今日の――というか既に昨日ですが、昨日のラジオがぼく的に面白かったので、内容をまとめた上で、ぼくの考えを付加しておきます。

 まあ、予定調和のラジオではないので当然のことながら色々と錯綜した話だったのですが、とりあえず主題となっていたのは『魔法少女まどか☆マギカ』あたりの話だと思います。

 『まどマギ』という作品は、ぼくたちが使っている言葉でいうと、「女の子をいじめる系統」の物語のひとつで、しかも「新世界系」と呼んでいる系統の作品でもあるというところから話を始めれば良いかもしれません。

 「新世界系」とは、たとえば『進撃の巨人』のような「突然に人が死んでしまうこともありえるようなきびしい世界の物語」です。

 で、『魔法少女まどか☆マギカ』のラストで主人公であるまどかがその「きびしい世界=現実」に対して下した判断とは、「たとえどれほどきびしい世界であるとしても、いったん下された決断は尊重されなければならない」というものであったと思うのです。

 つまり、たとえどうしようもなく死や絶望に繋がっているとしても、だからといってすべてを「なかったこと」にするべきではないということ。それが、それだけがこの死と狂気と闇黒が支配する地獄のような世界で、人間存在の尊厳である、と。

 つまり、ゼロ年代に隆盛を究め、並行世界やら逆行する時間やらを使ってさまざまな可能世界を描いたループものがたどり着いた結論とは「それでもなお、この世界は不可逆であるべきだ」、「なぜなら、それが人間が生きるということだから」というものだったと思うのです。

 「不可逆」。

 時は決して逆巻かないし、逆巻いてはいけないということ。これが、散々に時間を弄んできたループものがたどり着いた、あたりまえといえばあたりまえの結論であるわけです。

 たとえ時間をコントロールすることができるようになったとしても「自分が自分であること」だけはやり直すことはできない。だから、記憶が降り積もっていく。たとえば『Re:ゼロから始まる異世界生活』などはそういう作品でしょう。

 そして、これを突き詰めると、どういうことになるか? これはぼく個人の発想ですが「人間万事塞翁が馬」に行き着くと思うのですね。

 人間の身に起こることは簡単に良かったとか悪かったとか決めつけてはいけないと戒めることわざですが、ぼくはこの言葉を究極まで突き詰めて、「この世に起こることの一切は善とも悪とも、幸運とも悪運とも決めつけることができない」といい切りたいと思います。

 いい換えるなら、この世のすべては「正しい」ということ。栗本薫の『メディア9』の結末で、主人公(だったかな)が「すべては正しいのだ」と悟る場面がありますが、そういうことなのです――。

 わかってもらえるかな? これからぼくはまずなかなか理解されないだろうことをいうのですが、このブログの読者なら通じると信じて語ります。

 この話をするとき、ぼくが思い出すのは、やはり栗本薫の『グイン・サーガ』の外伝のひとつ『蜃気楼の少女』です。この話のなかで、主人公のグインはその世界の時間で3000年昔に壮大な宇宙戦争のあおりを食らって亡び、喪われた王国カナンの亡霊と出逢います。

 そして、その幽霊の少女へ向かってこういうことをいうのです。カナンはたしかに亡び、その地は荒廃した砂漠となったが、そこには3000年後のいま、新しい動植物たちが栄え、生き生きと暮らしている。かつてのカナン大帝国と、いまのノスフェラス砂漠と、いずれが良いとも正しいともいえない、と。

 換言するなら、カナンが亡びたことも「正しい」のだ、ということです。そう。これが非常に理解されづらい、いかにも常識に反した話なのですが――ぼくたちの生をどこまでも肯定し、ぼくたちが生きるこの歴史を「正しい」とするならば、人類の歴史上のすべての無残も、悲劇も、地獄すらも「正しい」といわなければならないはずなのです。

 つまり、アウシュヴィッツも、第二次世界大戦も、オウム事件も、9・11も東日本大震災もすべて「正しい」ということ。

 もちろん、それは人間の倫理で測って正しいということではない。しかし、どれほどの悲劇であれ、いったん起こってしまったことは受け入れるしかないのであって、「なかったこと」にしてしまうべきではないとぼくは思います。

 なぜなら、それそのものはどれほどの悲劇であるとしても、それもまた、果てしなく続く時のなかで、新たな生命や、まったく異なる運命に繋がっていくひとつのピースであるには違いないのだから。

 人間万事塞翁が馬――それは何が正しく、何が間違えているのか、何が悲劇であり、何が希望であるのかを人間には決めることができないという意味だと思います。

 たとえば東日本大震災はたしかに何万人もの無辜の人々の平穏な人生を破壊し、絶望に追いやったことでしょう。その意味で、あの天災は「なかったほうがいい」ものであったかもしれない。

 しかし、同時に、あの3月11日があったからこそ出逢った人々もおり、産まれた命もあり、そしてそこから繋がっていく新たな物語もあるのです。

 永遠に失われた何万かの命と、新たに生まれて来たいくつかの命、そのいずれに価値があり、いずれが重要であると、だれに決めることができるでしょうか? とすれば、人間の歴史とはそういうものなのだと受け入れるよりほかないのではないでしょうか。

 ある悲劇がある栄光に繋がり、ある没落が、ある興隆に繋がる。人間の意志を超越した、その果てしない、まさに果てしない永遠の流れ――それを歴史と呼び、物語と呼ぶならば、その歴史のなかで、一時だけ輝きを放つむなしい光点に過ぎないとしても、それでも、なお、一所懸命に生きるということ。それが人間にできるすべてなのではないでしょうか。

 ぼくはそう考えますし、そういう物語が好きです。「不可逆の物語」。しかし、ほんとうはすべての物語は決定的に不可逆なこの世界について語っているのです。ぼくは、そう思います。

 ヤーンなるかな――運命の御業なるかな、すべては。