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第45号 2013.7.9発行


「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、よしりんの心を揺さぶった“娯楽の数々”を紹介する「カルチャークラブ」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」、珍妙な商品が盛り沢山(!?)の『おぼっちゃまくん』キャラクターグッズを紹介する「茶魔ちゃま秘宝館」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが無限に想像をふくらませ、とことん自由に笑える「日本神話」の世界を語る「もくれんの『ザ・神様!』、秘書によるよしりん観察記「今週のよしりん」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)


【今週のお知らせ】
※目前に迫った参議院選挙。今週の「ゴーマニズム宣言」では、「貴族院」の歴史に目を向け、参議院の存在意義を論じます!参議院、そして二院制の意義とは?「参議院不要論」は正しいのか?参議院議員に求められることとは?参議院選挙投票の前に、最低限これだけは考えておこう!!
※新企画スタート!わからないことがあれば取りあえず「フリー百科事典『ウィキペディア』」で調べることが普通になっている昨今。しかし、目を覆うような間違った記述が横行しているのも事実。この新コーナーでは、ウィキペディア「小林よしのり」のページを徹底添削しちゃいます!!
※今週も力作揃い!!『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて、一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」。今回のお題はこちら!!

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【今週の目次】
1. ゴーマニズム宣言・第46回「『参議院不要論』の前に『貴族院』の歴史に目を向けよう」
2. しゃべらせてクリ!・第7回
3. よしりん漫画宝庫・第45回「『少年代議士 日本(ひのもと)太郎』犬にまたがりどぶ板選挙、めざせ総理大臣!」
4. ☆新企画☆よしりんウィキ直し!・第1回「『略歴・出生-中学生以前』編」
5. Q&Aコーナー
6. 今週のよしりん・第44回「よしりん・夏の忍術」
7. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
8. 読者から寄せられた感想・ご要望など
9. 編集後記




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第46回「『参議院不要論』の前に『貴族院』の歴史に目を向けよう」

 野党不在の状態は解消されることなく、参院選は選挙戦に突入した。
 どうせこのまま自公が過半数を獲得して「ねじれ」を解消し、念願の「決められる政治」を実現することになるのだろう。そして「間違ったことばかり決められる政治」がこれから3年間続くのだ。

 それにしても、衆議院と参議院の勢力分布が食い違えば「決められない政治」と言うし、同じだったら「同じものは二つ必要ない」と言うし、一体どうしろと言いたいのかさっぱりわからない。
 「参議院不要論」もかなり昔からあるが、現在それを最も強く主張しているのが日本維新の会・橋下徹だったりするので、こんなのに簡単に同調していいはずがないと思ってしまう。

 米国のような連邦制国家ならば、二院制が必要だというのはわかりやすい。各州は半独立国的な主権を持つのに、一院制だと議員数が人口に比例して配分されてしまうから、人口の多い州ほど有利という現象が起きてしまう。
 だから米国では人口比で配分する下院と、人口・面積に関係なく各州一律2人の上院という二院制が採られているのだ。
 それにしても橋下徹は米国の連邦制を猿マネしたような「道州制」の導入を主張しておいて、議会は一院制にしろと言うのだから支離滅裂である。


 では、連邦制国家ではない日本に「二院制」は必要なのか? 「参議院」は必要なのか?
 ここはまず、必要か不要かを問う前に「参議院」とは何なのかを問いなおすことから始めよう。
 決まり文句として言われるのは、参議院は「良識の府」であるにもかかわらず、現在はその役割を果たしていないという批判だ。

 だが参議院が「良識の府」ならば、衆議院は「不良識の府」なのか?
 はっきり言ってしまえば、その通りだ。
 自民がダメだから民主、それで民主がダメだったからまた自民…と、無責任な「民意」次第でコロコロ変わり、一つの政党が圧倒的多数を占めてしまえば、なんでもかんでもやり放題に暴走するし、逆に複数の政党が拮抗していれば、お互い天下国家を放り出して党利党略の争いに明け暮れる。良識もへったくれもない。衆議院なんてものは「衆愚院」なのである。
 ただしこれは、現在の日本に限った話ではない。議会政治なんて古今東西こんなものだ。


 言うまでもなく、日本の議会政治は明治時代に始まった。
 近代国家建設のために、憲法制定国会開設はどうしても達成しなければならない課題だった。
 伊藤博文を中心とする明治政府は、先行する欧米の憲法や議会の研究を重ねたが、議会については当初から一貫して「二院制」を採用すべきとしていた。また、民間で多く作られた「私擬憲法」も二院制を採る方が多数だった。
 明治憲法の起草にも参加した金子堅太郎は、帝国議会が二院制を採用した理由を三つ挙げている。

 一つは欧米の議会のほとんどが二院制を採用しており、制度的優位が確立していること。
 第二の理由は、二院制ならば一院が軽挙妄動に流れたり、過激になったりしないよう抑制できること。
 そして第三の理由は、政党内閣が政党本位の法律を作ろうとした場合に、抑止力になることだった。
 すなわち二院制によって、一院がやりたい放題に暴走したり、あるいは党利党略に基づく法律を作ったりしないようにできると捉えたのである。


 かくして明治憲法下の帝国議会は「衆議院」と「貴族院」の二院制となった。
 貴族院という言葉くらいは学校で習った覚えがあると思うが、それがどういうものだったのかを知っている人はそんなにいないだろう。
 貴族院とは、まさに衆議院の暴走や党利党略を抑制する装置だった。

 貴族院議員は、選挙によって「民意」で選ばれる衆議院議員とは全く違う基準で選ばれていた。
 まずは「華族議員」である。華族とは旧公家・大名、臣籍降下した皇族などからなる貴族階級であり、「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」の5ランクがあった。
 そして25歳(大正14年からは30歳)以上の華族が貴族院議員となったのである。任期は公・侯爵が終身。伯・子・男爵は7年で、同じ爵位の者による互選選挙で選ばれた。

 さらに、国家に勳労がある者、学識のある者から勅任された任期終身の「勅選議員帝国学士院(現在の日本学士院)から互選される任期7年の「帝国学士院会員議員、そして各府県において土地あるいは工商業において多額の直接国税を納めた者から互選される「多額納税者議員というものがあった。
 他に成年皇族男子は全員終身貴族院議員となる規定もあったが、これは実際には議会に出席しない形式的なものだった。


 貴族院議員は、民意を気にする必要が全くなかった。
 華族たちは、貴族院議員の身分を始めとする自らの特権は全て天皇から賜ったものであることから、この皇室からの恩寵に応えることこそが使命と感じ、「皇室の藩屏(はんぺい)」を自任した。
 藩屏」とは垣根のことで、ここでは皇室の側衛、つまり守護者を意味する。何ものにも与せず、皇室のためだけを考え、国益に立った議論と判断を行なうというのが彼らの行動原理だった。

 また、「勅選議員」や「帝国学士院会員議員」は、自らの学識や経験を国のために活かそうという気概に満ちていた。
 そして「多額納税者議員」は……これだけは議会で役立つ能力もなく、発言もしないことから「特別席を有する少数の傍聴人」と揶揄され、無用視されることも珍しくなかったという。


 貴族院というと権力者の側につき、民衆を抑圧していたかのように思うかもしれないが、実際の貴族院は極めて独立心が強く、政府にも政党にも与しなかった。
 初期議会では、藩閥政府を弾劾する建議案を可決して時の内閣を窮地に陥れたこともあり、藩閥政府にとっては民党よりも危険な存在でもあった。伊藤博文は抑えきれなくなった貴族院を沈黙させるために、天皇の「勅語」を出したことさえある。
 政党主義が台頭しても、貴族院は衆議院の政党とは一切関わりを持たなかった。

 もちろん人間が集まれば必ず派閥ができるし、議会は最終的には多数決である以上、同志を集めて結集することは不可欠なので、貴族院にも自然といくつかの会派が形成された。
 しかし貴族院は衆議院の政党の党利党略とは厳然と一線を画し、あくまでも議論の内容だけで評価する「是々非々主義」の原則を貫いていた。

 貴族院は解散もなく、その権能を極限まで発揮すれば、天皇以外誰にも抑えられないため、議員は自制し余程のことがない限り反対は慎むという審議態度を採った。
 しかしひとたび議論の中に党利党略を感じると、「猫は変じて虎となり」時の政府と徹底的な抗争を試みたのだった。


 もちろん貴族院にも問題がないわけではなかった。幕末・維新を経験した華族に比べ、その息子や孫へ世襲されると、人物が小粒になっていくことは否めなかった。
 また、下級華族は経済的に困窮している者も多く、生活の糧として貴族院議員の地位に就くことだけが目的となってしまう者もいた。
 大正デモクラシーの時代になると、貴族院自体が特権階級として批判の対象となった。

 さらに、政党内閣が続くと、時の内閣による勅選議員の人選を通じて貴族院議員にも政党色が強まってくる。これが進むと衆議院と大差なくなり、存在意義まで問われることが危惧された。
 このような課題から貴族院は度々改革を迫られつつ、その使命を果たしていったのだった。