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UWFが知りたいからこそヤマケンの話が聞きたい! 現在北海道・札幌で格闘技ジムを運営する山本喧一ロングインタビュー。真剣勝負の大波がU系に押し寄せてきた90年代中盤から末期、UWFインターやリングスでは何が行なわれていたのか。「田村潔司は偽善者」発言が生み落とされた「真剣勝負とUインターの愛憎物語」を2万7000字のボリュームでお届けします!

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――いまUWFが再注目されてまして。『1984年のUWF』という本がきっかけなんですけど。

ヤマケン 全然読んでないです。高田さんの『泣き虫』も読んでいないです。周りからいろいろと聞いて「ああ、そういう本なんだ」って。

――UWFというムーブメントを考えるうえで、ヤマケンさんがUFC-Jトーナメントで優勝したときのマイクアピールって凄く重要だと思って、こうして札幌まで伺ったんです。

ヤマケン  いまはなきNKホールで田村さんに「オラァ!!」って噛み付いたやつですね(笑)。


「最後に一言だけ。これだけは、新しい時代を築くためには
言っとかなきゃいけないことなんで言わせてもらいます。

ファンのみんな並びに、Uインターの選手全員に大ウソをついた、
田村潔司! コイツだけは大の偽善者です!

俺がリングスをやめた本当の真意はこれです。
さぁ〜、結果出したんで、田村さん、俺と真剣勝負やる根性あったら、いつでもUFC来てください!

真剣勝負って、カッコ悪いっすね。なんとか勝てました。みんな強かったです。今日はどうもありがとうございました!」



――あのときは自分はまだファンの立場だったんですが、控室のコメントを読んだりしていろいろとスッキリしたところがあって。

ヤマケン なるほど、なるほど。

――あの件については何度もインタビューを受けていて「またかよ!」って思われるかもしれませんけど。

ヤマケン いま言われたように、この件については昔からけっこうしゃべってるんですけど、記事になるとマイルドな内容になってるんですよね(笑)。

――それはヤマケンさんが原稿チェックなんかで修正したわけではないんですよね?

ヤマケン いや、こっちはガンガンしゃべってるんですよ。でも、時代によって書きづらいところはあるんじゃないですか。ボクはあの当時から正直にしゃべってるんですけどね。

――なるほど。今日はかなり楽しみです!(笑)。

ヤマケン いやあ、どうですかね。いまは大人になってますからね(笑)。

――ハハハハハハ。大人になった立場から、あの「田村潔司は偽善者」マイクを振り返ってみていかがですか?

ヤマケン あの当時『SRS-DX』という雑誌がありまして、控室の談話がそのまま長文で載ったんですよ。それはいまでも手元にあるので、たまに読み返したりするんですけど。

――試合後の激白も凄く面白いですね。

ヤマケン いま落ち着いた自分から振り返ってみても、実直な気持ちで、そこに嘘や偽りはないですね。でも、あの当時は早すぎましたよね。周りに理解してもらえなかったんですよ。

――突っ込んで聞くわけにいけないですし……。

ヤマケン だからインタビューしてもらっても、マイルドな内容になっちゃうんでしょうね。

――あの「偽善者」マイクもそうですが、ストロングスタイル系の歴史って常に下からの突き上げをくらうというか。猪木さんは馬場さんを挑発しましたけど、その猪木さんが前田さんに脅かされ、その前田さんは船木誠勝・鈴木みのるに、そしてそのUWF自体も修斗に……。

ヤマケン もともとは猪木さんだったと思うんですよ。もしくは力道山先生にあったイデオロギーで、「やるか、やられるのか」のキラーな部分を引き継いたのが猪木さんで。それが前田さん、高田さん、そしてPRIDEにまで及んでいったんだと思うんですね。だからボクらは猪木さんの系統なんだと思います。

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――ヤマケンさんはそのUWFどころか、プロレスにすらまったく興味はなかったんですよね。 

ヤマケン 全然なかったんですよね。Uインターに入る前は正道会館の内弟子だったんですけど。正道会館がK−1だなんだって全国区になる前の話ですよ。

――正道会館が東京でも格闘技イベントを開催して上昇していく頃ですね。

ヤマケン 正道会館に入るときは卍ヘアスタイルで乗り込んだんですよ。当番らしき人に「空手を習いたいんじゃ!!」ってもの凄く態度が悪くて(笑)。

――ハハハハハハハハ! それって何歳の頃ですか?

ヤマケン 15歳ですね。

――どんな15歳なんですか!?(笑)。

ヤマケン そんな態度ですから当然スッタモンダありまして。「帰れ帰れ!だいたい履歴書を持ってきたんかい?」「履歴書ってなんじゃない!?」と。

――酷いやり取り(笑)。

ヤマケン 当時のボクは勘違してたんですよ。格闘技の道場って気合いが入ってないとダメだと思ってて。

――ケンカ腰のほうが認めてくれるんじゃないか、と。

ヤマケン 住み込みを希望していたんですけど、当時のボクはいろいろとあって住むところがなかったので必死だったんですよね。

――住むところがなかった。

ヤマケン はい。ボクは幼少期から家庭環境が複雑で、義務教育もろくに受けてなかったんです。それくらい家庭がグジャグジャだから中学を卒業したら家を出ますよね。でも、住むところがないと。

――そこで正道会館の内弟子を目指したのはなぜですか?

ヤマケン すさんでいた中学時代に読んだ本が2冊あって。前田さんの自伝『パワー・オブ・ドリーム』と、矢沢永吉さんの『なりあがり』で。その2冊の本は人生を前向きに生きようとするきっかけを作ってくれたんです。前田さんも幼少期は荒れていて、ケンカばかりしていたけど、いまは立派に生きていることに勇気をもらったんです。それでボクも格闘技を習おう!と。でも、それはケンカのためにという不純な動機だったんですけどね。

――前田さんが通った道をなぞろうとしたんですね。

ヤマケン 前田さんの空手の師匠だった田中正吾さんが大阪でやっているという、無想館拳心道という空手道場を探したんですけど、見つからなくて。その頃はリングスが始まってて、そこに正道会館勢が出ていたじゃないですか。これは前田さんが認めている空手なんだろうと。地元の大阪に道場があるし、ちょうどいいやってことで。

――そうて卍ヘアーで乗り込んでいったんですね(笑)。

ヤマケン その日は日曜日なので石井館長は道場に来ない日だったんです。でも、たまたま道場に来て「なんやなんや、なんの騒ぎや?」と。周囲の反応からこの人がボスだってことはわかったので、石井館長に近づいてメンチを切ったんですよ。

――ハハハハハハハハ! 怖いもの知らずの15歳ですね(笑)。

ヤマケン それくらいやらないと認めてくれないと勘違いしてて(笑)。そうしたら石井館長は面白がってくれたんでしょうね。スッと無視して館長室に入っていったんですけど、部屋に来るように呼ばれて。これは最終面接だと思って部屋に入ったら、財布から1万円札をピッと出して「この金で商店街に行って布団を買ってこい!」と。その日から内弟子ですよ。

――粋な計らいですね(笑)。

ヤマケン 普通だったらアウトですよ。そこは石井館長の懐の深さですよね。

――それから正道会館で住み込みで空手をやることになって。

ヤマケン 寮は普通のマンションですよね。佐竹(雅昭)さんは一人部屋で、ボクはアダム・ワットと同じ部屋でしたね。あと内弟子が2人住んでました。 

――アダム・ワットと相部屋(笑)。内弟子ってどんな生活なんですか?

ヤマケン 普段はビギンスポーツという正道会館がやってたスポーツ用品店で働くんですよ。正道はもうひとつトップスターというメーカーもやってたんですけど。

――ほかの空手道場が買わなくなるから、正道会館がやってることは伏せていたそうですね(笑)。

ヤマケン そうですそうです、こっそりやってたんです。電話はちゃんと分かれてたんですけど、最初の頃はトップスターもあったからややこくして。

――佐竹さんも間違えて「はい、正道会館です!」って出ちゃったとか。

ヤマケン 格闘技雑誌にはビギンスポーツとトップスターの広告を出してたんですけど、周りは正道会館がやってることは知らなかったですね。ボクは最終的にビギンスポーツの本部長をやってましたから(笑)。

――出世してたんですねぇ(笑)。

ヤマケン サンドバックの具の詰め込みや、レガースのバンドをボンドで貼り付けたりとかの作業なんかをやってたんです。あと、ちゃんこ屋と焼肉屋をやってたので、そこにもローテーションで働きに行ってましたね。

――スポーツ用品だけじゃなくて飲食店も手がけてたんですね。さすが石井館長やり手ですね。

ヤマケン ボクが入ったあとに内弟子の第2期生を募集して、最終的に15人くらいまで増えたんですよ。だけど、ほとんどやめました。やっぱりキツかったと思うし、正道会館がリングスに出始めた頃だったんで、プロレスラー志望の人間が多かったんですね。

――空手とプロレスでは路線はだいぶ違いますよね。

ヤマケン 空手の世界ってギラギラしてますからね。ケンカ根性のある指導員を育てたかったですけど、内弟子になるのはプロレスファンでしたから。

――「プロレスラーになりたいけど、空手の指導員には……」っていう。

ヤマケン 練習の時間はかなりありましたから最高の環境でしたけどね。昼くらいから練習して、夕方から一般の道場生が来るから指導兼練習。仕事のないときも練習ばっかしてましたし。

――充実の空手ライフだったんですね。

ヤマケン あのままやっていたら正道会館史上最年少の黒帯&指導員になってたんですよ。ところがボクは空手がそんなに好きじゃなかったので。あくまでケンカが強くなりたかったわけですから。夜になると寮を抜け出してケンカばっかやってたんですよね。

――スポーツ用品店の責任者で空手道場の内弟子が、ケンカ三昧。

ヤマケン そっちが本道ですから(笑)。前田さんの本に梅田の十八番商店街でケンカをしてたと書いてあったから、自分も十八番商店街でケンカしたり。空手で習った技術や、中学時代は柔道もやってましたから、そのへんを総称して暴れてたんですよ。ただ、凶器の使い方はわからなかったので、寮長のTさんという方に教えてもらって。たとえば傘の使い方とか。

――傘の使い方ってとんでもないレッスンですね(笑)。

ヤマケン Tさんは凄い人物で知る人ぞ知る人だったんですよ。正道会館の表の顔が石井館長なら、裏の顔はTさん。あの当時の正道会館の人間は、ケンカ根性や精神論をTさんから教わってるんです。正道会館は創成期だからケンカ根性がないとナメられるじゃないですか。支部長がケツをまくったり、情けないことをするとTさんが飛んでってしごくし、何かトラブルがあるとTさんが出ていくんです。

――まさしく裏の顔!

ヤマケン ジュラルド・ゴルドーが正道会館のイベントに出たとき判定にムカついてバックステージに殴り込んできて、Tさんに食ってかかったんですよ。そのときにTさんが●●●●●●●したら、あのゴルドーが「oh、Sorry……」って離れていったくらいですから。

――あのゴルドーが謝った! というか、ゴルドーにそんなムチャなことができますね……。

ヤマケン そういう伝説がある人がボクの師匠であり、正道会館の精神的支柱だったんですよ。もう心酔しちゃいますよね。「この人はホンモノや!」って。あと石井館長とTさんのあいだに挟まれて中山猛夫師範という恐ろしい人もいたんですよ。

――初期正道会館のエースですね。本当に強かったみたいで。

ヤマケン 中山さん、凄いですよ。毎週水曜日だったかな。夜遅くに中山さんが道場に来て、顔面ありのスパーリングを始めるんですよ。我々はヘッドギアをつけるんですけど、中山さんは何もなし。でも、みんなボッコボコにやられます(笑)。あのスパーリングでみんな根性が付いたんですよね。

――顔面ありを想定したスパーリングをやってたんですね。

ヤマケン それは来るべきK−1に繋がってるんでしょうね。トーワ杯や格闘技オリンピックがあって顔面ありにシフトしていった時代でしたし。佐竹さんがドン・中矢・ニールセンと戦ったときのセコンドはTさんと中山さんなんですよ。

――あのとき佐竹さんの反則の頭突きが勝負の決め手になりましたけど、ケンカ根性がそうさせたのかもしれませんねぇ。

ヤマケン ボクはこの業界の裏の裏の裏を知ってからUインターに入ったんで、何が起こっても動じないんですよ。ほかの人たちはアタフタするんですけど。

――正道会館からUインターはどういう流れがあったんですか?

ヤマケン Tさんがボクの今後のことを心配してくれたんですよ。「このままケンカばっかりやっていたら、ヤクザになるしかなくなる」と。Tさんは田中正吾さんのこともしごいていたことがあったから「前田のところにいつでも行けるぞ」って言われたんですけど、ボクはプロレスラーに興味がなかったし、ケンカさえできればよかったんです。「このままだと正道会館に迷惑をかけることになるし、身動きが取りづらくなるぞ」「じゃあやめますわ」って。

――やめちゃうんですか。

ヤマケン 正道には半年いましたね。そのあとはケンカの腕を磨くために、キックでアジア太平洋チャンピオンになったスパーク山本さんという人をストーキングしたりしてたんですけど。

――どういうことですか?

ヤマケン Tさんに「顔面をやっておいたほうがいい。こういう奴がいるから探してこい」ってことで山本さんの存在を教えてもらって。山本さんはコックをやってて家に帰るのが深夜12時過ぎなんですよ。帰宅した頃を見計らってドアをトントン叩いて「キックを教えてくれ!」って。

――ハハハハハハ! 深夜におっかないですよ!

ヤマケン その人も面白がってくれて、公園の木にサンドバックを吊るして教えてくれました。

――そんなストーカーをするくらいケンカしか頭になかったんですね(笑)。

ヤマケン Uインターに入ることになったのは、そのケンカで負けたからなんですね。相手は10人くらいいたんですけど。

――どうやったら10人とケンカになるんですか(笑)。

ヤマケン ケンカをふっかける方法があって。相手の肩にわざとドンとぶつかって、こちらから因縁をつけて路地裏に連れ込んでボコボコにするんです。

――はあ(笑)。

ヤマケン ところがそのときは相手に仲間がいたんですよ。路地裏に連れ込んだのがバレちゃって「なにやっとんねん!」と逆に追い詰められて。初めての完膚なきまでの敗戦。だけど、パワーがあったら勝てたんじゃないかなって。当時はまだ細かったですからね。

――そんなに目も遭ってもケンカの敗因分析を。

ヤマケン それでボロボロのまま歩いていたら大阪府立の前を通りかかって、ダフ屋のおっちゃんが「プロレス見いひんか?」って声をかけてきたのがUインターだったんです。そういえばTさんも「プロレスに行け」とかよく言ってたな、ちょっと見てみるかと。身体中が痛かったので2階席で寝てたんですよ。そうしたらメインになったら大歓声。「なんだ?」と思ってリングを見たら、高田さんと山崎さんの身体のでかい2人が凄い試合をしてて「これや!!」と。俺のクソ根性と、あの身体があったら無敵やないけと。

――そこもケンカが強くなりたい!という発想なんですね。

ヤマケン ケンカ日本一になれるんちゃうか?と。隣の席のおっちゃんが持ってたパンフレットに練習生募集という文字が見えたので「それ、よこせ!」って奪って。後日Uインターに電話したんですよ。

――ホント行動力ありますね(笑)。

ヤマケン 電話に出たのは鈴木健さん。「大阪の山本といいます。プロレスをやらせてほしいんですけど」って。でも、パンフレットに載っていた練習生の規定は18歳以上、180センチ75キロ以上。その当時ボクは痩せてたし、タッパも180なかったし、歳も15歳だったし。

――あ、まだ15歳なんですか?(笑)。

ヤマケン 16歳になる前ですね。何か売りがないと入れてくれないと思って「足が大きい奴は背が伸びる」って聞いたことがあったから「足は29センチあります。足29センチ、足29センチ!」って繰り返して(笑)。

――「足29センチ!!」を連呼する怪しい電話(笑)。

ヤマケン 鈴木さんも「そうなんだ、高田さんと一緒だね!高山くんなんて31センチあるよ」なんて会話が弾んじゃって。それで「じゃあテストを受けなさい」ってことになったんです。上京してテストを受けたときは地獄の坂道ダッシュもやりましたし、スクワットも500回やりましたね。

――ヤマケンさんはプロレスファンじゃなかったですよね。スクワットはやったことあったんですか?

ヤマケン ないです。正道会館にプロレスラーになりたい奴らが集まってて、そいつらがスクワットをやっていたから、なんとなくこんな感じかなって。よくわからないまま無心でやってたんですけど、あとから聞くにはジャンピングスクワットという、もっとしんどいことをやってたみたいなんですね(笑)。

――よりハードなほうをやってたんですか!(笑)。

ヤマケン 先輩方も「こいつは面白いな!」って笑ってたみたいですよ。あのときは4人テストを受けたんですけど、合格したボクともう一人以外は殴られ蹴飛ばされ……。

――えっ、テスト中なのに?(笑)。

ヤマケン チンタラやってるからです。厳しいんですよ、Uインターのテストは。「テメエ、そんな体力でプロレスラーになろうと思ってたのか?」って怒鳴られるし、殴られるし。

――誰が怒鳴るんですか?

ヤマケン 宮戸(優光)さんです(笑)。

――ハハハハハハ! あの甲高い声で!

ヤマケン もう鬼軍曹ですよ。高山さんも「チンタラやってるんじゃねえよぉ!」ってドスを効かせて。ヘバッて休んでると蹴っ飛ばされるんですよ。「おい、ナニ休んでるんだ?いまなんの時間だ、おい?」って。

――合格しても入門したくない(笑)。

ヤマケン 「けったいところに来たなあ……」と思いながらも、必死にやりましたよ。俺がUインターのテストを受けると聞いてTさんが一番喜んでくれたんですよ。だからなんとか頑張って合格しようと。気合いが入っていればなんとかなるって勘違いしてる人間だったからできたんですよ。全体的に見たら体力も全然なかったんですけど、根性と気合いで最後までやりきった。あと若かったことも大きかったんじゃないですか。多目に見てもらったんですよ。

――まだ十代で伸びしろがある、と。

ヤマケン 垣原さんも16歳でこの世界に入ったので、16歳だったボクのことをプッシュしてくれたみたいですね。「こいつは根性もあるし、伸びると思うんですよ」って宮戸さんに言ってくれて。それで仮入門することになったんです。

――ヤマケンさん以外にもうひとり受かったんですよね。

ヤマケン Aって奴が受かったんですよ。面白いのはAはボクのあとに正道会館の内弟子になった奴なんです。190センチくらいあって、プロレスラー志望だったから途中でやめたんですけど。Uインターも入門1週間で逃げちゃいましたね。

――1週間で!

ヤマケン いやあ、もうキツかったですから。Uインターの寮は3LDKのマンションで。デビューしていた先輩は一人部屋。ボクと桜庭さんと、ボーウィー・チョーワイクンともうひとりのタイ人、SWSから移籍してきた中原(敏之)さんはキッチンでせんべい布団を並べて雑魚寝ですよ。ゴキブリがカサカサ動くような場所で。

――当時の寮長は垣原さんだったんですよね。前・寮長の田村さんは相当厳しかったと聞きますけど……。

ヤマケン 垣原さんもそれなりに厳しかったですよね。先輩後輩の上下関係はあるわけですから。

――練習生はどんな1日なんですか?

ヤマケン 朝7時に起きてチャリンコで道場に向かって、炊事洗濯、ちゃんこの準備、先輩の服をきちんと畳みます。10時になったら大声で数を数えながらスクワット。ちゃんこ番があるときは13時に練習を上がって、15時までにちゃんこを作る。ちゃんこ番がないときは15時まで先輩のスパーリングでこねくり回されたり、地獄のトレーニングを無限大にやらされて。

――正道会館でいろいろ経験してきたヤマケンさんでもキツイんですか?

ヤマケン キツイです。正道のときは自由な時間があったんですけど、Uインターは24時間監視されてるんですよ。刑務所ですよ、刑務所。逃げることができる塀のない刑務所。

――刑務所って塀がなかったら逃げますよね(笑)。

ヤマケン みんな逃げちゃうんですよ。3年後に上山(龍紀)と松井(大二郎)が残るまで、3年間ずっとボクが下っ端ですよ。

――いつまで経っても最下層。

ヤマケン いままでは1年に1人は絶対に残ってるんですよ。でも、ボクのあとは全然下が育てないので大変でしたよねぇ。

――ずっとスパーリングの実験台になるって地獄ですよね。

ヤマケン 中野(巽耀)さんの場合は夜中に練習するんですね。中野さんは安生さんや宮戸さんと仲が悪かったから、夜ひとりで練習するようになったんですよ。だいたい7時から9時に。

――昼の練習が終わっても、夜まで中野さんのことを待ってないといけないんですね。中野さんの夜練は毎日なんですか?

ヤマケン 電話で中野さんに連絡をしなきゃいけないんですよ。「おつかれさまです」「今日は高田さんのお付きはないのか?」「はい、ないです」「じゃあ待ってろ」と。あと中野さんの家に出張するときもあるんですよ。

――出張夜練!

ヤマケン 中野さんの家の前に貯水場があるんですけど。街灯がある路地裏で練習するんですよね。

――屋外練習ですか!(笑)。

ヤマケン バンテージとミットを持って中野さんを待ってるんです。中野さんは早く来るときもあれば、遅く来るときもあるんですけど、待たせちゃいけないので早めに待っていて。出張練習が終わったら道場に戻って、冷えたちゃんこを温め直して食べて。道場の後片付けなんかをして、寮に戻って寝るのが深夜3時くらいですかね。

――そりゃあ誰も残らなくなりますねぇ。

ヤマケン 一番大事な仕事としては、入って半年後に高田さんの付き人をやることになりました。付き人デビューはジュリアナ東京のVIPルームだったんですよ。社員と選手が集められた飲み会。まだデビュー前の高山さんが高田さんの付き人をやっていて、付き人指南を受けながらだったんですけど。1軒目、2軒目、3軒目になるにつれて、人が減っていくんですよ。最終的に5〜6軒回ったと思うんですけど、パッと意識が戻ったときは高山さんの腰をしがみついたんです。

――えっ、どういうことですか?

ヤマケン 場所はミスタードーナッツで、もうお昼。高田さんが「ドーナツ、10個!!」って頼んでるときに意識が戻ったんですよね(笑)。

――ハハハハハハハハ! 高田さんもタフですねぇ。

ヤマケン 「バ、バケモノや……!」ってまた記憶を失って、気がついたら寮のせんべい布団の中。身体中を覆うくらいの血ゲロが固まって張り付いていて。

――ひどい!(笑)。

ヤマケン 初めて付き人だから気合いを入れてついていったんですけどね。スタートのジュリアナ東京のときからイッキ飲みの繰り返しでしょ。ジュリアナ東京のお立ち台で真っ裸になって踊ってたみたいですから(笑)。

――ハハハハハハハハハハ! 1軒目で記憶が飛んでいて。

ヤマケン おぼえてないんですけどね。あとで聞く話によれば「俺が高田さんを守るんじゃあ!」と叫びながら高田さんに付いていったみたいだけど、最後は高山さんの腰をしがみつきながら立っていたという(笑)。

――お付きでもお酒をガンガン飲まないといけないんですね。

ヤマケン 付き人だから高田さんを家まで送り届けることが仕事なんですけど、プロレスラーはガンガン飲まないといけないんですよ。いっぱい飲むけど、トイレで吐いて1分以内に戻って、また普通に飲みながら、高田さんや周りに気遣いしながら楽しくしていないといけない。最後は高田さんを家まで送り届けて、向井(亜紀)さんのネグリジェ姿を見て、帰り道で力尽きて、砧公園の水路にハマり込んで寝るという(笑)。

――寮まで辿り着かない(笑)。

ヤマケン 辿り着かないです(笑)。高田さんを無事に送り届けたことで緊張の糸がプツリと切れますよね。

――大変ですねぇ……。

ヤマケン 楽しいですよ、基本楽しいです。だって道場ではもっとピリピリしてるわけですから。先輩方も普段は厳しいけど、飲みのときはちょっとフレンドリーになるので、多少の息抜きにはなるんですよ。 

――飲み会はどれくらいのペースであったんですか?

ヤマケン だいたい飲み会は土曜日ですね。試合後の1週間は道場が休みなんで、そのあいだはずっと高田さんの飲みに付き合うんですよ。

――1週間飲みっぱなしですか!!(笑)。

ヤマケン 高田さんの凄いところは、その当時のトレンディな場所に顔を出して、飲んで暴れて話題を作るんですよ。試合も酒も凄いし、カッコイイ。みんな高田さんの虜になっちゃうんですよね。

――夜の帝王、高田延彦。

ヤマケン 高田さんは5升は軽く飲んでましたからね。ボクが知るかぎり飲みで相撲取り3人をやっつけましたから。琴ヶ梅、益荒男、寺尾関。プロレスラー代表が高田さん。その対決が終わりかけのときに合宿所に「誰がいるんだ?」って電話があったんですよ。先輩方はみんな「いないことにしてくれ……」と(笑)。

――修羅場に出向きたくない(笑)。

ヤマケン 試合後以外の飲み会はみんなあまり行きたがらないんですよ。あのときは自分ひとりだけ六本木の店に行ったんですけど、VIPルームにはあらゆる酒の瓶が散乱してて。まずは駆けつけ1杯。1杯といってもビールの大ジョッキ。高田さんが焼酎、ウイスキーをドボドボ注ぎ込んで「よし、行け!」と。グワーと一気してそこからスタートなんです。

――みんな行きたがらないですね、そんな飲みが毎日だと(笑)。

ヤマケン 3人の相撲取りが千鳥足でフラフラしながら帰っていく姿をご満悦で見た高田さんが「……よし、次に行くぞ!」って5〜6軒回りましたね(笑)。

――相撲取りとたらふく飲んだあとに! カッコイイなあ。




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・試合開始1時間前、前田日明、田村潔司に真剣勝負を直訴した結果は……?
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