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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』完全ネタバレレビュー「あなたのことが好きだから」12000文字!
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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』完全ネタバレレビュー「あなたのことが好きだから」12000文字!

2021-03-15 00:02
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     以下、全文にわたって『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の全面的なネタバレがあります。繰り返します。『シン・エヴァ』のネタバレありです。未見の方は間違えても読まないでください。読んでしまったうえで文句をいわれてもこちらは対応できません。オーケー? それでは、行きましょう。

     ◆◇◆

     何という正統(オーソドックス)な作劇であり、表現なのだろう。劇場で『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観終えたとき、最初に思ったのはそのことだった。

     端正といっても良いし、いっそ品行方正と評したい気持ちもある。とにかく、この映画はいままでの『エヴァ』とは決定的に違う。そう考えざるを得なかった。

     そもそも『エヴァ』は、毎回毎回、その強烈なインパクトで見る人を驚かせてきた作品である。

     その当時のテレビアニメの常識から大きく逸脱した内容から「自己啓発セミナー」という批判も生んだテレビシリーズの最終回、そのあまりにショッキングな結末から伝説となった「旧劇場版」、また、『エヴァ』の陰鬱な印象を塗り替えたかと見えた『新劇場版:破』、そしてそこから一転、再び悪夢的な物語を描く『Q』と、『エヴァ』はつねにスキャンダラスなまでに衝撃的な内容をともなっていた。

     必然、その評価はつねに賛否両論であったが、それにもかかわらず一貫してファンは拡大し、『エヴァ』の「作者」としての庵野秀明の声望もまた高まっていったのである。

     しかし。

     『シン・エヴァ』はここに来てまたもいままでの『エヴァ』を裏切る。そこで描かれたものは、初めに「正統」と述べたが、あるいは「王道」とも評したいような再起と成長の物語だったのである。

     なぜ、こうなったのか。「つまりは庵野秀明も衰えたのだ」、「年老いて凡庸な成長物語に回帰するしかなかったのだ」とシニカルに見透かした態度を取ってみせることはたやすい。

     だが、『エヴァ』という圧倒的に真剣に制作されたことがあきらかな作品を前にして、そういった自己防衛的姿勢はいかにも安易に思える。ここでは、「そもそも『エヴァ』とは何だったのか」を一から振り返って、『シン・エヴァ』の真価を問い直してみることにしたい。

     それでは、そもそも『エヴァ』とは何だったのか。いまとなっては大昔とも思えるテレビシリーズ、その少なくとも前半において、『エヴァ』は「かつてないほどシリアスなハードSFエンターテインメント」であるように見えていたように思う。

     むろん、この作品に何を見たのかは人それぞれではあるだろう。ただ、いままで何度となく語られているように、途中までこの作品は「ただひたすらに無類に面白い娯楽アニメーション」として消費されていたと思われるのだ。

     その物語的な「面白さ」がピークに達するのが第19話「男の戦い」であることも異論の少ないところだろう。このエピソードにおいて、主人公・碇シンジはひとりの「男」として父と対峙し、自ら決戦兵器「エヴァンゲリオン」に搭乗してあれほど怖れていた「使徒」との戦いへ向かう。

     『エヴァ』の後半の展開を「女性的なるもの(ガイネーシス)」の噴出として捉えた小谷真理の批評を引用するなら、ここでシンジはようやく明確な「男性性」を確立し、そのスーパーロボットパイロットとしての天才を存分に発揮して、「使徒」に立ち向かう。

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     それはいかにも「正しいロボットアニメ」的展開であり、陰鬱さを増しつつあったストーリーはここから一気に盛り上がりを増し、気宇壮大な決着へと向かうかと見えた。

     そう、たとえば庵野が若き日に監督した『トップをねらえ!』のような、センス・オブ・ワンダーあふれる終結を期待した向きは多かったことだろう。

     ところが、いまではだれもが知っているように、そうはならなかった。むしろ、この第19話を経て、『エヴァ』のストーリーは「崩壊」していく。最終2話を残した第24話においてシンジはついに完全に立ち上がれなくなる。

     そして、その後の第25話、第26話で綴られたのは、これもまた皆さんがご存知の通り、当時、「自己啓発セミナー」と揶揄されたような、徹底して生身のリアリティを欠いたシンジの心の「補完」だったのである。

     往年の天才SF作家コードウェイナー・スミスの『人類補完機構』を持ち出すまでもなく、きわめて壮大で意味深なSF的イメージを意味するものと考えられていた「人類補完計画」の行き着いたところがこれだった。

     あえて否定的に話すなら、「人類」を「補完」する「計画」という、あまりにも雄大な構想を思わせるジャーゴンは、結局はただ思春期の中学生の精神を安定させるためだけの洗脳技術でしかなかったということもできる。

     その意味で、この最終回について当時、賛否両論の激論が巻き起こったことは必然であっただろう。

     そして、その後、この賛否両論を受けて、ふたつの劇場映画、『シト新生』と『Air/まごころを、君に』が制作される。それに対し、「今度こそ」と考えたファンはやはり少なくなかったであろう。「今度こそすべての謎が解き明かされ、人類補完計画の全貌も判明し、人類全体の問題を巡るSF的クライマックスを迎えるだろう」と。

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     しかし、結果を語るなら、その『旧劇』でも、数多くの謎は謎として残り、物語が「正しいロボットアニメ」的なカタルシスを迎えることはなかった。何といっても、この作品でシンジは最後まで「エヴァに乗る」ことを拒絶するのである(正確には、乗るには乗ったが、それを使って颯爽と戦うことはしない)。

     これはロボットアニメの長い歴史上、あるいは「少年向けエンターテインメント」のさらに長い歴史のなかでも、おそらくは初めての展開だったと思われる。シンジはだれかのために戦うことそのものを放棄したのだ。

     そして、「人類補完計画」を象徴する赤い海から抜け出したシンジがたどり着いたところ、それはヒロインのひとりである惣流・アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」というひと言に象徴される「他者という名の地獄」であった。

     当時、これはやはりひとつの「事件」だった。かくいうぼく自身、この『旧劇』を見終えたあとは、あまりのことに呆然として劇場を出て来たことを記憶している。それは何という「狂気」に満ちた映像と物語であったことだろう!

     たしかに、それまでにも陰鬱な展開と激烈な内容で知られたテレビアニメはあった。たとえば『無敵超人ザンボット3』。あるいは、『伝説巨神イデオン』。さもなければ、『機動戦士Ζガンダム』。

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     そういった、いまでは「黒富野」作として知られる作品群は、『エヴァ』の前史を成し、『エヴァ』を予告するものであったということができる。『エヴァ』は決して孤立した異端の作品ではない。長い「少年向けヒーローエンターテインメント」の歴史のなかに正しく位置付けられるべき一作なのである。

     だが、それにしても『旧劇』のインパクトはただならないものがあった。これ以降、『旧劇』はその「オタク批判」として受け取られたメッセージとともに伝説的に語られることとなる。

     そして、それからしばらくの時を経て、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が始まる。総監督・庵野秀明は、今度はこのように語った。

    最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。
    当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、
    誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。

     「誰もが楽しめるエンターテインメント映像」。じっさい、新劇場版四部作の前半の『序』と『破』はその宣言にふさわしい作品であった。この時点では、いったん終わった作品を再開させることそのものに対する賛否はあったかもしれないが、それでも「賛」のほうが圧倒的に優勢だったといえるだろう。

     だが、続く『Q』で事態は一変する。そこで描出されたもの、それは一挙に14年もの時を飛び越えさせられ、変わり果てた世界に困惑する碇シンジと、かれに辛くあたる(ように見える)人々だった。

     そこでシンジは世界を再生させようとして失敗し、親友・渚カヲルを喪って再び絶望の底に突き落とされる。ここにおいて、『新劇場版』はまたも『旧劇』と同じ隘路に迷い込んだ、かと見えた。

     このとき、『Q』を『旧劇』を再演する物語として見た人は多かっただろう。『Q』とは即ち、『旧』の意味であり、『破』によって進展したかと見えた物語の針を逆転させる作品なのである、と。

     そこにはうつ病に陥った庵野秀明のそのときの信条が露骨に反映されているのだという解釈もまことしやかに語られた。たとえばこのように。

    『破』でシンジが綾波を呼んだ魂の叫びは何の意味も持たないどころか最悪の事態を引き起こし、画面は赤と黒に染め上げられ、床には巨大な頭蓋骨が一面に敷き詰められていたのです。これは誰もが楽しめるエンターテインメントなのだろうか? という疑問は、今も払しょくされてはいません。

     それからしばらく、アニメ系ライターとして活動していた筆者の携帯には友人からの問い合わせが殺到しました。みんな答えを求めていましたが、筆者自身、何も答える術を持っていなかったのです。

     後に庵野監督は『Q』の制作後、ひどいうつ病を患い、自身が設立したアニメ制作スタジオ「カラー」に近寄ることすらできなくなったことを明かしています。確証はありませんが、庵野監督は制作後ではなく、制作中からうつ状態になっており、当時の心理状態が『Q』に投影されてしまった可能性もあります。


     しかし、少なくとも『シン』を観終えたいまになって振り返ってみるなら、『Q』は決して「作者」のそのときの気分によって野放図に創られた作品ではなく、むしろ台詞のひと言ひと言に至るまでが緻密に計算された映画であったことが判然とする。

     あるいは、シンジが叩き落とされた恐怖と絶望は『旧劇』と同種のものであるかもしれない。しかし、シンジを取り囲む人々が決定的に違う。

     これも『シン』まで見てみるとあまりにも自明のことにも思えるが、『Q』で描かれたものは『エヴァ』テレビシリーズでくり返し描写されたような、あまりにも互いの距離が近すぎることに起因し複雑な多重トラウマに根ざした近親憎悪めいたヤマアラシのジレンマ的ディスコミュニケーション「ではない」のである。

     おそらく、『新劇場版』を解釈しようとするとき、最も解釈が分かれるのはこの点であると思われる。『Q』を『旧劇』と同種の「鬱展開」と見てしまったなら、『新劇場版』全体が理解できなくなる。

     そこで描かれたものがきわめて陰鬱かつ陰惨な物語であったたしかだが、それにもかかわらず、ぼくたちはそこに「希望」を見るべきだったのだ。じっさい、『Q』の公開当時、ぼくはこのような文章を書いている。

     『Q』はシンジとカヲルの共依存的なクローズドな関係性というドリームを見せ、その破綻まで描いているという意味でたしかに「鬱展開」の物語ではあります。ある意味ではたしかにそれは旧作の「鬱展開」をもう一度くり返しているといえないこともない。

     しかし、それでいて作品全体は旧作とは決定的に違っている。なぜか。それは世界そのものがオープンな方向に舵を切っているからです。世界はもはや共依存の地獄に閉ざされているわけではなく、群像劇の方向へと開放されているのです。

     たしかにシンジとカヲルの関係性の破綻というそのイベントだけを見れば、そこにあるのは昔なつかしい狂い歪んだ人間関係なのだけれど、しかし、今回は「それではない」「その方向性は間違えている」ということははっきりと示されている。

     そして「より正しい」方向への「道」も示されている。それがシンジとアスカ、レイ(のクローン?)が歩み出すラストシーンです。ここで重要なのは、そこにあるものが「ふたり」の閉ざされた関係ではなく、「三人」という開かれた関係であることです。

     「ふたり」ではたがいをひたすらに見つめ合う歪んだ関係が生じえますが、「三人」はそれじたい小さな社会です。そこではシンジとカヲルという「ふたり」の関係のオルタナティヴとしての「三人」がここでは明確に志向されている、とペトロニウスさんやLDさんは読んでいるようです。

     したがって『Q』はいかに凄愴であっても、世界が滅びかけていても、基本的には明るい希望の物語なのです。だからこそ『Q』に対しては「物足りない」「いままでの『エヴァ』のような狂気が感じ取れない」といった声が集まりもしました。

     それでは「『エヴァンゲリオン』の狂気」とは何か? それは結局、関係性の歪みに起因する果てしない歪んだ展開の連鎖に集約されるものだったと思います。つまり、どこまで行っても開放されることなく、果てしなく暗黒の共依存に閉ざされた世界。どんなに努力しても健全な関係を築くことができず、大人として成熟していくこともできないアダルトチルドレンの箱庭。それがつまり『エヴァ』の「狂気」であったのでしょう。

     今回、「希望」を志向し、「王道の娯楽作品。エンターテインメント」へと向かっている『新劇場版』が、そうした「狂気」を失くしたように見えることはむしろ自然なことです。ある意味では「狂気」を克服しつつあるといってもいい。

     そこにあるものは、もはやひたすらに狂気と暗黒に淫する物語ではありません。もちろん、そうかといって急速に楽観的な空気に変わるはずもなく、暗黒と絶望はそこかしこにあるのだけれど、しかし、もはやそれに捕らわれて足を止めはしない、それが『新劇場版』なのです。

     旧作のような暗黒と狂気の物語に対して、明暗の物語とでもいばいいでしょうか。光と闇、希望と絶望、善意と悪意とが、縄のように分かちがたく編みこまれた物語世界。たとえば『ベルセルク』の「蝕」以降の物語にも似ているかもしれません。

     『ベルセルク』も、その暗黒と狂気がクライマックスに達する「蝕」のエピソードで、「抜けた」印象があります。それ以降の『ベルセルク』は、むろん甘い感傷にひたることを許さない厳しい展開ではあるにせよ、ひたすらにダークなだけではなくなりました。

     恐ろしい暗黒の展開を通して「しかし、そうはいっても世界は暗黒ばかりではない」「悪意と絶望だけでできているわけではない」という「悟り」にいたったようにも思えます。一方で『軍鶏』のようにいつまでも暗黒の展開ばかりが続き、その先が見えない物語もありますが、しかし基本的にはぼくは暗黒を抜けて「その先」へと至った物語が好きです。

     つまり、世界には二面性があり、そのいずれかに目を取られることはほんとうではないということです。世界は闇だけでできているわけではなく、もちろん光だけでできているわけでもない。悪夢のように残酷な一面があったかと思うと、限りなく甘い一面もある。それが世界。

     その真実を悟ったならば、もはや「他者」は恐怖ばかりを喚起する存在ではなく、喜びを生み出す存在ともなりえます。カヲルくんのように100%すべてを受けいれてくれるわけでもないけれど、そうかといって逆に100%拒絶されるわけでもない、自分の態度しだいで白とも黒とも見えてくるほんとうの意味での「他者」がそこに出現するのです。

     その後に出てくるものは「健全な等身大の人間関係の構築」というテーマでしょう。ようするに「友達をつくる」ということ。そのためには、自分から「最初の一歩」を踏み出す必要があります。

     この「一歩」がいちばんむずかしく、勇気がいることはたしかですが、しかし、その「一歩」さえ踏み出したなら、その先には善悪明暗いり混じる豊穣な世界が広がっています。『魔法先生ネギま!』で最後の最後に語られていたように「わずかな勇気が本当の魔法」なのです。

     少しだけ勇気を出して「最初の一歩」さえ踏み出せば、あとは転がるようにして展開が変わっていくこともありえる。それは『エヴァンゲリオン』旧作のような暗黒と絶望と狂気の展開に魅力を感じるひとにとってみれば、いかにも甘ったるい結論であるように見えるかもしれません。

     しかし、世界は一面ではたしかに甘いのです。決してひたすらに「気持ち悪い」と拒否を伝えてくるだけではない。それが、それこそがぼくたちの「希望」。巨大地震が起こっても、原子力発電所が爆発しても、なお連綿と続いてゆくぼくたちの日常を輝かせる希望です。

     続く『シン』は積極的にその希望を語る物語になるかもしれません。何も絶望する必要などない。世界は終わりなどしない。物語はいつまでも続いてゆく。ぼくもそう思い、そう信じ、次なる作品を待とうと思います。

     「絶望」から「希望」へ。「狂気」から「解放」へ。時代は劇的に変わっていく。次回作を楽しみにしましょう。それはきっと、ぼくたちが見たいと望んでいるものを見せてくれるはずなのですから。


     『シン』を観たいま、この見方はまずは正しかったといって良いだろうと感じる。

     『シン』は『Q』と裏表を成す物語だ。『Q』でシンジを追い詰めた言葉、態度は再解釈され、その真意が洗い出される。『Q』ではシンジを徹底的に追い詰めていった人間関係は今度は底知れない優しさでかれを快復させる。

     そして、かつて、テレビシリーズで「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」と叫んだシンジはここでなぜ皆が自分にこれほど優しくしてくれるのかと当惑するのだ。その答えは「あなたが好きだから」。

     凄惨なうえにも凄惨だったはずの物語は、ここに至ってきわめて穏やかな、優しい顔を見せる。しかし、シンジを取り囲む状況の酷烈さは変わっていない。

     シンジ自身がひき起こした「ニア・サードインパクト」を経て、人類の生存圏はごく狭く限られたものへと変わり果てている。その生活状況の一端を垣間見せるのが、シンジが放浪の果てにたどり着く、いわゆる「第三村」の描写である。

     ある種の農村社会とも限界集落とも解釈できるその「第三村」を、シンジやアスカとともに訪れた「黒綾波」とも呼ばれる「初期ロットの綾波シリーズ・クローン」は、そこで農作業を通して社会生活を学び、ほんの少しだけ人間的な成長を遂げる。

     おそらく、この展開に鼻白む層も大勢いるはずだ。「何だ、結局は現代のデジタルな生活に馴染んだオタクに素朴な農村生活へ帰れ、とでもいうのか」。

     そうではない。そもそも、一見すると素朴なこの農村の生活は汎人類規模でネルフ撲滅を目ざしていると思われる組織「ヴィレ」の超高度な科学技術の支えなしにはありえないものである。

     ここでは「都市/田舎」、「科学/農耕」というシンプルな二項対立的図式では世界を読み解けない。

     また、重要なのは、レイが村の生活に馴染んでいく一方で、アスカはその「労働」にまったく参加せず、シンジはひとり自分の殻に閉じこもりつづけることだ。ここでは、それぞれの個性にもとづく行動がパラレルに、群像劇的に描写されている。

     シンジが「ヒーロー」から追放される前作を経てのこの展開は必然であっただろう。ここにおいて、シンジはただひとり世界を救う英雄ではなく、無数のキャラクターのひとりとなっている。

     その後、紆余曲折を経てシンジはまたも「エヴァに乗る」。さて、このとき、かれを快復させ再起させたものは何だろう? それは結局、「適切な距離感の人間関係」と「ひとりで考え抜く時間」であったというしかない。

     「第三村」でシンジと再会したかれの旧友トウジとケンスケは、シンジを追い詰めることをせず、また見捨てて放置することもしない。徹底して「適切な距離感」を保ちつつかれを見守るのである。

     かれらはまたシンジに対し「エヴァに乗れ」とも「エヴァに乗るな」とも命じない。ただ、シンジがいつかまた立ち上がることを信じ、見守るだけである。トウジやケンスケは口々にいう。「ニアサーも悪いことばかりじゃなかった」。「友達だろ?」。

     こういった切ない友情によってふたたび絶望から立ち上がったシンジは、エヴァに乗り、父ゲンドウとの決戦に臨む。十数年ぶりの再会を遂げたマリからアスカの魂を救出することを求められたシンジが返すひと言は感動的である。「やってみるよ」。

     きわめて穏やかな、あるいは小さな決意。それは世界を救う英雄の宣言というより、もっとあたりまえの少年の素顔から出た言葉のようだ。

     思えば、『エヴァ』に前後するロボットアニメ、ヒーローアニメはひたすら主人公を追い詰め、追い込んで来た。それはたとえば『Ζガンダム』においては、主人公を発狂させるところまで至っているのだ。

     『エヴァ』とは、そのような歴史のなかで、それでもなお「エヴァ(ロボット)に乗る」べき理由とは何か、それを延々と探し求める物語であったということもできるであろう。

     そのため、『シン』がついにたどり着いた結論は、いかにも素朴すぎるものに思われるかもしれない。シンジはただ「自分がやれることをやる」ために「エヴァに乗る」のである。

     ここにおいては、もはや本質的に「エヴァに乗るかどうか」は問題ではなくなっている。かれはただ「自分の起こしたことに決着をつける」、そのための方法としてエヴァを使っているだけであって、エヴァ初号機が必要なくなったらすぐにそこから降りて、ゲンドウとの対話を始める。それはまさに成熟した「大人」の態度だ。

     「大人」。『シン・エヴァ』で(特にマリやゲンドウの口から)くり返されるこの言葉が『シン・エヴァ』を象徴するものであることは間違いない。碇シンジは幾多の苦難と絶望を通してついに大人になった。成熟を遂げたのだ。

     思えば『エヴァ』とは「成熟が困難な時代に成熟を目ざす物語」であった。それは『エヴァ』の「作者」である庵野秀明の自身の未成熟さに対する煩悶が投影されたストーリーであるともいわれる。

     おそらくその通りなのかもしれない。しかし、『エヴァ』がただそれだけの作品であったのならこれほどまでに広く評価され、熱狂的なファンを生み出したはずはない。

     『エヴァ』が熱く厚く支持を得た背景、それは、いつまで経っても「男らしく」なれない、「成長」も「成熟」もできない碇シンジに「シンクロ」させる「時代の空気」があったからに他ならないであろう。

     したがって、『エヴァ』はたとえどれほど「私小説」的であるとしても、きわめて普遍性の高い「エンターテインメント」でありえたのである。その『エヴァ』がここに来て「大人になった碇シンジ」を描き出したことに対する抵抗は根強いものと思われる。

     「おれたちはそう都合よく大人になんてなれないよ!」という悲鳴が聴こえてくるようだ。「おれたちを見捨てて勝手に大人になんてなるな!」と。

     インターネットには例によって例のごとくそういった呪詛とも受け取れる「感想」や「批評」が散見される。そういった記事がはたしてどこまで「感想」ないし「批評」と呼べるレベルに到達しているかはともかく、少なくともそれらは正直な意見ではあるだろう。

     また、かれらが『エヴァ』に求めた「狂気」が今回の『シン・エヴァ』に欠けていたことも事実だろう。たしかに今回の『エヴァ』は「何が何だかよくわからないがとにかくすごい!」といいたくなるような作品ではない。

     『シン・エヴァ』は間違いなく複雑難解をもって知られる『エヴァ』の歴史上最も丁寧でわかりやすい作品である。その情報量こそ膨大だが、ほとんどすべての大きな謎がこの上なく丁寧にひも解かれ、観客はある種の「憑きもの落とし」を受けて劇場を出ることになる。

     いかにも『旧劇』を思わせる楽屋落ち、あるいはメタフィクション的な前衛手法すらも今回は観客を混乱に突き落とさない。人類と生命を巡るスーパーマクロなドラマは親子のミクロな葛藤に終息し、穏やかな対話を経て決着する。

     それは、何という穏やかな、優しい、しみじみと心に染み入るような展開であることだろう。ここには『エヴァ』の持ち味であった「狂気」も、『新劇場版』をつらぬいていた「殺気」もない。

     あえていうなら、そこにあるものは「永遠に理解しあえず、溶け合うこともできない他者への思いやり」という、あまりにあたりまえの、自然な人間的心情である。

     はたしてそこには、庵野秀明自身の成長や成熟が投影されているのだろうか。そうかもしれない。庵野秀明は『エヴァ』シリーズや『シン・ゴジラ』を経て、いまや日本を代表する映画監督であるにもならず、一企業の経営者として、また、役者として、声優としても大きなキャリアを持つ、マルチタレントな人物として立派な「大人」になっている。

     その奇人変人らしさはあいかわらずなのかもしれないが、少なくとも同輩であったガイナックスの同僚たちのような醜態は見せない。そしてまた、経営者として、経済人としての庵野のクレバーなインテリジェンスはいっそ意外なほどのものである。


     「成熟が困難な時代に成熟を目ざす」。庵野の、そして『エヴァ』のその挑戦は徹底して真摯かつ誠実なものであった。

     あえて個人名を出しはしないが、『エヴァ』に関する批評の歴史においては、つねに庵野や『エヴァ』の「幼稚さ」を皮肉り、「大人」である自分自身を誇ってみせた人物がたくさんいたものだ。

     しかし、いまになって思う。はたしてそういった人物たちはどれほど「大人」になれただろうか。あるいは庵野は「精神年齢14歳の子供」に過ぎなかったかもしれないが、かれはそこから逃げなかったのではないか。

     だからこそ、かれは最終的にひとりの「大人」として、自分が生み出した作品に決着をつけることができたのだ。

     ぼくは『シン・エヴァ』という巨大なプロジェクトの成果を、既存のメディアに露出した情報を適当にパッチワークして作り上げたイマジナリィな庵野のイメージ(つまりは「脳内庵野秀明」)に集約する「私感想」的解釈につよい違和感を抱くものであるが、一方で碇シンジや碇ゲンドウの「未熟」と「成熟」の描写が庵野の内心が投影されたものであることを完全に否定することもできない。

     おそらく、庵野自身が心理的な成長を遂げたことと、『シン・エヴァ』の内容は不可分なのかもしれない。

     『シン・エヴァ』には鬼面人を驚かすサプライズやインパクトは薄い。正確には、それらは過去の『旧劇』のカタストロフィのイメージの再演として描き出される。

     「こんなものはしょせん二番煎じに過ぎない」と失望してみせることもできるが、ぼくはそうは思わない。ここで重要なのは、テレビシリーズから『旧劇』、『新劇場版』を通して『シン・エヴァ』に至るテーマの一貫性である。

     『エヴァ』とはひっきょう、「大人になろうとして、なれずにもがく」物語であった。その結末が「いつのまにか大人になっていること」であったことは必然であろう。

     ここであえてさらに問題を提示してみせるなら、その「成熟が困難な時代」そのものがすでに過去となっている事実を指摘することができる。現代とは「成熟できない人間は見捨てられて死んでいく時代」であり、『エヴァ』のテーマはあまりにも古くさいということも可能だろう。

     だが、そうだろうか。『シン・エヴァ』においては、いつまでもなかなか成熟できないシンジを、トウジは、ケンスケは、アスカは、レイは、マリは、決して見捨てない。世界がこれほど過酷さを増しても、なお、かれらはシンジを見守りつづける。

     その理由はたったひとつ、「あなたが好きだから」。

     ここにはいままでの「前期/後期新世界系」作品、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』や『チェンソーマン』にはない親しみと優しさがあるように思う(正確にはそれらの作品にも紛れもなく「優しさ」はあるが、『シン・エヴァ』のそれはもっとプライベートな親密さに根ざしているようだ)。

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     その意味で『シン・エヴァ』は圧倒的な未見性で視聴者を置き去りにする作品ではないが、ほんとうにしみじみと優しく心を撫ぜて来る映画である。

     この作品を置きみやげに、庵野やスタッフは『エヴァ』と別れ、「次」へ行くだろう。そして、ぼくたちもまた、『エヴァ』に別れを告げるときが来たようだ。

     「こんなものは庵野の私小説でしかない!」と憤懣をぶつけることは自由だが、ぼくにはその態度はどうしようもなく子供っぽく思える。ついに人類が「補完」されなかった以上、わたし(あなた)は庵野秀明ではなく、庵野秀明はわたし(あなた)ではない。

     「わたしたち」のあいだには無限の空漠が存在し、それを乗り越える方法は存在しない。わたしたちは永遠に孤独だ。しかし、まさにそうだからこそ、わたしたちは「ほのかなぬくもり」を求めて他者と触れあう。あいてを傷つけ過ぎないように、どこまでも優しく。

     『シン・エヴァ』は、いまや大人の余裕と自信を感じさせる、映画監督・庵野秀明とスタジオカラーの最高傑作である。この映画の大ヒットを、心より祈る。

     最後に、庵野秀明監督、スタッフの皆さん、素晴らしい作品をほんとうにありがとうございました。『シン・ウルトラマン』、そしてそのまた次の、次の次の作品を期待しながら待つことにします。いつまでもあざやかな夢を見せてください。

     すべてのチルドレンに、ありがとう。そして、さようなら。
     
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