日本的ソーシャルメディアの未来 (PCポケットカルチャー)

 このあいだラジオをしていて、ぼくが自分の活動のことを「「ごっこ遊び」のつもりでやっている」と表現してみたところ、友人のペトロニウスさんに怒られた(笑)。

 かれによると、「ごっこ」というような逃げ道を用意しておくのは良くない、また、そういう言葉を使っていると、言葉には言霊が宿っているからほんとうに成功できなくなってしまう、ということだった。

 一理ある、というか、非常によくわかる話である。ぼくとしてはべつだん逃げ道を用意しているつもりではなく、ただほんとうに夢中になって「ごっこ遊び」をしているだけなのだが、たしかにやるなら真剣にやるべきだろう。

 とはいえ、ぼくのつもりでは真剣にやっていないつもりは微塵もないのだ。ただ、どれほど真剣にやっていても、やっぱりこれは「真剣にやるごっこ」なのだ、という視点が抜けない。

 これはもう、病気のようなもので、普段からどこかでメタレベルから自分を見下ろす視点が存在しているわけである。それは一定以上読書したり、映画を見たりしているひとならごく普通に持っている感覚だと思うが、ぼくはわりとそれが強いタイプだ。

 いつもマクロの視点からミクロの自分を見下ろして笑っているようなところがある。どうしても「無名の一シロウトのくせにブロマガランキングで首位を取ろうとか、バカだなあ」と思ってしまうのだ。

 とはいえ、それで手を抜くかというと、まったくそんなことはなく、自分なりに真剣にやるのである。それはもう、ヒーローごっこに熱中する子供さながらに。そして、どんなに熱心にヒーローを演じている子供たちも、本心では自分がヒーローではないことをわかっているように、ぼくもまた、野心的にトップを目指したりする柄ではないことを心の底では理解している。ぼくがいう「ごっこ遊び」とはだいたいそんな意味だ。

 ちょうど為末大さんが『「遊ぶ」が勝ち  『ホモ・ルーデンス』で、君も跳べ!』という本を出すようだ。ホモ・ルーデンスとは歴史学者のヨハン・ホイジンガが提唱した概念で、「遊ぶヒト」の意味。為末さんもまた、「遊び」という行為に何かしらの可能性を見出しているのだろう。

 ひょっとしたら、かれにとっては、陸上選手として世界の頂点を目指した日々も、ひとつの「遊び」として認識されていたのかもしれない。ひとつのジャンルで世界一を目ざすという、途方もなくむずかしく、だからこそ面白い「遊び」。

 遊びといえば、ひとつおもしろい話がある。『日本的ソーシャルメディアの未来』という本に書かれている人気MMOPRG『ファイナルファンタジーⅪ』の話だ。少々長くなるが、引用してみよう。

濱野 オンラインゲームは周りに死ぬほどはまっている人が多すぎて、逆に僕ははまれなかったんです。昨日もロフトプラスワンのイベントに大学時代の同級生だったtokada君という人が出てくれたんですけれども、彼は「ファイナルファンタジーXI」(FFXI)というゲームを6000時間プレーして、ラスボスとして設定されていた敵を日本で一番早く倒したチームに在籍していたんです。

 これはけっこう面白いポイントなんですが、当時のtokada君たちの攻略方法がすごいんですね。オンラインゲームって18人とかでチームを組んで敵を倒します。FFXIの場合はアライアンスというんですけどもね。だから、この18人とかで長期的に連携・協力しながらプレイしないと、ラスボスなんて倒せないんです。

 でも、ここでゲームの場合は問題が生じます。アライアンスは会社とか企業のような組織ではないから、うまいことチームメンバーのモチベーションを保てないんですね。論功行賞というか、人事評価しすてむみたいなものがアライアンスには備わっていないから、そんなに長期的にみんなで協力するといってもうまくいかない。

 例えば、ラスボスを倒すためには強力なレアアイテムが必要で、そのアイテムは5000体モンスターを倒して1個しか出てこない。その1個のアイテムを、18人では共有できないんですね。1個の目標のために、18人が協力するのは大変難しい。誰かひとりしか装備できないからです。では、どうすればいいか。

 そこでtokada君たちは、モンスターを5000体倒す間にゲットできるレアアイテムも含めて、各メンバーの貢献度を全部計算する仕組みを作って、それぞれが働いた貢献度に応じてほかのアイテムを売ってお金にして分配するという、簡単に言うと業績評価システムを作ったんです。FFXIには組み込まれていない評価システムを、自分でプログラムを組んでWeb上に作り、それを介して何十人規模のチームのモチベーション管理をやる。それで「誰よりも早くラスボスを倒した」という話を聞いたときは、こりゃすごいと思いました。ただの遊びにそこまでやるのか、と。