心の喪(の作業)は終わっていない、一生終わらないかもしれない。なので、儀式としての喪の作業をすべく、近所のホテル(ここのラウンジで、太田プロの芸人の方々が打ち合わせやインタビューをしている所に遭遇したことはない。もちろん、上島竜兵氏も含む)でカフェオレを飲み、南昌飯店でラーメンと餃子と酢豚と炒飯を食い、レモンサワー(中身は佐藤<黒>)を4杯飲んでそのまま寝た。
ファンの方ならご存知の通り、僕は焼酎は飲まない。ので、初めてのドラッグのように物凄く効いて、内心で我ながら「泥酔」という状態に近いなコレは)と思いながら1分以内で帰宅した。
壮年になると(過去「熟年」という言葉があり、僕は特に好きでも嫌いでもなかったが、東京医大の偉い医者かなんかが作ったあれを大いに気に入り、推奨したのが森繁久彌である)、飲酒の勢いで寝ると、妻子がいるか、独居かに関わらず、死亡リスクが高まる。
「妻子や友人(やペット)がいれば(孤独ではない?から?)自死は免れやすい」という戯言を信じている日本人も、もう少ないはずだが、泥酔からそのまま寝ることのリスクも全く同様であろう。「孤独死」を、極端に恐れるのは一種の症状である。友人知人に囲まれても、死ぬときは1人だ。
僕はおそらく、生まれて初めて泥酔した勢いでそのまま寝た。今までは、どれだけ飲んでも、部屋に帰ったら水を大量に飲んで、完全に酔いが覚めたからでないと寝なかった。吐瀉逆流による、求めない窒息死が怖いから、とかではない。1ccでも吐き戻したら、どうわー!とか言って笑いながら飛び起きる自信があるし、そもそも泥酔によって吐いたこともないし、吐き気を催したことすらない(理由はーーまたしてもーーフロイド的に明確であろう)。
それより、泥酔者独特の蛮行で、間違って物を壊してしまったり(部屋が楽譜とCDと楽器の山なので、何を破損するかわかったもんじゃない)、転んでどこかを打ったり捻ったりするのを避けるため(それでもとうとう、人間ドックで何も出なく、喜びに片手を天に突き上げた瞬間に靭帯損傷するのだから、もう、いつ転んでもおかしくないが)もあるし、何よりも酒が抜けてゆくのは、酒が回ってゆくのと同じ快楽があるからである。夜が明けるのに似ているし、実際、その最中には、多く、夜が明けた。
今、目覚めたら5時間経っていた。導入剤よりも遥かによく効く。というか、シンプルに恐るべき爽やかさがあり、頭の回転が早くなっていて驚いた。部屋は(買った覚えも飲んだ覚えもないミネラルウォーターのペットボトルの空き瓶が3本転がっていたこと以外)全く荒れておらず、寝巻きに着替えて布団も普通にかけていた。昨日はオーニソロジーのレコーディングで、50枚を超える楽譜が使用されたが、それもきちんと整えて机の上にあった。夜は明けていた。雨が降って空は暗い。端的に言って、美しい。
コメント
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冒頭の河合名言と、真ん中のキースリチャーズの有名なアレで、すっかり歳がバレバレじゃないですか!笑。あと、最後「、、、、、、」で終わるのが褒められてから、ずっと「、、、、、」終わりが癖になってますが笑、アレが素晴らしいと言ったのは、「ラップのリリック」の時だけだかんね笑!
愛し愛され糞真面目な正直者が、
馬鹿馬鹿しい笑いで現実をひっくり返す、
電撃ネットワーク、南部虎弾さんの献盃、
松本人志さんは、BPOに疑問を呈し、
有吉弘行さんは有難うと言い、
妻ヒカルさんが寅さんと言い間違えた話、
何か、凄い、幸せ気分になって来た!
学んで、見習って、生きる!
こんにちは。
「いいか!絶対に押すなよ」という言葉も、フロイド的ですね。
そして、誰にも望まれていない自死を、誰も押していない(はずな)のに、その決断をしたことが、傍観者ながら無念です。
少しではありますが個人的に、故人と会ったこともあり、初対面の一瞬のやりとりで、優しい人柄・バイブスが伝わったので残念です。本当に残念。
>>12
<「いいか!絶対に押すなよ」という言葉も、フロイド的ですね。
そして、誰にも望まれていない自死を、誰も押していない(はずな)のに、その決断をしたことが、傍観者ながら無念です>
まさにその通りです。僕は、さすがに竜ちゃんの死にはフロイドを振り回したくなかったので触れませんでしたが、誰の目にもそう映っていることが無念ですね。
もう一点フロイド的なことを加えると、コレは僕の「失策」ですが、日記文中
<(ここのラウンジで、太田プロの芸人の方々が打ち合わせやインタビューをしている所に遭遇したことはない。>
とあって、ちょっと不自然ですよね。実際は
<(ここのラウンジで、太田プロの芸人の方々が打ち合わせやインタビューをしている所に遭遇しなかったことはない。>
が正しく、つまり僕は、何度もそこで竜ちゃんを見ているわけです。綺麗にフロイドが決まってしまいました。
久々に長い間日本に戻っていて感じたのは、まぎれもなく濃く蔓延る死の匂いでした。
最近当国で見た、二本の邦画から、なんでこんなに死が匂うのか不思議に思っていましたが、日本に戻って納得しました。
そこら中に、匂いが充満していて驚きました。空港に何度か足を運ぶ機会があったのですが、そこにいた外国籍の方々の、憔悴仕切った顔を見て、それも愕然としました。ここまで憔悴するのか、と。コロナ禍以降、祖国では全体として、現在、様々なレヴェルでの移民が減っているので、日本人が日本人単体でグルーヴを作っていると思うのですが、外国の方々は憔悴仕切っているように見受けられました。なにせ数が圧倒的に少なくなってしまったので。列に割り込まれることで、日本にも別のグルーヴを導入していたはずが、いつの間にか単体のグルーヴとなり、単一化が進んでいるようでした。
仕事関連で、スペイン籍で日本在住の方(白人・女性)と話す機会があったのですが、日本が恐ろしいと何度か口にしました。旅行するには良いところ、住むとなると恐ろしい、と。
何がそんなに怖いんですか?
何を言ったらいけないか、分からないし。
言っちゃいけないことがあると?
だって、抱きしめたら驚くでしょ?
確かに笑
彼女もまた憔悴しきってました。
町中華でやろうぜは、フェイバリットで良く拝見しています。あの番組は、玉ちゃんと女性タレントの方の二部構成になっていて、正続のつなぎになっていると思います。そこで、僕が見ているのは(暇なので、両方見ます)、若者たちの恐れと怯えです。それはいつの時代にもあったのかもしれませんが、玉ちゃん回を見てから、女性回を見るのですが、そこに映し出される、コミュニケーション不全です。そのコミュニケーションの不全感は、上記のスペイン女性が語っていたものに近いものを感じます。
死のドミナントモーションがそこには働いていて、玉ちゃんが解決、という美しい流れが生まれています。そういう意味で、僕は、あの番組は、正続正続正……が連綿と続いている円環状のものとして捉えています。終わらない運動としての町中華でやろうぜ。死の欲動(コミュニケーションの不能感と全能感)を発揮することで、運動させていると感じます。不勉強ながら存じ上げなかったのですが、今度帰国した際には、玉ちゃんの著書は是非手に入れたいと思います。(今回は、オススメ頂いた川島雄三作品と、現代思想のラテンアメリカとプロレス界、メキシコ征服記(当国では絶版!)を手に入れました)
自死を特別扱いせず、見つめるというのは、確かにその通りかと思います。日本と当国は、自殺/他殺、米国と国境を挟んで向かい合っているという点で共鳴していますので、今回の書かれた内容よく分かります。
こちらでは、涙目の天使は、他殺で死にます。もちろん、一人で。
僕らに出来ることは、音楽をかけ、太鼓を叩き、踊ることです。菊地さんのサバールがどのように打たれるのか、楽しみに待っております。
故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
>>14
僕が「(日本の)フォークは自殺、ラテンは他殺」と最初に書いてから、もう10年ぐらいたつような気がします。「日本のSNSは、一見ひどいものに思えるかもしれないけれども、欧州や韓国のそれに比べたら全然優しい」とも書きました。順序が逆かと思われるかもしれませんが、日本の前近代は「情死(心中)」にロマンティークとエロティークを明らかに乗せており、それは、情死に追い込まれる社会構造が、そこにロマンティークとエロティークぐらい乗せないとやり切れないから。と考えます。
そしてそれは近代を超え、現代になっても全く変わりません。日本人は自ら抱え込んで死に向かいたがりますし、他者に対する、他殺意を本当に持つことができないのではないか?と思うほどです。仕事柄、殺害予告も受けましたし、ネットで死ね死ね言われ慣れていますが、発言者から「本当の他殺意」を感じたことは一度もありませんし(電話越しの肉声ですら)、ストリートからもどんどん減っています。僕が昭和の銚子記憶に固着するのは、まだ馥郁と他殺意が、僕のいる空間(店の中)で交差していたからで、それでも殺人現場を見たことはありません(半殺しが上限でした。魚市場で死体が発見されても、現場は誰も見ていないし)。僕自身も「うわこれは本当に殺されるかも」と思った経験は、日本ではなく、海外に集中しています。
これも精神医療の上で通説になりますが、自殺意は感染します。外国籍の方で、日本に在住すると憔悴したり恐怖を覚えたりするのは、非常によくわかります。「命の電話」は、そう言う意味では、この国では非常に細いライフラインかも知れませんが、自殺者の記事の真下にちょこんと置く。というのは、自殺の感染性を考えると、現状ではリスクのが高いと思われますし、自殺者の尊厳に抵触しているように思え、何かもっと別の方法があるのではないか?と思っています。自殺者の記事の下にコメント欄があるのも同様に、悪質さのが高いと判断しています。黙祷を妨げるし、潜在的な自殺意を持つ外野が、恐怖から侮辱的なコメントを寄せ得るからです。
「涙目の天使」と書きましたが、文中にある通り、竜ちゃんの体型と、中世の宗教画にある天使の体型からの類推で、現在のわが国では「天使」のイメージ(図象も概念も)が、国家的宗教の統一がないせいで、拡張しきっているので、通じないかな?とも思いました。
「町中華」が1時間番組を2本分(ちゃんと玉ちゃんの前半にエンドクレジットもエンディング曲も流し、しっかり締めてから、若い女性タレントさん=2交代制の回が始まる。という(後半のオープニングマークは、色が逆転しています)、画期的なつくりですが、ドミナントモーションのトニック(解決)が先に来ている。という転倒(裏表の逆転)への着眼は、ラテン音楽に精通している方でないと、意味は通じないと思いますね。
僕や仲間たちは太鼓を持っています。打点を持っているということが、どれだけ生と繋がっているか、笛や三味線と違って、太鼓は、とりあえずですが、誰でも叩ける。という原理は忘れられがちで、昔の日本も、あらゆる場所に太鼓がありました。箸をスティックにコップや皿を叩いている光景も、今の東京ではほとんど見られません。
僕は来月、生まれて初めて子供達に打楽器のワークショップを行います。タイトルは「みんないっしょと、みんなバラバラ」としました(官公庁のイベントなので、表向きのタイトルは味気なく「菊地成孔 リズムワークショップ」になりますが)。子供達がまだ、生命力の塊で、僕がどう指導しようと、言うことを聞かずにメチャクチャに叩きまくって熱狂してしまい、ワークショップなど成立しない混沌になればば良い、と思っています。
8月には、これまた生まれて初めて、銚子市でライブをすることになりました。調子は街自体が死にかけていて、現場は銚子の中央ではなく、周縁の新興住宅街になりますが。
川島雄三は、現在はALS、昭和では小児麻痺と呼ばれる病と闘いながら四十代で、僕が生まれる3日前に亡くなりました(うまく歩けない川島が夭逝したのを見て、伴淳三郎が始めた、小児麻痺児童への基金は「あゆみの箱」と名付けられました)。なので、巷間、川島作品は「濃厚な死の匂いが漂っている」と評されがちですが、これこそ日本の風土による誤謬で、川島作品が、滾るほどの生命、大自然への畏敬に満ちてたかは、再発DVDを見れば一目瞭然たるものであると思います。
菊地さんこんにちは。
私は先週から、5・6歳児へ絵を教えることが始まりました。そして初回からびっくりしました。
絵を描いて楽しく発散させていくことを大事にしよう、と思っていましたが、終盤男の子同士の喧嘩が勃発!子どもの扱いなんてわからない私は、必死に抱きかかえて引き剥がしましたが、、その当事者たちの真剣な眼差しを間近で見て「あー、すっごいな」と感じたんです。いずれそれぞれが、作品を1年間かけて仕上げられれば、なんていう期待は気持ちよく吹っ飛びました。
生命力の塊を味わうと、こちらも何かが目覚めるようです。年齢を重ねたからかもしれませんが、混沌が、こちらの期待を裏切ってくれることが気持ちよかった。
同時期に自殺の話題が蔓延し、希死念慮を持つ友人も即座に反応し、私は未だ何も反応できずにいます。
1950年代からの喜劇役者から役者への話、10倍化されても読んでみたかったです。(10倍化希望したらダメですね笑)
映画「夫婦善哉」観ました。この映画の森繁は、時代設定の影響もありますが、喜劇役者というより役者的で、シリアスな場面での演技が怖かったです。
駅前シリーズ、社長シリーズに両方出てるか片一方だけ出てるかで観て知ってるのに、山茶花究、司葉子、三好栄子も全員怖かったです。唯一怖くなかったのは、淡島千景です。
劇中、暗澹たる時代とその思いの中で、溢れ出るバイタリティを落ち着けるように「あんじょう」と言ってるようにも聴こえました。
>>16
子供達が、黙って音楽や絵を習い、講師の思う通りにことが進んだら、まあ、それが絶対悪だとは言いませんが、僕にはやはり気持ちが悪いですね。チャイさんにお子様がいるかどうか?とは聞きません。が、僕にはいないし、できないんです。なので「育児」の大変さは、QNとかから、部分的に経験させられるんですね笑(彼は、出来上がりを聴く前から、すでにMVのことで頭がいっぱいになっています笑)。大人は、子供の巻き起こす混沌にのみリフレッシュがあるのかも知れません。そしてそれは、永遠にリレーションしてゆくことですよね。チャイさんも、子供の頃に絵を習っていて、ファックと思っていたはずです。チャイさんの生徒さんが大人しく楽しく絵を学んだら、チャイさんの中の何かが崩れたはずです。
希死念慮や、もっと進んで自殺行為に及ぶ人々が蔓延るのは、「大人」側の力が社会的に強まっているとも言えます(平和や秩序は大人が作るので)。<大人になる>というのは演舞性が強く、演舞性は、ちょっとしたバランスで成り立たなくなってしまいます。現代が息苦しいのは、大人が大人という演武を伸び伸びと出来ないように進化した結果だと思ってます。絵を描いて生きるというのは(音楽もそうです)、かなりのタイトロープですよね。だから我々のような人材が、アウェイ感にヤラレないバイタリティを持つことが重要だと思っています。僕も音楽の講師ではあるので、そこは常に気をつけています。ただ、幼児教育ではないので(最低年齢、16歳なので)、ちょっとやって妙かな、と今回は思いました。
可能な限り動画を撮影して、可能な限りアップしようと思っています。
>>17
単に能力だけで言えば、100倍化も不可能ではないのですが、そうなると著述の出版になりますね。これはリスクが高いんですよ。ちゃんと読んでくれる人がどんどん減って行き、テリトリーでの縄張り争いみたいなめんどくさい事ばかり起きます。僕が映画批評やってなかったら、町山さんからの襲撃もなかったでしょうし笑、演奏だけして、分析や批評をしないでいれば、面倒なこともなかったと思います笑。でもまあ、やっちゃうんですね笑。若かったなあ。と思いますよ笑。
「夫婦善哉」は、あれでも発表当時は、「ほのぼのとした話」だったんですよね笑。山茶花究、司葉子、三好栄子は、演技力にムラがありすぎ、どれが代表作、という一定の評価が下せない役者ばかりですが(主役級か大部屋寄りか、というのもありますが)、マイベストは、山茶花究が「へそくり社長」、「とんかつ一代」(同じ監督で「とんかつ大将」があってややこしいですが、「一代」の方)、司葉子が「サラリーマン清水湊」「喜劇 駅前旅館」ですね。
淡島千景はヅカ出身という出自や、夫婦善哉以降、森繁のマドンナ役を30年近く勤めるという仕事ぶりもありますが、顔相がムーミンみたいなんで、おっとり基盤で貫いてますね。淡島千景が怖いのは、夫婦善哉以前の、岸恵子と佐田啓二が主演の「君の名は」の映画版(3作あります)だけかな、と思います。マイベストは、ほぼほぼ唯一、和装の女将さんではなく、オールドミスの陶芸家を、今で言うところのGAPやユニクロみたいなカジュアルファッションで演じた「貸し間あり」ですね。