの残酷さ、狂気にいたる恋という病…。
映画『カミーユ・クローデル』は、主人公をイザベル・アジャーニが演じ、ロダンはジェラール・ドパルデューという、二大スターの共演でした。私は残念ながら、まだ観ていないです…。探しているのに見つからない( ノД`)シクシク…
イザベル・アジャーニ、いいですよねぇ。死ぬまでには観るぞ(* ̄0 ̄)/ オゥッ!!
今週も配信有難うございますm(_ _)m
断固、劣等人種と断定すべきだと思います。
タマの5段重ねにはタマらず笑ってしまいました。
配信お疲れ様です。
芸術の世界は深いですね。決して綺麗事だけではなく、しかも才能があるからといって幸せになれるわけでもない。ロダンのバルザック像がinn Kを模しているとは驚きでしたが。
ロダンとカミーユの才能が絡み合う様は、常軌を逸していて、且つどことなく異様ですね。ロダンの奥さんが嫉妬に駆られるのも解るような気がします。
ロダンと別れたカミーユのその後だけ見れば、捨てられたと受け取ることもできます。しかし前回のアラーキーの元モデルさんの告発にも言えることですが、女性の発言だから全て正しいという事はありませんし、一部分を切り取った上での主観的な発言だけで全てを判断するのは稚拙と言えます。
何より(日本だけかもしれませんが)芸術家、アーティストと呼ばれる人間を、誰もが美化しすぎているのではないかと思います。芸術家というのは一般人とは違う世界が見えているだけで、その世界が理路整然としているとは限らない、そんな事を木蘭さんの記事から感じました。
こんばんは 後藤です。
木蘭師範の言葉
<きれいなものだけが芸術ではないし、芸術は人を心地よくさせるものでもない。
素晴らしいものを生み出す芸術家、作家も、決して誰かを居心地よく、幸福にしてくれる人ではない、かもしれない。>
であるならば、
芸術とは 何なのか?
人生とは 何なのか?
それを おもしろいと思う自分は何なのか?
九州設営隊長です。
ついに、ついに九州道場まであと一ヶ月!募集開始です。
憲法学者・井上武史准教授を特別ゲストにお招きして、『憲法は国民のものではないのか?』をテーマに開催します!
九州にゴー宣道場が来る貴重な機会です。そして、応募が多ければ、茶魔サブレが貰えるかも知れない(笑)
是非、多数の参加をお願いいたします!
そして、九州設営隊も募集中ですよ。
ただ、時間がないので、五月第四週までに福岡で会える人のみを対象とします。
十六茶
「トンデモ見聞録」を読んで、凄まじい才能・個性の持ち主が出会うと、結局は悲劇的な結末を迎えてしまう物なのかな、と思いました。確かゴッホとゴーギャンも決別しましたよね。
カミーユの最大の悲劇はロダンから受けた仕打ちより、ロダンという「魔物」から最期まで逃れられなかった事ではないでしょうか。
最初読んだ時はカミーユが気の毒すぎると思いましたが、読み返してみるとセクハラ・パワハラという枠に嵌められる問題ではないと感じました。これをセクハラ・パワハラと決めつけるのは、ロダンとカミーユに対する侮辱になるのでは、とも思いました。
余談ですが、僕は芸術には本当に疎いです。ロダンの作品は「考える人」しか知らないし、カミーユと聞くとZガンダムの主人公カミーユ・ビダンしか思い浮かびません。
Zガンダムの主人公・カミーユも確か最終回でラスボスを倒したものの、発狂してしまい廃人同然になったんですよね。
ロダンって、有名なあの作品以外にもそんなものを創っていたのですね。
才能が絡む男女関係をそんなセクハラなんて言葉で簡単に切ってはいけないと言うことがよく分かりました。
しかしながら木蘭先生、小林先生両方とも奇しくも体の近い部位を扱った回になってしまいましたね。(笑)
「タマ」に何でも当てはめて男を評価するこの女性自身は、すごく「イケテル」のでしょうか?
根拠のない自信には満ち溢れていそうだけれど。
小林よしのりライジングのゴー宣 「竹内久美子の睾丸トンデモ説とナチスの優生思想」が面白かったです!
よしりんのツッコミ芸って、珍しいですね(笑)
◆さておくなよ!!
◆そりゃあんたの趣味でしょうとしか言いようがないのだが
◆どうでもいいが、この人わしより年下なのに、なんで挙げる俳優がこんなに古いんだ?
◆一体どっちなんだ!?
◆シンメトリーで睾丸の小さい男と、シンメトリーでなく睾丸が大きい男では、どっちがモテるんだ?
ツッコミの切れ味バツグンで、爆笑しました!
竹内久美子は完全に「ボケ」ですね(笑)
しかし、そんな自称保守のトンデモ脳や被害者意識の肥大化こそが「ナチスの優生思想」との親和性が高いと知り、ゾッとしました。
まさに「笑ってばかりもいられない」ですね。
Q&Aで福岡で食べておくべき料理についての質問があったので、福岡出身者としてオススメのお店を僭越ながら紹介させていただきます。
焼き鳥なら福岡の中心街からは離れますが、地下鉄の六本松駅近くにある「とり福」がオススメです。
軟骨つくねと鳥刺し(今はないかも)、シメの焼きラーメンは必食です。ただ、休みが多いので事前に電話するのが良いと思います。
うどんならキャナルシティ近くの「かろのうろん」のごぼう天うどんとサイドメニューとしてかしわ飯がオススメです。
一口餃子なら大名の「テムジン」か警固にある暖簾分けした「あっかん」がオススメです。
特に餃子が焼けるまでのビールのおつまみとして酢モツは必ず頼んだほうが良いかと思います。
ちなみに、酢モツを食べるときは、餃子用の酢醤油と柚子ごしょうで、餃子を食べるときは、酢モツを食べた後に残った酢醤油で食べるのがテムジン通の食べ方です。
お寿司なら、住吉神社近くの矢倉寿司が庶民的な値段で食べられておすすめです。特に松前鯖寿司は味はもちろん、コスパも高く、また一日なら日持ちするので、お土産としてもオススメです(冷蔵庫で保管するとシャリが硬くなるので常温で)。
思いつくまま書いてみましたがこんな感じです。
配信、ありがとうございます。
「ロダンには創作意欲が満ちあふれ、彼女をモデルにした大量のデッサンと、相当数の名作彫刻が掘られている。カミーユは、ロダンという創作者のミューズだったのだ」
俺はこの部分に、カミーユがすごくツラかっただろうと感じます。
カミーユがロダンの名作彫刻の作成の過程において、どれくらいカミーユが汗を流し、苦心を共にし、名作に貢献してきたのか解らないが、これを全て、「ロダンの名作」として残されては、カミーユもたまったものではないでしょう。
夫婦関係が円満で続くのであれば、ともかく…
才能というのは、個性、独自性、オリジナリティー〔独創性〕があるのだと思います。
そこへ、数多くの分野があり、分岐するものだと思います。
音楽〔分野〕ならジャズ、クラシック、ロック、テクノ〔分岐〕など。
漫画で例えるなら、ギャグ漫画を世に出して、認めてもらえる漫画が描ける作家。
これを、「女が描く様な、恋愛漫画の名作を描いてくれ」となれば、多分、不可能だと思います。
少女漫画の名作を手掛けてきた作者に、「世に出せるギャグ漫画を描いてくれ」と言うのと同じです。
音楽、芸術、漫画、芸能。
自分の才能とは、自分の独自性が一番輝くものを選ぶものだと思っています。漫画家も多分然り。
その独自性の才能が、その時代、その大勢の大衆の感性によって、認めてもらうのは本当に難しい事です。
例え、自分にとっては良い作品と捉えても、周りに認めてもらう事が出来なければ、ただの独りよがりですから。
右は文章のコピーです。その後カミーユは、音楽家ドビュッシーとつきあったりしながら、創作に乗り出す。
けど「ロダンのパクりだ」と言われて、不評となる。
ロダンのミューズ”カミーユ・クローデルと言われる位なのだから、作品としては極論で言うとロダンではなく、カミーユの作品
だったのかも知れない。もしくはロダンとカミーユの合作と言ったところかも知れません。
元々、カミーユの独自性の作品で「ロダンの作品」として世に出ているなら、カミーユが作品を手掛けても、自分の独自性から逸脱して、作品を手掛けない限り、「ロダンの作品のマネ」と言われても仕方がないのかも知れない。
愛情でロダンに裏切られ、作品はロダンの物とされ…、更に自分の作品を世に出しても、ロダンのマネと言われ、その苦痛と苦難は受け入れ難いものだと思います。
その憎しみの矛先が、ロダンに行っても仕方がなかったのかも知れません…
泉さん楽しい!寝ぼけて「あれ、超面白いけど、いま何読んでんだっけ?あ、え?ライジング?」となりました。女性を立てる時、何か男に「甘え」がでると、しょうもない、だらしない関係になるように思います。甘えない、毅然と、というのを意識しています。
今回も配信、有難うございます。「道場」、大成功でとても喜ばしい限りです。
泉美木蘭のトンデモ見聞録・第80回「芸術家と偏執性~ロダンとカミーユ編」
とても有名な話ですが、これもロダンとカミーユ・クローデルのアートが止揚した結果だったのかと思います。相乗効果であって、一方がかけても一方が成り立たず、みたいな。ただ、ロダンの方がネームヴァリューが強かったので、カミーユの方が従になってしまったのかな、と。
以前に「菊池寬」の「形」という作品のことをあげましたが、一度有名になってしまった形は、その本人にとっても足枷になってしまい、制約を与えることもあるのだろうと想像します。だから、バルザックをあらわした作品も、ただ奇妙奇天烈なものとしか思われなかったのだろうということなのでしょう。
私たちが芸術と認めているものも、ただ「形」だけにとらわれていて、どこまでが本当に理解して鑑賞できているのか、と感じられます。先日見た「スターウォーズ」で中島敦の「名人伝」という話を思い出したのですが(弟子が師匠と戦う場面など)、同じ作品に現れる「不射の射」という言葉も想記しました。ものを射落とすのに「弓」という道具にとらわれすぎているだけではいけないように、スマートフォンなどの器具も、同じ事が別の手段で可能ならば、時にはそれを忘れてかわりの手段に頼ってみるのも良いのではないか(事典を開いて調べる、筆記する、あるいはワープロを使う、ゲームならファミコンやスーファミやセガサターンやプレステのようなもので遊ぶ、などなど)と思いました。その方が人間本来の姿に回帰できて、真の芸術や芸道の姿に近づける場合もあるのではないか、というようなことを思いました。
私も「トンデモ見聞録」書籍化、応援します。最近は漫画でも何でも電子書籍にしすぎです。紙の質感や、栞や附箋を入れるのが好きな人にとっては、味気ないです。
ゴーマニズム宣言・第276回「竹内久美子の睾丸トンデモ説とナチスの優生思想」
この人は、本当に性欲が世の中のすべてだと信じ込んでいるのかな、と思いました。確かに男性的活力が世を動かしてきたとは言えると思います。しかし、男性的活力は性だけではない、と思います(先にロダンのことをあげておいて何ですが)。
先日もMAXさんとかシンキムさんという方が出没していたようですが、自分の意見を披露すること自体は責めるつもりはないです。ただし、それはおしつけではいけないと思います。他人様のことをとやかく言ってはならないのでしょうけれども、塾の講師とかをアルバイトでやったりした結果、人には覚え方や理解の仕方がさまざまなのだ、ということを身にしみて感じました。読字障害やADHDという例もあるわけです。
それと自分と他人はまったく異なる人間で、たまたま共通する部分があるだけに過ぎません。自分の夢を他者に託す、というのもよほどの信頼と親密さがなければしてはならないわけです。
その竹内さんというひとも、自分の意見を言いたければ自由に述べられれば良いでしょう。ただし、それをほかの人に取り上げられて有頂天になることこそ、油断や慢心であり、用心してかからねばならぬと思うのです。持ち上げる方に何か別の目的がありやしまいか、と。
先の話にもどしますが、カミーユ・クローデルもロダンのコピーでよいと開き直るという生き方はとれなかったのでしょうか。寡聞ですが、葛飾北斎の娘が父親を恨んだ、というような話は聞いたことがないです。
それにしても、睾丸で人を評価する、おしはかるとは、性欲の権化と笑われても仕方がない、と思います。人間の右半分の顔、左半分の顔を複写してをつなぎ合わせると、実際の顔と似ても似つかないものになる、という実験を、この人も自分の顔でやってみてはいかがか、と思います。
ライジング配信ありがとうございます。
「俺を(私を)怒らせるな!」という人は、「俺を怒らせたお前が悪い」と罪悪感を対象に植え付けて支配しようとしますが、そのような支配を受けそうになった時は、『怒るか怒らないか決めたの自分だろうが、っけ!この怒りんぼ』と思っておきましょう。
怒りっぽい自分は嫌だと思っている人は、「怒るか怒らないかは自分で決めるもの」と考えてストッパーを設けてみてください。
カミーユも「ロダンを愛すると決めたのは私、奮い立たせると決めたのは私、ロダンを成功させたのは私よ」と冷めた目で見ることができていたら精神を病むこともなかったかもしれません。
激情家には無理なのかなぁ?その激情がなければロダンの作品は生まれなかったのかなぁ?やっぱり。
堕胎させられた話は可哀想ではありますが、堕胎すると(最終的に)決めたのはカミーユで、それによってロダンの庇護に入ると決めたのもカミーユなんですよね。
髪形を変えたのも、その服を着ると決めたのも、二人きりで会うと決めたのも自分。
セクハラ被害を安易に訴えられる(訴える)ときはそのような指摘(自戒)があってもいいのかもしれません。
異性蔑視で調子に乗っちゃうのはもちろんダメです。
竹内久美子のカルトな主張。
大体のヒトは左右対称。
何のよりどころもない人が「自分はシンメトリーだから優秀だ!」と思い込むためにのみ役に立ちますね。そういう人たちを救済する宗教なんじゃないでしょうか?
「自分は日本人だから」は多くのネトウヨを救済するお題目ですね。
トッキーさん「ゴー宣道場Back Stage!」の配信ありがとうございます。
ああいう大きな会場を見ると、前日から入って、リハーサルとかしてって勝手に思い込みますが、設営隊の皆さんも当日に準備するんですね。
それなのに入退場にストレスなく、あの手際の良さは凄いです。
お疲れさまでした、ありがとうございました。
前号のライジングで条文案クレクレは削除されちゃうような人だったんですね。反応しちゃいました。
ロダンのお話はすごく興味深かった……と同時に、やっぱり、今の日本のセクハラ叩きのスタンスはおかしいと思いました。もはや、セクハラ=レイプって感じになってきているなと。
何もかも、たったひとつの価値観で裁くことはできないでしょうし、悪の正体と、それとの戦い方もケースバイケースで変わるもの。常に男性の性欲だけを血祭りにしても意味がないと。
それから、ゴー宣のシンメトリーのお話は、ただただ大爆笑しました!おもしろすぎる!コントのネタになりそう!
まあ、でも、笑ってらんないですよね。こんなバカが大真面目にメディアを闊歩しているんですから。
日本、大丈夫?
うーんカミーユはやっぱり女の名前だったのか(おっと殴らないでくれよ
ロダンもカミーユも詳しくは知らなかったけど壮絶な「ドラマ」として見てしまったり、
ロダンが居なければ彼女は彼女はマイナーの器用貧乏で終わったのかとか、子どもを生ませてやれば変わったのかなあとか、勝手な「俺ならこう撮る」を考えてしまうあたりが人の業ですね
ド外れた才能や能力を持つ者(わかり辛く絶妙な者は特に)が社会や法律、一般常識やに合わず、苦しんだり持て余したりするという例は良く知ってるので、優しく受け入れないまでも絶妙に生かして活かす仕組みが欲しい所です
この睾丸とかシンメトリーの話って正論に載ったのか、ムーじゃなく正論に…
今回の「トンデモ見聞録」を読んで再度考えましたが、人間というのは不完全で厄介な生き物なんだという事を、思い知りました。
ロダンのカミーユへの仕打ちを絶対に許せないという人も、ロダンの作品や業績を全否定するという、ナンセンスな事までは出来ないでしょう。
今朝聴いていたラジオで、ある弁護士が「日本も憲法を改正するなりして、セクハラ罪を作るべき」と話していました。定義が曖昧で、かつ人によって受けとり方がバラバラの状態で「セクハラ罪」を作っても、共謀罪より恐ろしい法律が出来るだけではないでしょうか。僕だって普通に生きていて、どんな言動がセクハラに当たるかなんて、見極めが難しいのに。
昨今のマスコミによるセクハラ批判は、人間は不完全で厄介な生き物だという認識が、完全に欠落しているように感じます。
今考えるべき事はセクハラ撲滅の方法ではなく、セクハラとの戦い方や、セクハラ被害者を救済する方法や制度設計ではないでしょうか。
今週も配信ありがとうございます。
芸術家の世界というのは凡人には到底理解できないものですね。
自分は工業職人気質にあこがれがあって芸術をとんと理解できないのですが、
作品が凄いものだということくらいは感じます。
しかし感性が優れているほど、狂気を孕んでしまうのだな、とも思います。
どうしてこうも芸術家に品行方正を求めてしまうのでしょうか。
結局は当事者同士のことで第三者には関係ないはずなのに、
どうしても内面まで知りたくなってしまうのでしょうか。
または嫉妬から「こいつはこんな奴だ!許せん!」と
なってしまうのでしょうか。
スポーツや芸能もそうですがあまり裏事情を知ってしまうとむなしくなるので
表に出ているものだけを可能な限り楽しもうと思います。
「セクハラと痴漢は同じなんだな!」と
先生を誹謗中傷するアホが既に出て来てますなあ( ^ω^ )
だったらセクハラ罪を作れば良いという話なんですが、痴漢と違って定義が出来ないから、かなり難しいと思いますがね。
まあセクハラはパワハラとセットになってますから組織構造を変えないと無理な話ですな
木蘭さん、すげえな。
今週も配信ありがとうございます!
お疲れ様です。
「トンデモ見聞録」読みました。
バルザック記念像のところで笑ってしまったのですが、
その後のカミーユ・クローデルとのエピソードを読んで、
あまりの壮絶さに堪らなくなってしまいました。
でも、どちらにも通底する、芸術、そして芸術家の「狂気」と、ただ「キレイ」なだけではない「美」というものを感じました。
今の学校教育がどうなっているのかは、子供もいないので分からないのですが、
ひと頃は「個性が大事」ということを盛んに徹底させようとしていたように思います。
しかし、人には人それぞれの「個別性」は、当たり前にあっても、
卓越した表現・芸術を生み出す「個性」(他のスポーツでも芸能でも、どの分野でもそうだと思いますが)というのは、
ごくごく限られた人しか持っていないのだ、ということを改めて思いました。
ポール・クローデルの言葉にあるように、本当に「個性」を持っている人というのは、
「個性」を持たない多くの人達のように、当たり前に普通に生きていく、ということが難しいのだろう、と思います。
「個性」など無い方が、平凡に普通に幸せに生きれるのだろうな、と思います。
勿論、現代では相対的貧困もあり、普通に平凡に生きていくことも難しくなっているところもあるのですが・・・。
そして、
カミーユの告発文が、もしネットに載せられたら・・・?
私自身は、小林先生や泉美先生のセクハラ・ヒステリーに関するブログを読む前までは、
「安倍政権は酷い」「安倍夫妻は酷い」「与党には常識を逸したネトウヨ議員だらけ」という思いに傾き過ぎて、
「新・堕落論」の「弱者のルサンチマン」の章も、読んでいたつもりで理解出来ていなかったり、
「脱正義論」での指摘も、考えから抜け落ちてしまっているところがありました。
西部邁氏が仰っていた「時代という綱を、伝統というバランス棒を持ちながら渡っていく。これが保守の構えだ」
そして、井上達夫氏が仰っている「リベラルな人間であるためには、常に自分の言動を自己批判的に吟味しなければいけない」
これは大事なことだな、と思うのですが、
実際、自分自身、そんな大層な人物でも何でもなく、いち素人に過ぎません。
この言葉を自分のものとして飲み込めるまでには、まだまだ、一生かかっても出来ないかもしれません。
たぶん、カミーユ(投稿者が分からなくても、その投稿者)の境遇に同情し、
ロダンに対して怒りをぶつけてしまっていたかもしれません。
実際、今まで、麻生財務相のキャラに対しても「こいつ全然悪びれてないなあ」「頭くるなあ」「火にガソリン注いでるよなあ」と、
つい最近まで思ってしまっていましたから・・・。もろに「弱者のルサンチマン」です。そのものです・・・。
芸術の狂気を含んだ奥深さを感じ取る感受性も、表現の幅が狭められていくようなことになってしまえば、
表現者の方だけでなく、受け手の方も、どんどん劣化していってしまうと思います。
セクハラに対して罰を与えるような法律を作ってしまえば、
共謀罪と同じく、内心の自由を縛る恐ろしいものになってしまう、ということが分かって、ゾッとしました。
しかしその一方で、セクハラを、マナーとして、モラルとして批判するバランス感覚も大事ですね。
このマナーやモラルの部分が、古い体質を引きずってしまっている、というところは、やはりあるのかなと思ってしまいます。
配信ありがとうございます。
「ロダンとカミーユ」の話は「セクハラ」などという軽い言葉では片づけられない「愛憎劇」を見るようでした。カミーユはロダンに必要とされる喜びを感じていたのではないだろうか?ロダンもまた「芸術」という分野においてカミーユを必要としていた。しかし、妊娠という「現実」を前にして齟齬が生じてしまった。その結果、必要とされる喜びを得られなくなったカミーユは心身ともに崩壊してしまったのではないだろうか?必要とされなくなった人間の「焦り」「空虚」「怒り」は、大きさの大小はあれど現在、経験している人は多いのでは?それを「セクハラ」の一言で片づけてしまうのはあまりにも短絡的で、人間というものを軽く見ているようにしか思えません…と勝手な解釈をしてすみません…。
「睾丸とシンメトリー」については、「ムーから来た男(アトランティスから来た男のパクリなんですけど)」としては、こんなゲテモノ説が「ムー」に掲載されたら私はもうムーを読みません!「それはさておく」なんて書かれたら、読む側は「何で?」って消化不良をおこしてシラケてしまいます。それはさておき(笑)、このような話が出るたびに思い出すのが、「カオロジー」とか「血液型性格診断」で嫌な思いをさせられたことです。性格や肥満は努力すれば変えられるかもしれませんが、生まれ持った形質、容姿はなかなか変えられません。この「睾丸とシンメトリー」も、人の変えられないところを攻撃するやり方に「いやらしさ」「卑劣さ」を感じます。
駄文、失礼しました。
もくりゃん師範のトンデモ見聞録を読む。
よしりん師範が巻頭を譲った理由が分かった。
右後方、台座から20歩離れたところから見た写真ってアレ何だろう?
自分にはサッパリです。
自分はあんな立派じゃねーし。
カミーユには同情するが創作ってのは全てが自己責任の世界なんじゃないかな?
ロダンの影響を受けようとも自身のオリジナリティを確立してこなかった彼女の落ち度だろう。
自分に言わせれば創作者としての堕落だ。
彼女は愛を育む暇があったら創作者としての地位を確立すべきだった。
話は変わるけど、よしりん師範の現行が紛失したとな!
見聞録を読んだ後だけにスタッフの犯した罪の重さを強く感じる。
スタッフの来月の給料は「小説幻冬」の現物支給だな。
あっ、みなぼんは例外で。
みなぼんと言えば、SPA!のゴーマニズム宣言で豆大福を前に涎を垂らしていたシーンがあって、何かハァハァしちゃいました。
可愛いよ、みなぼん。
件の「絵に描いた餅」は現在の憲法問題を見事に分かりやすく表現していると思う。
ふむ、話は変わるが、よしりん師範の作品を見て思ったのだがカミーユは普通の男と恋をすれば良かったんじゃないかな?
才能ある女性がよしりんと付き合ったら、例え後方支援があっても成功しないと思う。
中途半端な覚悟じゃ、よしりんにその気が無くても飲み込まれると思う。
それにしても睾丸とロダンの12度傾いた像、って
みんななんだかんだ言って気にせずにはいられないんだなあ。
生命の源でもあるわけですからねえ。
なんでこんなトンデモを言っている人物が持ち出されるのかと
疑問でしたが、自称保守言論界には都合が良いのですね・・・
あきれるばかりです。
早く崩壊させなければいけませんね。
遺伝子操作した優秀な人間を作ってこの世を支配。
圧倒的な才能を持っていたのに最後は精神が破綻。
あれ?ずっとはまっている某アニメの話にあったな。
今週も配信ありがとうございました。
もくれん師範の記事はさすがおもしろいです。
単行本にならないかなあ。
ネトウヨはもう相手にするのも・・・・・・。
こんな感想ですみま千円。
「もっとグ~ンとそそり立たなあかんよ~」
(σ≧▽≦)σ
ロダンてもし日本人だったら籠池のおっちゃん風関西人なんですね(笑)
見聞録、鳥肌ものでした。
いや~面白かった!
書籍化賛成!!
カミーユ、中絶させられたりとか気の毒だしロダン産ませたれやとか避妊せーよとか思うけど、
加害者とか被害者とかいう話しでは無いと思いました。
凡人には分からない世界です。
出会ってしまったんですね。
しかしセクハラとかおとなしげな内縁の妻から襲撃とか、アル中とかストーカーとかてんこ盛り!
濃い~人、激情の人。
セクハラ罪なんて無理ですよね。
パワハラを含むような悪質なケースとか、もはやセクハラじゃなくて性暴力だろうというケースもあるでしょうが、そういう事は『セクハラ』としてではなく罰する事が出来ると思うし。
Vol.269の配信、ありがとうございました!
愛なき時代にカワイイもくれん先生の『トンデモ見聞録』、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」を思い出しました。現代なら、ガガさんのアート感(存在自体がアート)にも通じるものがあると思います。
『バルザック記念像』には度肝を抜かれました(≧▽≦;!!小説家オドレ・ラ・ショウキカ、じゃなくてオノレ・ド・バルザックって人が、めっちゃ偉大(笑)なのがよく分かりました!!あ、表現規制やデオドラント化に対しては、こーゆう(それらを推進する馬鹿らしさを衆目に晒し出す)手法でも対抗できそうですね。
カミーユ・クローデルの物語は知りませんでした。『分別盛り』は、もうタイトル自体が強烈な皮肉ですが、造形も、恨み辛みや怨念が取り憑いていそうな、どこか横溝的な雰囲気ですね。
いまのヒステリックな風潮のまま突き進むと、こういう偉大な芸術家まで「セクハラ」や「被害者」や「かわいそう」といった矮小化された単純パッケージに貶めることになってしまいそうですね(´・ω・`)。
善と悪、愛情と憎悪、嫉妬心と劣等感、...あらゆる矛盾で構成される複雑な人間性が否定され、機械的単純二分観、まるで水戸黄門レベルの超単純な善悪二分観に覆われていくような脅威を感じます。
仕事がら、技術は、人を(自分自身も)癒やすこともあれば、傷つけることもある凶器だと思っているのですが、もくれん先生の記事を読んで、芸術もまた、まさに凶器であることがよく分かりました!!
今号のモクレニズム宣言、いやゴーマニズム宣言(^^;、まるでもくれん先生が憑依した、よしりん先生版『トンデモ見聞録』みたいで、いつものトン見と同様、笑いごとではないんですがウケました(≧▽≦;!!
川村二郎っていう人は、自分より若い世代にチヤホヤ介護されるのが嬉しくて仕方ないんでしょうね。辞めた会社に遠吠えする負け犬というか、超劣化版カミーユというか(比喩すら穢らわしいけど^^;)、かつて付き合い、育ててもらった女をボロカス言いふらす品性下劣な男みたいで、みっともないジジイの標本です。
WiLLやHanada,産経,などのネトウヨ界隈は、モテるモテない以前に、すでにイカレたカルト異常者だと思われてて、もう人類ヒト科としても終わってるんで、キャンタマもシンメトリーも何も関係ありません(笑)
そもそも、シンメトリー(左右対称)がイイって感覚は、こいつらネトウヨが忌み嫌う、儒教の影響じゃなかったですかね(^^;?。「左右対称は在日だ!」とかイカレた主張してなかったっけ?
いくら人間が清濁や矛盾を含む動物でも、ここまでイカレているのは、もう「矛盾」というより「破綻」ですね。こんなイカレた優生思想の差別主義者は、焼却炉にでも放り込んで構いませんヽ(`Д´#)ノ
カミーユとロダンの話でもう少し思い出したこと。高村光太郎と智恵子夫妻のことです。
智惠子も光太郎が旦那でなかったら、芸術家として名を残せたのでしょうか、それとも自分の名を冠した詩集を出して貰っただけ、幸せだったのでしょうか。
恋愛は理性ではなく感情と情動なので、自分に損得なんて考える余裕はない、と思います(それとも、損得も含めた上での恋愛もあるのでしょうか。「あげまん」とか「さげまん」とか)。
それはともかく、またかなしい事件。鬼畜。下山事件か!
性的欲求のはけ口にできる、という感情と行動原理が分かりません。「理性」です。「道徳」教育を声高に主張する人たちは、こういうことをテーマにすればよいのに。
事後処理手段も残忍。昔「タイタニック」を見て理解できなかったのは、恋人の死体を斧で無理矢理沈めた場面です。ああしないと自分も死んでしまうから、というのは分かりますが、死体を損傷することは残酷だと感じます。だから、司法解剖を好まない家族も存在するのでしょう。
それに比べれば、ロダンのバルザック像のいかに素朴で牧歌的なことか。セキガハラでの処罰を制定すべきと主張する人たちはそんなことも考えてみて欲しいです。
とりあえず、こんなところです。
茶魔のぺろぺろエピソードでは、昔の話に、「ともだちんこ」の由来が語られている話があったのを思い出しました。あと、雪だるまの話なども。御坊家親子の愛情は、第三者には推し量りきれない深いものがある、と感じました。
お忙しい中、配信有難うございます。
木蓮先生の見聞録は、いつも楽しく読ませて貰っていますが(特に絶句形のツッコミが好きです)、前回と今回については、美術史語りとしても秀逸なものを感じました。
この話は、セクハラというよりは、小林先生が度々問題視している「不倫」にたいする問い掛けではないかと思いました。
現代であれば小娘といっていい年齢で天才に巡り合い、愛し合ってしまったこれまた常人に非ざる者が陥ってしまった狂気など、凡人には理解出来るはずもないと思います。
これを私含め、小市民の通常の感覚で単純に「悪」と捉えてしまっては、小林先生の仰る通り、この先天才は生まれず、文化的損失のみ生むこととなるでしょう。権威・権力を笠に着てのセクハラなどは恥と思わなければならないと思います。が、己の才能や魅力で相手を虜にする特別な存在に非難(やっかみ)の目を向ける自分がいたとするならば、己こそがみっともない存在であると自覚し、自戒せねば。
それにしてもキンタマ云々の珍説を、大の大人が雑誌で取り上げるなど、幼稚化ここに極まれりですね。小泉政権から続く政治における議論の単純化、及び開き直りを当たり前にしてしまった風潮が、引いては社会全体を歪めているのではないかと思います。
王陽明。伝習録。
良いよ、良いよ!
配信お疲れ様です。長雨が続きますね。
今回の小林先生ともくれんさんのお話は、それだけで新書が書けるほどの論点を含んでいますね。私が気になったのは、「自立」という論点です。最近のセクハラ騒動における小林先生と世間との齟齬は、職業人である女性を自立した一人前の大人として見ているかどうかに差があると感じました。女性=弱者であれば、一人前の責任は問わないのが筋となる。だから世間の大多数は匿名での記者の告発に違和感を覚えない。女は所詮半人前よ、というわけです。都合よく、庇護されるべき弱者と一人前の大人の仮面を使い分けるのは卑怯なんじゃないの、という指摘は当然すべきでしょう。もっとも、社会的存在というのは多面性があるからそれは当たり前という指摘もあり得ますが、記者という職業を考慮するとその言い訳が立つのかな、と思いますね。
で、今回のお話ですが、カミーユ氏は父性からの自立ができなかったのですね。父殺しというと男性が槍玉に挙げられそうですが、女性が男性と対等にあろうとすれば、当然それは起る。比べたくないですが、トンデモ優性論者の竹内氏も同様ではないでしょうか。師を超えるべく努力が出来ず、安易にオカルト世界観にのめり込み、自分を肯定してくれる男たちに擦り寄る。論壇ホステスな方々も同様でしょう。対等と見られていないから誰も本気で相手にしない。歪んだ支配欲を満たそうという男たちに囲まれている内に、そこから抜け出せなくなってしまう。まあ共依存というやつなんでしょうけれど。
女性の自立が二重に難しいのは、それを阻もうとする男たちが飴と鞭で懐柔しようとしてくるからです。そしてそれを乗り越えると、同じ女が立ちはだかる。母性という武器を振りかざして。やってられないなと思いますが、しんどいのが人生なのでしょうね。
自称保守が優性論に陥るのは必然ですね。彼らの本音は、「日本人」であるだけで全肯定されるべき、ですから。無論、その「日本人」の定義というのは、非常に偏狭で排外的なそれなのは言うまでもありません。自分たちは由緒正しき人間だからあらかじめ救済されている、というのは、実は最も古い差別思想でして、まあキリスト教由来なのは言うまでもありません。
彼ら自称保守の滑稽なのは、捏造された近代日本主義というキメラを純粋純潔と信仰している点ですね。処女は尊い、みたいな、要は、西洋列強に対するコンプレックスの裏返しの権力志向、まあ現代ならこれがアメリカなんですが、そういうもののはけ口に「日本人」を振りかざしている。その急先鋒が官邸だし、ネトウヨというサポーターですね。かれらが戦前的なもののうち、特に抑圧、因習、差別が大好きなのは、宗主国の顔色を窺わなければならない属国民の歪んだ劣等感の発露でしかありません。被差別者はさらに下の被差別者を作り、自己を慰撫する。差別論でおなじみの光景が、21世紀でも繰り広げられているわけですね。
「右後方、台座から20歩離れたところから見よ」って、Uボート探している駆逐艦かよっ!(笑)
バルサック像を見ていてふと思い出したのは、縄文時代の石柱でした。現在でも日本各地にこれと似たような「モノ」をご神体として祀った神社がありますね。そう考えるとバルサックの像がなぜか神々しく見えます。
訂正:バルサック➡バルザック すみません。
いつも愉しく拝見しています。次回特別版の道場では中島岳志さんが来ますね。今から楽しみです。さて、中島さんと言えば、ちょっと前になりますが、大相撲の問題で保守の立場から貴乃花の急進的な改革路線を批判していました。一方、よしりん先生は伝統を守る保守の立場から貴乃花を擁護されていたと記憶しています。この辺り同じ保守という立場であっても結論が違って面白いのですが、この貴乃花に関する見解についても道場で話し合ってもらいたいなぁと勝手ながら思っています。
あとゴー宣のブログに検索機能ってついていますか。今回よしりん先生が過去に書かれた貴乃花の記事をもう一度読み直そうと思ったのですが、見つけることができなくて、そういう機能があれば嬉しいなぁと思った次第です。ホームページがリニューアルされるときにこの点も考慮していたどけると嬉しいです
よしりん企画も秋風羽織の仕事場みたいに華麗なのかな~~??☆☆☆
少女漫画家って、特にあの頃はオシャレなイメージだったよね。『アンコールが3回』の世界には憧れてた。
よしりん先生もオシャレ系少女漫画を読むのかしら。。
関係ないけど、最近の漫画家の絵って線が繊細でゴチャゴチャして読みにくい。
ロダンとカミーユとの関係みたいになったら、それはもうドロドロの愛憎劇。
でも、そのことでロダンとカミーユが生み出した芸術までは誰も裁けない、というか、
狂気と隣り合わせの才気を抱える二人が出会ってしまったことから、愛憎も芸術も生まれたのだろうなと・・・。
いち平凡人に過ぎない自分ですが、考えたりしました。
しかし、セクハラをマナーや倫理の問題として以上に、糾弾し尽くすような狂熱が席巻してしまうような現代の日本では、
ここまでの修羅場が修羅場を呼ぶような愛憎劇とは程遠いような、
グラデーションで言えば浅い色の事でも、物凄い破廉恥な人道に悖る所業のように謗られてしまうのでしょうね。
SPA!ようやく買いました。
ライジングの方のゴー宣の感想と共に、後程感想書きます。
風邪早く治さんと(汗)。
SPA!「ゴーマニズム宣言」
「立憲的改憲という選択肢がある」を読みました。
私は、ゴー宣を読むこと、ライジングを読むこと、
道場の公開討議にネット視聴で参加させて戴いたり、
実際に会場に足を運んで討議を見ること、アンケートを書いたりすることで考えることで、
最近、ようやく憲法のことを少し考えるようになってきた者ですが、
それでも、憲法の文章で目にしたことがある文章は、まだまだ全然少ないです。
こういう不勉強な自分のような者でも、
ゴー宣を読むことで知ることもたくさんあって、
漫画好き、ゴー宣ファンで良かったと思うところです。
ニュースなどで報道が集中して、それに呼応する声が過熱していくと、
ついつい、分かりやすい右の声とか左の声とか、大きな声に釣られそうになることもあるのですが、
結局は、米国に依存してしまっているという現実を見つめるところから始めないと、
「絵に描いた餅」は、いつまで経っても「絵に描いた餅」でしかない、ということを改めて思いました。
物凄く難しく考えてしまいがちなテーマでもありましたが、
豆大福と絡めて描いた漫画というのは、ゴー宣だけだと思います。
憲法のことを考えながら、お腹が空いてくる漫画って初めてです。
「憲法は憲法学者だけのものではない!」ということを、
エンターテインメントにしている唯一無二の作品だと思います。
改憲派、護憲派、いや、そもそも憲法興味ないよー、っていう人にも読んで貰いたい章ですね。
現政権のどこがダメなのか、何故「憲法」で「縛らないと」いけないのか、が、
読めばよく分かる章だと思いました。
次章の展開も今から楽しみです。
ちょっ!?木蘭先生ブログのレベルの内容じゃないですよーー!
MOTTAINAI
童貞です。
朝日のセクハラ?記事についてですが、やはり手を握るという同意のない身体的接触が恐怖と不快感を呼んだのではないでしょうか。
童貞です。
よしりん先生のブログ
『朝日新聞の投稿欄にモテ話がセクハラ話に』
拝見しました!
この件は私の周囲の女性も
セクハラバッシングブームとは全然違う反応をしています。
私が「山口メンバーの落ち度は相手が未成年だった事」
と言うと女性の意見の方が厳しく
「もう女子高生なら分かるでしょう。
夜中に酔った男の家に行く時点でOKだって言ってるのと同じ。
行く方がどうかしてる」とバッサリ。
複数の女性がそんな反応なんですよね。
ブームと周囲の女性の乖離に戸惑うばかりです。
自分が受けた言葉のセクハラは
ブスだのデブだのチビだのガリだのかわいくないだのモテないだの誰も結婚したくないだのが過半なんで、例え褒め言葉をいただいても、おせち言ってんじゃねーよって態度に出てたかもしれないし、そんなもんてめえの主観だろうが、って思うことにしてました。
言われるうちが華だと言うなら朽ち果てた枯れ木で結構と考えていたときもありました。
大体歳上かイキったヤンキーに言われたけど、今の10代20代はどんなコミュニケーション方法でオフィシャルやプライベートの会話なんか気にはなります。
補足。
言う方もコミュ障だけど、当時の私はいつか背中でも刺されそう、若しくは殺しそうな雰囲気だったらしいんで、そういうヤカラを呼んでた面もあったのだろうとういう反省もあるようナナナ。
穏やかにと心掛けてもつい地がみえるときもありますな。人間多面体だもの。
お邪魔致します。
木蘭師範のブログ「人間ってあさましい」読みました。
ドアノーは「野暮」な事を口にするのが嫌だったのでしょうね。
あぁ、それなのに・・・
笹師範のMMKエピソード。
笹師範もこれらを「セクハラ」で訴える「野暮」な狭量さは持ち合わせておられない「大人」
「野暮」と言う言葉は死語になって欲しくないですね。
「3人以上発言」は、男系カルト信者カミングアウトだと思います。
もう少しお邪魔します。
人間ってあさましい
写真は必ずしも真実をうつしとるものではなく、カメラマンの視点がはいっている時点で小説や絵画などと同じ創作品になるのだから、それが実際の出来事であるとかないとか穿鑿する方が野暮だと思いました。高木彬光氏のミステリーに、自分でかいた小説を最後に焼いてしまうという話があるのですが、そうしたことも時にはありでよいとも思います。
真実を知ることは時には残酷であることを覚悟しないといけない、とも。
なんでもかんでもセクハラでいいのか?
「三年B組金八先生」の「十五歳の母」を、その国会議員に見せてあげたいと思いました。子供の居ない家庭に、ただで試験官ベイビーでも作らせる法案でも提出すれば良いのに。これも人間のあさましさだと思います。
あくまで「もしも」の話ですが
本当にアナクロ親父的発言だったのか? 国民として人間としての「事実の確認」と「願い」としての言葉だったのではないか?
「必ず」という言葉も強調語としての意味だったのかもしれない(言葉の使い方選び方は人によって異なるので)
もしそういった部分でお互いがお互いを誤解し合っているだけなら、それは人間に起こる最も巨大な悲劇です
言葉の意味を誤解なく理解しあえる機械でもあればいいのに
monmonさん
NHKアーカイブで確認したところ、歌詞が間違ってました(;^ω^)
なんか変だなとは思ったのですが・・・一番と二番が混ざっていました。
番組名は忘れてました。
今週も配信有難うございます。
今回も楽しく拝読しまして、面白可笑しくコメントできそうなのですが(“常識破り”と“非常識”みたいな)、
その前に、不躾ながらこの場をお借りして、先日の拡大版「ゴー宣道場 」について是非ともご報告申し上げたいことが(長くなって恐縮ですが)。
日常会話の中で、憲法の話をするのはなかなか難しく(私の会話力の問題?)、
強引に持っていこうとしても、今一つ反応がよろしくない┐(- -;)┌(私の周囲の話ですが…)。
で、先日の道場で、自分が血気盛んな十代の頃、自衛官になると言っていたことをふと思い出しまして、
それを話すきっかけにして、何故今憲法を改正する必要があるのか?
このまま変えないとどういう弊害があって、今後どういう問題が起こりうるのか?
先日の拡大版「ゴー宣道場 」や『ゴー宣〈憲法〉道場』で学んだことを話し、
そしてそれは安倍改憲では、何も解決されないということ、
それどころか余計に解決しにくくなってしまうということ、
そして護憲派も改憲派も思考停止しているその9条2項の問題に、
真っ正直から向き合って解決しようとしているのが、立憲民主党の山尾議員が提唱する「立憲的改憲」であり、
そしてついに枝野代表もそれを是認することを明言したことを話したら、
これまで「安倍政権のようなならず者も、立憲的改憲なら、、、」といくら説明しても、
「安倍の話は止めろ!ムカつく!」「憲法の話されても分からんよ。自分の仕事の方が大事じゃい!」なんて、
とりつく島もなかった人でしたが(´Д`)・・・やっと話が通じました!やっと手応えありでした!Σ〇=(°▽°)q
(そんなレベルかよと言われるかもですが…)。
こうなると俄然面白くなってきまして、更なるヒットパターンを探り当てるべく、
もっともっと学ばせて頂きたいと、一層意欲が湧いてくるというものですρ(^^)q。
まだまだ自分の未熟さを痛感していますものでしてf(^^;)。
辛くもゲットした茶魔サブレでアピール・・・ターゲット次第なら・・・?なんて(早くかじりたいですが(´Q`))。
以上、拡大版「ゴー宣道場」の成果のご報告でした。 やって下さって良かった!参加して良かった!(^^)
護憲派の集会で、有象無象、烏合の衆でも6万人も集まる今のこの情勢、
確かに政治的タイミングが難しいのは分かります。
憲法違反、権力の暴走を繰り返している人間が「改憲」を唱えれば、
「改憲」という言葉自体に疑心暗鬼になって警戒してしまうのも自然な流れか…。
ならば少しでも立憲的改憲をやり易くして差し上げるためにも、
立憲的改憲に食らいつかせるための爆釣メソッドをもっと講じねば…なんて。
それに、枝野代表は責任を果たしましたが、あの時あの場で仰ったことを、
今後立憲民主党はしっかり責任を果たすかどうか、
それもシビアに見ていかなければいけませんし<(°"°)>。
「出張版」及び「九州道場」も是非とも注目・期待・応援・勉強させて頂きたく存じ上げます!(ナマ参加できる余裕は今ありませんが…)
笹さんのなんでもかんでもセクハラ〜のブログの議員、セクハラ以上に人として駄目かな、と。
もう少し言い方があるでしょうね、ツマラナイ祝辞で良いんですよ、四角四面な祝辞でね、お祝いの席とか関係無く揚げ足を取られるツマラナイ世の中なんですから、ツマラナイくらいに発言には気を付けないと、世の中ツマラナイんだから。
竹内久美子?さんに限らず、トンデモ説を唱える輩はキチガイだと、今号のゴー宣を拝読して痛感、こう言う輩も言わばカルトですね、カルトには何を言っても無駄ですね。
木蘭さんのロダンとカミーユの話は、ごめんなさい、馬鹿な私には置き換える事が出来ないから知ったかぶりしたくないので解らないと言う感想になっちゃいます、馬鹿でごめんなさい。
泉美木蘭のトンデモ見聞録
「芸術家と偏執性~ロダンとカミーユ編」
拝見しました!
芸術にはまったく知識も教養もないのですが、
よく美術館には行きます。
吉川英治好きから派生しての趣味なんですが、
展示された絵画についての音声ガイドを聴くのが大好きなんです。
贅沢で知的好奇心が満たされる時間です。
今回の文章でそんな気分を堪能できました。
また同時に浮き彫りにされる問題も。
現代の感覚、セクハラバッシングもその端的な例ですが、
人間の業を無理やり単純化して消し去ろうとする狂気を感じます。
才能ある者も画一的な型に流し込んで安心を得るみたいな?
こういったSNS紅衛兵や紅衛兵化するメディアを
どうしたらただせるのか?
相手が幼稚なだけに目眩がしてしまいます。
ちょうど時を同じくして朝ドラで言ってました。
『ここは描くものが全てだ。
作ったものが全てだ。
その人がどんな人であるかは関係ない。』
SPA!ゴー宣「立憲的改憲という選択肢がある」を読みました。
ゴー宣の中に、ふぁんたんさんが登場したことに感激しました!!
そしてふぁんたんさんの差し入れの豆大福から、今の憲法は「絵に描いた餅」と、話が展開していくのが面白かったです。
「権力を縛る道具が憲法である!」
これが立憲主義の要諦だと理解ができました。
5月3日のゴー宣道場で小林よしのり先生は「草の根からの憲法論議が大切」というお話をされていましたが、その意味がようやく理解できた感覚です。
つまり、「国民が理想とする国家をつくるために権力をどう縛るかを考える」ことこそが、憲法を「絵に描いた餅」ではなくホンモノにする必要不可欠なプロセスということなんですね!
憲法を「絵に描いた餅」にしている改憲派や護憲派の根底にあるのは『ニヒリズム』。
ニヒリズムの下では理想は生まれない!
まずは理想の国を頭に描こう!
その頭の中で描いた絵を、ホンモノにするための道具が、憲法なんだ!!
だんだんと立憲主義の本質に追いつけてきた気持ちです♪
豆大福さん、ありがとう(笑)
子供を持つ事自体がサブカルチャー化している気がする。
>>74
子供を三人産み育てるということが、今の時代どれだけ苦しいか解っていますか?高校辺りから子供にかかる費用は一気に跳ね上がるのですよ。それが三人ともなれば、月50万でもキツイというのに。
そもそも、子供を三人産むことだけでも女性にとっては難儀なことです。結婚すら難しい現在の日本人にとって出来ないことと思われています。そこら辺のオッサンなら兎も角、国民の意見をすくい上げるべき存在の国会議員が、国民の出来ないことを発言するとか、批判されて当然でしょう。
「子供を三人」と発言した国会議員は、自分が父親として生きてきた状況だけの、非常に狭い価値観しか持っていない。言うなれば「世間ズレ」を起こしているのです。それを疑問視しない貴方も同類です。
配信ありがとうございます。
「もっとグ~ンとそそり立たなあかんよ~」
籠池のおっちゃん笑。面白かった!
セクハラにまつわる、よしりんの意見には賛成出来るものもあれば、
どうしても違和感が拭えないものもあります。
特に、違和感があるのは、「太田房江参院議員は『受け取る人がセクハラだと思ったら
セクハラ。それも知らないなんて』と言っている。こんな無茶苦茶な判断基準が許されるのか?」、
「たかが『セクハラ発言』(触られてもいない)で、それほど傷つくという言い分も承服できない。」という部分です。
私も、矢野康治氏の感覚は「常識」だと思いますし、たかが「セクハラ発言」でそこまで傷つくのかと疑問に思っていました。
しかし、以前、「言葉」でのセクハラ(第三者から見れば、単なる「冗談」のレベル)を訴える女性から相談を受けた際、その女性が泣きながら、どれだけ自分が傷ついているのか主張するのを聞いて、少し考えが変わりました。
世の中には、このようは「発言」で本当にショックを受け、会社に行けなくなってしまうほどナイーブな人もいることを知って、こういう人に大人になってから、「その程度のこと、気にしなくてもいいのでは」とか言っても仕方がないのではないかと思うようになってしまいました。
その女性は結局、会社を辞めたので、自身のナイーブさが自身の不利益につながっていると思います(他の人であれば、許容できることが、許容出来なかった。)。
福田事務次官のセクハラを訴えたジャーナリストも、今後、ジャーナリストとしての仕事は難しいと思いますので、自身のナイーブさでそれなりのペナルティを受けることになると思います。
一般的な基準からみて極端にナイーブな人も存在する以上、当事者を基準にした「セクハラ」の訴えは認めざるを得ないのではないでしょうか。「セクハラ」を「常識」で判断した場合、結局は「常識」によって少数者を抑圧することになると思います。
問題なのは、何が「セクハラ」に該当するのかの基準が曖昧であることではなく、「常識」的にみて「軽微なセクハラ」も、重大な問題として扱われてしまうことだと思います。
「セクハラ」の認定は、当事者の認識を基準にした上で、セクハラが「重大」か「軽微」かは「常識」に従って判断し、セクハラに対するペナルティの軽重も、「常識」に従って決定されるべきだと思います(軽微なものは口頭で注意して、被害を訴える人には、「セクハラ」と主張することは言わないようにする等)。
九州設営隊長です。
平成30年6月10日、ついに九州ゴー宣道場が開催されます!
憲法なんて、変えても変えなくても一緒…。という声があります。
しかし、それを今決めつけてしまってもいいのか?
勿論、「変わる」可能性は少ないかも知れません。そして、僕にもニヒリズムはあります。しかし、「全く変わらない」と思うほど世の中を舐めてもいません。
だから、僕なら可能性は低くても変わる方に賭けたい!もしかしたら、こここそが「歴史の転換点」かもしれない。僕らはその目撃者になるんです!そして、変わらなかったとしても僕らにリスクはない。
だったら、賭けましょうよ!民権闘士の一人になりましょうよ!そっちの方が絶対面白いって!!
道場応募締め切りは5月30日、設営隊も募集中ですよ。待ってます。
それと、九州設営隊のチャンネルも放映中です。正直、見られるのは恥ずかしいけど(///∇///)
見てね~♪
https://www.youtube.com/watch?v=DCjxnducnd8&list=PLWOOmgQXPZkwgr7tHa_0riXywg_XFZQZm
SAPIO、見ました。
中江兆民と芸者のエピソードや頭山満と借金取りのエピソードは衝撃でしたが、偽物の権威に対抗する姿勢はよしりん先生と通ずるものがあります。
僭越ながら私もそのような態度をとるのが昔からの性分ですので興味深く拝見しました。
SPA!もようやく読みました。
立憲的改憲の意義が分かりやすく書かれていました。
豆大福は半分、青いでも登場していましたね。
半分、青いも見ています。
原田知世なんかもそうですが、井川遥も良い味出しています。
不倫叩きブームが終わったから、次はセクハラ叩きブームって感じなんですかね。
さて、その次は一体何が流行るんだろう。
昔、幼女連続殺人事件のあおりを受けて「オタク叩き」がブームになって、うかつにアニメ関係の話をすると弾圧(?)されたことがありましたね。たとえば大和証券(だいわしょうけん)を大和証券(やまとしょうけん)と読み間違えただけで「ちょっとあんた、ヤマトって、アンタおたく?」という具合に(笑)。
昨晩の「世にも奇妙な物語」・不倫警察じゃないけど、こんな叩きブームが続くとそのうち人とのコミュニケーションが取れなくなり(それこそ当たり障りのない話すらできなくなり)、人が住むには窮屈な世の中になってしまうのではないだろうか?何事もやりすぎ、行き過ぎは問題ですね。
『麻生氏のような昭和の爺さんのしゃべりっぷりは
貴重だとわしは思っている。
「多様な価値観を認める社会」と言いながら、昭和初期的
価値観を今すぐなくせとは言うもんじゃない。
麻生太郎、頑張れと、むしろわしは言いたい。』
・・・う~~む。今までの経緯もありつつですが、
また一歩、麻生氏擁護に踏み込んだ感じがありますね、よしりん先生。
あるんですよねー、この「麻生太郎問題」が。
麻生太郎氏の喋り方は、「昭和の爺さんのしゃべりっぷり」なのか?
麻生太郎氏の言動振る舞いは、「昭和初期的価値観」なのか?
同世代だから、よしりん先生には感じるものがあるのか?
『大東亜論』で昔の志士のめちゃくちゃさを研究しているよしりん先生だ
から、麻生太郎の言動など、かわいく見えるのか?
(麻生氏はマンガ好きでいち早く『戦争論』も褒めてくれた人だし、
元々は加計学園とかに批判的だったし、今や大派閥の長だし、
よしりん先生の戦略も多少あるのか?)
麻生太郎氏に関しても、様々な側面があって、いろんなフェーズでの
彼の言動に批判があって、もはや一個一個分析して見られる人は
いないんじゃないかと思います。
安倍晋三の悪事、財務省の悪事、それから記者クラブの問題、
マスコミの報道の仕方、これらが麻生太郎にごちゃごちゃに絡んでいる。
まず、文書改ざんがあって、佐川が認めた。
これで麻生太郎は大臣を辞職すべきだったのか?
安倍夫妻の問題であって、麻生氏は関係ないのか?
野党が麻生氏辞任を求めて審議拒否をしていたのは正しかったのか?
審議に戻ったのは正しいのか?
囲み会見で、朝日新聞やNHKの記者を敵のようにあしらってるのは
自称保守カルトに嵌っているように見えます。
「どうせ書いてないから新聞は読まない」というのも同じく。
記者たちに、テレビに映らない所で、
ちゃんと情や礼儀をかけているんでしょうか?
朝日やNHKや東京新聞の記者にも?
福田元事務次官のセクハラ事件の件は、
まだ自分も整理できてないので、今度の生放送を待ちたいと思いますが、
あれを麻生氏に責任取って辞職を求めるのは、どうなのか?
そもそも「任命責任」とは?任命責任をとって、辞職すべきなのか?
その、程度の問題が、昨今非常に難しく、曖昧になっている感覚。
元々麻生氏は首相だった時も、もろもろの問題があって、
人気が無くなって辞めたはず。(もろもろの問題の記憶はあまりない)
麻生太郎氏のどこまでが正しく、どこまでが許容すべきで、
どこが悪いのか・悪かったのか?どのように批評・批判すべきか?
またバランス感覚が必要な事態になっている。
保守の感覚とは?
これもまた、生放送やライジングで言語化してくだされば幸いです。
いろいろ入り組んでいることを、スパッと「こうだ!」と言ってしまえれば楽なのですが、そうもいかないのが現実というものです。右の人達があまりに愚かでどうしょうもないからと、それを指弾する左の人達もまた、同じくらい偏狭になっていく。というより最初から双方根っこは同じだと思いますが、こういうバランス感覚のなさが、この国のどうしょうもなさなんですよね。
戦後何十年もこの国を覆ってきたサヨク的な世論が正しいわけなんかないし、今更その反動で出てきた似非保守が正しいわけもない。問題の根のひとつは憲法に凝縮されていますから、これを何とかすることでようやく一歩進める、といったところでしょうか。
物事にとって「いい塩梅」というものがどうかというのは、その都度試行錯誤するしかありません。ほんらい、料理を作るのに最初から決まったレシピがあるはずはなく、塩加減は味見しながら試すしかない。塩を一瓶全部ぶちこもうという人がいたら止めますが、代わりに砂糖を一瓶ぶち込もうとする人がいたら、これも止める。料理は全体のバランスですからね。それを都度味見をすればいいのに、よほど自信があるのか、シェフの気分で皿を出してくる輩が多い。だれかれの放言などというものは、舌がおかしい人か、出されたものは黙って食えという頑固親爺かどちらかなんでしょう。実は後者にも一理はあって、それは、どんなに人が頑張ろうと、全く齟齬のない社会なんて実現しえないし、不満の種はどこにでもあるということだったりします。ただ、それは余程人が出来た人物が言わない限り、世の中に受け入れられることではありません。真理は万人に開かれていると思いますが、それを言う資格は万人にはない、大衆が大好きな「お前が言うな」というセリフはこれを端的に表していますね。
無論、恥を忍んであえて言う、という作法も存在します。そこには慎みというものがありますから、自然に受け入れられることも多い。慎むという字自体が慎重の慎なのは推してしるべし、と言ったところでしょうか。本当のことはきっと、大声でどなり散らすよりも、耳元でそっと、小声で囁くほうが効きます。睦言じゃないですが。じゅてーむ。
「ゴー宣」(ライジング)感想です。
「自称」保守も欺瞞に満ちた存在である訳ですが、「自称」リベラルも欺瞞だらけの存在だと改めて考える現在です。
どちらもひたすら「保身」で、ひたすら「私」・・・。
欺瞞に満ちた存在である訳ですが、本当に批判する為には、自分にも刃を向けつつ批判する構えが要ります。
しかし「現在の自分自身」に「下駄を履かせる」為に(保身と、その為の他者へのディスりの為に)、
ありとあらゆる詭弁を弄する様を、客観的に分析されることは、
これほど恥ずかしいことはないのですが、
竹内久美子のキャンタマ論で、それが行きつくところまで来ちゃったのかな、という感じもしてしまいます。
小林先生の、竹内久美子の論(?)へのツッコミで、読んでいて思わず声出して笑ってしまいます。
「さておくなよ!」とか「この人わしより若いのに、なんで挙げる俳優がこんなに古いんだ?」とか。
しかし「学者」になれなかった竹内久美子の「被害者意識」や、
それに呼応してしまった川村二郎の、孤独な老人としての寂しさ、
コトがそれだけだったら、
同じような境遇にあっても、そうなっていない人も多数いる中での、
バランスを欠いている竹内氏や川村氏のような人物の問題、ということになりますが、
そんな「無自覚」の中に、ナチスの優性思想に繋がってしまう落とし穴がある、ということが恐ろしい考察でした。
私は、所謂左派の人達が、安倍首相をヒトラーに準えたり、安倍内閣をナチスに準えたり、
或いは戦前の日本に準えたりする批判がイマイチ、ピンと来なくて、
流石にそれは違うだろう・・・と思っていたクチですが、
現在のマスコミ・野党・左派に見られる「セクハラ・ヒステリー」が全体主義化していくことや、
自称保守が持ち上げるトンデモ説の中に、かつての歴史に刻まれた悪夢へ繋がる落とし穴へと繋がるモノがある、ということを、
保守を自称する者、リベラルを自称する者、
或いはそういう大層な思想は持っていないよ、俺は普通だよ、と思っている多くの人にも、
どこかにそういう落とし穴が近くにあるのかもしれない、
そこに陥らない為には、バランス感覚が本当に大事だな、と改めて考える次第です。
セクハラ・男女差別の件に関しては、
小林先生や笹先生の無料ブログの方も読んで、
細かく考えていくことの大切さを改めて噛みしめております。
上記のライスバーガーさんの書き込みも、近い事を考えておりました。
ただ、生放送やライジングで「言語化」して、それが即ち「答え」ではないのかな、とも思っております。
世間が狂熱に陥り易くなっている時に、考えることで、自分を客観視するきっかけになるのかなと。
うまく言えませんが。
こんばんは、ライジング配信ありがとうございますvv
ロダンの妻・ローズさんとカミーユは、「大東亜論」の前原一誠氏の妻・綾子さんと妾・お秀ちゃんのような関係になることはできませんでした。
もしローズさんが綾子さんのように「カミーユはロダンの芸術に必要な人」とカミーユを自分の同志として受け入れ、カミーユが「妻の座はいらない。ロダンのミューズでいられるだけでいい」と思えて共にロダンを支え合う関係になることができたら、カミーユはあのような末路を辿らずに済んだかもしれません。
似たような話としては、北畠八穂という女性作家と、深田久弥という男性作家の元夫婦の話があります。
北畠八穂は標準語で文書を書くことができなかったことと脊椎カリエスという病気で寝たきりであったことから、夫の深田久弥に作品を提供していました。それによって深田久弥は新人作家として注目を浴びることが出来ましたが、深田久弥は初恋の女性と密会を繰り返し子供まで生まれていたことが判明。それが原因で離婚しそれと同時に代作の件を世間に公表。以降は自らの名で作品を発表し数々の賞を受賞されました。翻訳家の白柳美彦氏と事実上の夫婦として生涯を過ごされました。
深田久弥はこの件で作家としての信用を失い、「日本百名山」で再び脚光を浴びるまで10年以上にわたり雌伏生活を余儀なくされています。
この件は完全に深田久弥の自業自得です。
年金について思うことです。
65歳で4本仕事をしているから、年金は必要ない、というよしりん先生の呟きですが、
そんなことはないです。貰う権利のあるものはしっかり貰っておくべきです。
問題はそれをどう使うか、だと思います。
年金の査定もかなり厳しいもので、
例えば私のよく知っている人は「年金」を貰う権利があるにもかかわらず、
ずっと大昔の医療機関が一部不明という理由で、却下されています。その疾病と、現状は無関係だと言っても通りませんでした。
してはならないことですが、その人は現在かよっているお医者さんがよけいなことを報告しなければ、と逆恨みしたそうですが、やはり逆恨みでしかないんですよね。役所の手続きにおいて、不正とみなされることは、してはいけないのでしょう。
安倍首相は、どのような心づもりで、森友や加計の優遇をし、罪状の糊塗をしているのでしょうか。
確かに今の政府の財政事情からすると、年金支給は無理だ、と以前つとめていた塾の先生が述べられていましたが、
それでも貰う権利があるのに、拒絶するのは、貰えない人にとってよくないと思います。
本当は、みんなが貰えないといけないものなのですが。年金は。
どうして省庁は、予算であまったお金を預金して、今後に備えるということができないのか、なんてことも思ってみました。カジノやパブやはこものなんかで浪費するよりも、よほど公に役立つと思います。
今回のテーマに関係ないですが、仁木悦子という作家がいました。くりんぐさんの北畠八穂さんの文章を読んでいたら、思い出しました。この人も車椅子生活で作品を発表していたのですが、旦那さんも脳性麻痺だったそうで。
障害をかかえられた作家といえば三浦綾子さんもそうですが、やはり配偶者や家族や周囲の理解は大切だな、なんてことを思ったりしました。
芸術は一人で作っているようでいて、一人では完成しないものなのだ、と言えるのではないでしょうか。
下らない駄文を記しました。
FRIデーの『バカ夫人、誘拐殺人犯との記念写真』を読みました。
余りの愚かさにゾッとした。
でも、お似合いとも思った。
ところでテレビのCMで『君の膵臓が食べたい』がアニメ映画になると出ていた。
何故、膵臓が食べたいのだろう。
◯宮じゃ駄目なんだろうか?
これは泣かす映画なのだろうが俺は見ないぞ!
地震で住む家を無くして泣いているオバちゃんの方がよっぽど可哀想に決まっているからな。
配信ありがとうございます。
竹内久美子といえばトンデモぶりが嘲弄の的になっていますが、私も一冊持っていた覚えがあります。『そんなバカな』という内容だったので手放しました……、と言いたいところですが、ちゃんと読めませんでした。
こりゃ日高氏にとっては「不肖の弟子」だったかもしれませんな。
九州ゴー宣道場、とりあえず段階的に手続きを進めています。宿の予約を済ませました(そこからか!)。
水曜日の生放送楽しみです!
よしりん先生が危惧されていたようにセクハラ糾弾が全体主義になっているようですね。
笹さんのMMK話しには及びませんが、私にもほんの数えるくらいにはありました。
私もそういう事全てセクハラとはとらえてないです。
ハリウッドから始まった#Mee Too運動(?)ですが、最初日本では全く盛り上がらず、
盛り上がったと思ったらなんだかおかしな方向に行ってしまっているという・・・
悪質なセクハラは無くしたいけど、なんでもかんでもセクハラ認定してしまったら
窮屈になってしまうよ~( ;∀;)
セクハラの全体主義広まってきていますね。
20年前くらいに特命リサーチ200Xという番組が日本テレビ系で放送されていて、何かの回(セクハラという言葉ではなかったと思いますが)で福島瑞穂弁護士(!)が
「女性を食事に誘ってはいけません」
「『髪切りましたね』と言ってはいけません」
等話していて、当時20代の私は
「嫌な人もいるけど、ご飯行きたかったり、髪切ったって言われたい人もいるのでは?」
と強烈な異和感を覚えたことを記憶しています。
そのままの異和感を今のセクハラ糾弾全体主義にも感じていて、
ブ男が発言したら(私はこちらの集団に入る)セクハラになってしまうのなら
もう言えなくなってしまいますね。
そして、私は合気道やってますが、年齢男女関係なく組んで稽古するので、
男女組んだらセクハラと言われてしまったら、稽古が成り立たなくなってしまいます。
(幸い道場でそのようなことを言う女性はいませんが)
この異和感。続くのでしょうか。加速するのでしょうか。
なんか、怖いですね。
>>96
独自考察もありますが…
人型なのは
→人型作業用ロボットを転用したのが思いのほか効果があった→相手側も真似する→対抗して開発量産する
→機械技術から基地の扉のサイズから人材の育成から運用方法まで人型前提の流れができて「今更止められない」という状態になるから
手に持たすのは
→人間と同じ扱い方ができる方が分かり易く効率的だから。本体に埋め込むと使わない時は邪魔になるし整備も面倒
指令室が若手なのは
→ベテランが戦死した状態でほったらかしにされた作品の場合はそれ。ほとんどの作品はベテラン(または元若手)がやってる
なぜそうなるのか、それが成り立つ理屈は何か、を考えるのも物の楽しみですよね(ゴー宣読者の思想にも近いと思う
麻生太郎の「セクハラ罪は無い」という発言を、よしりん先生が肯定してから、読者の中にも「麻生の擁護をするつもりか」と問い詰める人が増えてきたようです。
そういう人達は、よしりん先生の発言をキチンと聞いているのでしょうか。先生は「権力と公がズレた時に批判する」と過去に発言しています。
まずブログにもありましたが、法の観点からして、セクハラ罪というのが存在しない、第一セクハラ自体、当人と相手との関係性で判断されてしまうものです。そして公の観点からして、そんな判断のあやふやなモノを犯罪だと(しかも女性本位で)決まってしまえば、暴走するのは明らかで、危険視するのが当然です。共謀罪を批判して、セクハラ罪はある、というのはあまりにも間違っていると思います。
無闇矢鱈と権力を叩けば良い訳がありません。というよりむしろ、麻生太郎憎しで物申しているのではないのかな、と思ってしまいます。
そんな人達が憲法で権力を縛ろうとか、世迷言も程々にして欲しいものです。
ガンダムの話に反応する人がいるとは思わなかった。
そうか、元は作業用ロボットと考えれば合点が行く。例えば敵の宇宙船に閉じ込められている邦人を救出するには現場が宇宙という事から機械の手作業による攻略も必要か。
腕に弾丸が仕込まれていては精密作業は無理だし火気厳禁の場所では制限がある。
納得した。
ところで、よしりん師範が朝日新聞の編集委員・高橋純子を批判していた。
可哀想なくらい反論の余地がない完璧な内容で、反論も無視も許されない。
泣いて謝るしかないぞ?
64歳にして才能が衰えるどころか進化し続けるシンメトリーに違いないよしりん先生!
(あの部分もシンメトリー?
キャッ(///∇///)セクハラかしら?)
不倫警察、面白かったです。
『世間』はあのドラマを見てどんなふうに思ったのでしょうね~。
門弟さんがCGを!素敵っす!
倉科カナのに出てた子役は、半分青いの律の子供時代の子でしたね。
可愛いな~(ノ≧▽≦)ノ
7月に吉岡里帆が主演のドラマが始まりますよ♪
フジテレビでマンガ原作とのことです。
【世にも奇妙な物語】の「不倫警察」を見ました!面白かったです♪♪
「行き過ぎた潔癖主義」が「世間」となり、ディストピアを創るというカウンターギャグですね。
『もしも「純粋まっすぐ君」が「世間」になると、うすら寒い世界になる』と疑似体験をしました。
個人的には、最後のシーンが痛快でした o(^o^)o
・・・いや、門弟さんへのゴマスリじゃなくて、本当に良かったです☆ 感動!!
「不倫警察」はコマーシャルでチラッと見ただけですが、そのとき、ふと筒井康隆の「最後の喫煙者」を思い出しました。そういえば、あれも「世にも奇妙な物語」でドラマ化されてましたね。
配信ありがとうございます^^
はじめに、カミーユと見たときに、Zガ○ダムを思い浮かべてしまった、不真面目な読者で申し訳ありません^^;
確かに、ロダンは、知っているけど「考える人」以外の作品は知りませんし、そもそも、いつの時代の人かも知りませんでした(それでも、誰しも一度は、「考える人」のポーズは真似たことがあるのではないでしょうかw)。
バルザックの像は、最高ですねww
ロダンに見いだされたカミーユという女性は、すごいものだったということは、今回の記事で紹介されている作品からも芸術とは、ほど遠い生活をしている私にも容易に推察できます^^;
それにしても、「才能が必ずしも、人を幸せにはしない」、いや、そもそも、何をもって幸せと言うのか、私のような「ボン人」には、到底想像できないものであります(`・ω・´)ゞ
ゴー宣で紹介されている竹内氏のご高説を拝見しているうちに、恥ずかしさのため、思わず、赤面してしまいましたわww
ここまで、自信満々に、トンデモ説を公言できる根拠は一体、なんなんだろうか?
しゃべクリは、またまた、投稿をし忘れてしまいました~^^;;
いかんな、今後は、締切日は、ちゃんと仕事の手帳にも記載しておこうww
ブローカー・Yの次回作に、ご期待くださいww
遅ればせながら、SPA!版の感想です(もう次のが出てるような気もしますが)。
何だか御菓子が食べたくなるような回でした。
それと、先生が行列に並べないのはとても気の毒なことなのではないか、と思ったりもしました。はやくよからぬことを考える輩が居なくなりますように。
また変な豆知識を書きますが、チューインガムはチクルというゴムが元になっていて、それをかんでいた子供は御菓子を食べるほど裕福ではなかったので、せめて何かかんでいれば口元もさみしくない、という心づもりで口に入れていたのだとか。
でも、そこから、チューインガムという発明がうまれたそうですから、何が幸いするかは分からぬものです。それでも、せめておなかのふくれる、栄養のあるものを体内に入れなければ栄養失調になってしまうのかな、と思いました。
御菓子の場合もそうなのだから、憲法もなおさらです。夢は膨らまして形にならなければ意味をなさないのではありますまいか。
朝日の記者も、つまらないことに拘泥しないで、世の中をどうしたいのか、自分が何をのこせるのか、何をのこしたいのかとか内省して考えるのも良いのではないでしょうか。
とりあえず、こんなところです。新潟の事件、犯人がつかまって良かったですけれども、なくなった子供は夢をいだくことすら不可能になるのですから、かなしいです。
千葉県でも同じような事件が起こったそうで、こういう事件はいつまで続くのか、とむんな気分になります。
一応記しますが、ガンダムは元はガンキャノンのような形だったそうです。以前よんだ富野氏の小説では、指のところで銃の回線をつなぐみたいなことが書かれていました。小説版の方だから、アニメにあてはまるかどうか、分かりませんが。
あと、富野氏の構想では「十五少年漂流記」みたいなものにもしたかったみたいで、それが「バイファム」という別のサンライズアニメの原案にもなっているそうです。
では、次号を期待します。
それにつけても、真田虫のところ、可笑しいです。
軍隊を持たない日本が北に対して体制を保証すると言ったところで何の意味もないですね。
配信ありがとうございます。
カミーユの事は知ってましたが、今回思ったのは、華原朋美さんも同じだ、でした。
人間として、アーティストとして、女として、まだ「個」を確立する前に、小室哲哉と供に作り上げる世界の喜びが自分の全てになっていた。だから恋愛関係の破綻が、自分の世界の全ての破綻になってしまったのでしょう。
カミーユとの違いは、薬物に溺れても、そこから立ち直ったこと。
自分の事を知らない外国で、音楽とは全く縁の無いボランティアをしながら、自分を取り戻していったそうです。特番で、小室氏と共演しているのを見て、私は感動しました。
芸術から離れてみる事が出来なかった。カミーユの悲劇は、実はそこなのかもしれませんね。
>麻生氏のような昭和の爺さんのしゃべりっぷりは貴重だとわしは思っている。
「多様な価値観を認める社会」と言いながら、昭和初期的価値観を今すぐなくせとは言うもんじゃない。
麻生太郎、頑張れと、むしろわしは言いたい。
正確に言えば、麻生氏擁護ではなく、「麻生氏セクハラ発言擁護」ですよね。
個人的には、麻生太郎のふてぶてしい口調や態度は嫌いです。
でも、セクハラに関する発言内容自体は正しいのだから、そこは認めなければいけない。
そして、この「ふてぶてしさ」も、セクハラ全体主義に陥って潔癖さを認める世間に対する強烈なアンチテーゼとして作用するのでは、と想像することもできます。
「麻生太郎、頑張れ」=麻生太郎の何もかもを支持、ではないはず。
むしろ、過去には数々の問題発言をしでかしており、政治家の資質が問われてもおかしくないレベル。
だから全否定する、というのではなく、あくまで発言内容のレベルで評価しなければならない。
小林先生が政治家や知識人を評価するに当たって、「人物単位」ではなく「言論単位」で考えておられることは明確ですよね。
だから、『ライジング』でも散々叩かれてきた三浦瑠璃やツネヒラちゃんなんかでも、まともな発言をすればそれ自体は評価される可能性はあるでしょう、ということだと思います。
新潟の犯人が捕まって良かったんですが、ホントこう言う輩の特定なんて無理だとは思っては居ますが、何とかならんのか?とも考えてしまいます、
大体どうして誘拐するのかも分からないし、殺すのはもっと分からないし、線路の上に遺体を乗せるだなんて恐ろし過ぎて想像すら出来やしない。
こんな奴はオウム真理教の死刑囚より先に死刑にして欲しいわ。
麻生太郎のセクハラ罪は無い発言も、結局は周りの悪しき忖度で封じ込められようとしていますね、セクハラは認定しちゃってる訳だし、クビにしたのも至極当然と発言も変節している訳だし。
麻生太郎にしろ安倍晋三にしろ、もっともっと自己正当化を強めた方が個人的には良い流れだと思いますがね、民意を敵に回すまでは行かない訳だから、もっともっと上から目線発言を繰り返して欲しいものです、
そしてそれに、自国民は怒らなきゃいかんですよ、支持率が未だに40%も有るなんて異常世界ですよ、森喜朗の10%の時代を考えたら、お上に批判的な精神が完全に無くなってるんじゃね?と悲観論しか湧かないですから。
やれ経済がとか野党がだらしないとか言っても、結局自国民が我関せずを貫徹し出しているからこうなる訳で、自分の生活は勿論1番大事だけど、
国がおかしな方向に向かってるのまで我関せずになると、全部自分自身に返って来るのだから自業自得で終わる話じゃ無くなるんだから。
全体主義・スターリニズム化するこの国に未来なんかねえぜ。
もくれんもいっそもくりんにしたげて…
トンデモ見聞録のカミーユの話が、強烈に印象に残りました。綺麗な人ですね。ローズさんも可愛いけれど。
ロダンの創作を手伝いながらも、自分の創作も続けていればと、とても残念で、勿体なく、悔やまれる思いがします。ロダンと別れた後も、自分の才能だけで、良い人生が送れただろうに…。78歳までの長い人生の、半分以上を人を恨みながら過ごし、精神病院に30年間も入れられ、そのまま誰にも見取られずに死んでいったなんて…、深く同情してしまいます。
とても悲しく、そして勿体ない話だと思いました。
芸術家シリーズ、何か引き込まれますね。