「日本における人種差別」を描いたNIKEのCMが話題だ。


 例によってTwitterでは左と右に分かれた不毛な論争が巻き起こっているが、それは脇に措いて、なるべく冷静に考えてみよう。このCMは何か問題があるだろうか?

 初めにぼくの意見を述べておくと、「ぼく個人は「問題ない」と考える」が、「批判される理由もよくわかる」という立場だ。

 玉虫色の解答のようだが、現実はつねに中間色で、純白とか漆黒に分かれることはないと考えるので、べつにそれで問題はない。

 右であれ、左であれ、譲れない潔癖な正義を掲げる人たちは自分の信仰を守るために永遠の闘争を続けるのだろうが、「おれ達はもう飽きたんだ」、「お前らはまた別の敵を見つけ戦い続けるがいい」としかいえない。

 さて、ペトロニウスさんに教えてもらったのだが、このCMに対して肯定的な視点で語っている記事に以下のようなものがある。


 できればリンクから飛んで読んでほしいのだが、簡単に要約すると「NIKEの問題のCMは明確なビジネス的目的を持つものである。そして、このCMに対し怒っている「年長の男性」はNIKEのターゲットではない」という内容だ。

 一部を引用すると、このようなことも書かれている。

ということで、冒頭の質問……「なぜこのような『社会的な』CMが作られたのか?」に答えるのであれば、それは「それが売上につながっている」ということです。

彼らがターゲットにしているのは、社会問題に関心を持ち、人種差別に怒り、またそれらをSNSで拡散する力を持っているミレニアル以降世代、つまりZ世代などであり、ニューズウイークの言葉を借りれば「年長の怒れる白人男性」ではない、ということです。

 どうだろう? あなたはこの記事に賛成するだろうか? ぼくとしては「おおむね理解できるが、差別反対を掲げる論者がこのような意見を書いてしまって良いのだろうか?」と考えるところだ。

 というのは、ここで書かれていることはつまりは「おまえら年取った男はCMのターゲットじゃないんだからぐだぐだいうな!」ということでしかないように思えるからだ。

 記事の最後に「そこは年老いたもののの国ではない。」というイェイツの詩を引用しているところなど、「それ自体が差別ではないか?」とすら思えてしまう。

 この人はたとえば今後、女性差別的なCM、あるいはそれこそ在日朝鮮人を差別するようなCMが出て来た時に、「おまえはこのCMのターゲットではないのだから黙っていろ」とか、「そこは在日韓国人の国ではない」といわれたとしたら、それで納得して沈黙するのだろうか?

 そんなはずはないだろう。このような意見は反差別的なリベラル言論人の首を絞めるものではないだろうか?

 この記事を読んでもここでいう「年長の男性」たちがなぜ怒っているのかはわからない。かれらは頭の悪いネトウヨだからわけもわからず崇高な差別反対の運動に抵抗しているのだろうか? もしそのように考えるのだとしたらリベラルの傲慢としかいいようがない。

 ぼくが思うに、このCMに反対している人たちは「自分たちこそが差別されているのだ」と感じているのだ。だからこそ怒っているのである。

 どういうことか、まずはそもそも「差別」とは何なのかから考えてみよう。

 ぼくにいわせれば、「差別」とは多様な内実を持つある集団(たとえば黒人、たとえば女性、たとえば日本人)を単一のネガティヴな属性(たとえば軟弱、たとえば頭が悪い、たとえば犯罪者)で評価することである。

 だから「オタクは性犯罪者だ」といった言説は典型的な差別にあたる。ほんとうはいろいろな性格のオタクがいるのに、それを「性犯罪者」といった一種類のネガティヴな属性で塗り固めてしまうことが差別なのだ。

 いい換えるなら差別とは集団の多様性の否定であり、「単純で頭の悪い見方」そのものである。ここまではオーケー?

 で、これを認めるなら、そのある集団を「差別者」という「ネガティヴな属性」と告発することもまたひとつの「差別」である、ということも認めなければならない。「黒人は犯罪者だ」が差別であるのと同様、「日本人は差別主義者だ」もまた差別なのである。

 「おまえたちは差別主義者だ、このCMを見てよく反省しろ」という「上から目線の説教」そのものがじつはひとつの差別でもありえるということ、リベラル勢力が見逃しているのはまさにこの点ではないだろうか。

 しかし、ここで冷静になってあらためてよく考えてみよう。このCMはじっさいに「日本人は差別主義者だ」と主張しているだろうか?

 ここで重要になるのが、「日本人には差別主義者がいる」と「日本人は(その全員が)差別主義者だ」という主張の論理的な違いである。両者はあきらかに違っているのだが、ある種の人たちには区別しづらい。

 ぼくはこのCMは前者を語ってはいるものの、後者を語ってはいないと感じた。というのも、たしかにCMでは日本人による日本における人種的マイノリティへのいじめが描かれているのだが、だから日本人はいじめばかりしている人種だとはどこにも語られていないからである。

 故に、このCMは「差別」ではない、とぼくは考える。いちばん上に「ぼく個人は「問題ない」と考える」と書いたのはそういう理屈による。クオド・エラト・デモンストランダム(証明終了)。おしまい。

 いや、そうはいかないのだ。ここで話は終わらない。なぜなら、「ステレオタイプ」という問題があるからである。

 上の論理に従えば、こういうことがいえる。たとえば、ある作品のなかに、黒人が「邪悪なレイプ魔」として描かれていたとして、それは「差別」だろうか? 「差別」ではない。なぜなら、その黒人が「邪悪なレイプ魔」であると描かれているとしても、黒人全体が「邪悪なレイプ魔」であると主張したわけではないから、と。

 この理屈は一応は破綻していないように思える。だが、何か不穏なものを秘めていることもたしかだ。

 ある作品のなかにひとりの黒人しか出ておらず、その黒人がある「ネガティヴな属性」を象徴するように描かれていたとしたら、たとえ「黒人はみな邪悪なレイプ魔だ」といったメッセージを直接に伝えていないとしても、そこにはやはり「差別」があるのではないだろうか? そう思うのは無理がないところだと思う。

 これが「ステレオタイプ」の問題である。「ステレオタイプ」は狭い意味では直接の「差別」だとはいえない。上記の差別の定義にはあたらないからである。しかし、どうしてもそこに差別性を見て取らないわけにはいかない。

 直接的には「黒人はレイプ魔だ」とはいっていなくても、間接的に「黒人はレイプ魔だ」という「印象」を与えるからである。人間はべつだん、何もかも論理的に考えて判断するわけではない。この「印象」についてどう考えるのかというのは重要な問題だ。

 そして、ここまで考えて初めて、怒れる「年長の男性」たちが何に怒っているのかわかってくる。かれらはこのCMを「日本人は差別主義者だ」という「ステレオタイプ」として受け取めているのである。

 もちろん、かれらのなかには「日本には差別なんてないのに、ひどいCMだ!」と「日本人のなかには差別主義者がいる」という描写そのものを否定する人もいる。

 が、それはここでは無視しておく。どう考えても日本に人種的マイノリティを含むマイノリティ一般への差別やいじめが「一切」ないとは考えられないからである。

 問題は、このCMのなかには「差別的な日本人」以外が出て来ないという「ステレオタイプ」にもとづく「印象」なのだ。そんなあいまいな印象は無視すればいい? それなら、「黒人」や「在日朝鮮人」や「女性」がステレオタイプで描かれたときも怒ってはならないだろう。

 「日本人」は「ステレオタイプ」で描かれても良くて、「黒人」などはそう描かれてはいけないとするなら、それはまさに「差別」である。

 ぼくは軽微な「ステレオタイプ」的表現は許容されるべきだという立場だから、このCMを許容するし、ツイフェミの皆さんが騒ぐ「女性がステレオタイプとして描かれている」表現も許容する。両者に反対するのも良いだろう。

 ひとついえるのは、同じ「ステレオタイプ」の表現であるのに、片方には反対して、片方には賛成するといったダブルスタンダードは問題があるということだ。

 これが、この問題を「悪い差別に反対する賢くて意識の高いわたしたち」と「その意義が理解できず怒り狂う「年長のネトウヨ男性」たち」みたいな図式で理解している左派の論客には伝わらない。

 どうにか伝われば良いのだが。この記事はいま、SNSで永劫の戦いを続ける諸勢力に当面の「停戦合意」と「穏当な対話」を求めるものである。現実は反差別的な正義と差別的な悪に分かれるほどシンプルではない。世界は灰色なのだ。