弱いなら弱いままで。
21世紀の神話世界! リアリズムを超越し善悪の果てない死闘を描く『ダークナイト・ライジング』に驚嘆。
たしかに非現実的なアメリカンコミックの世界に仮託し、現代の問題を描写する超絶演出は、21世紀の映像空間に神話世界を現出させたと云っても過言ではない。
バットマン――コウモリの仮面に姿を隠し、夜な夜な、かれにとっての悪を成敗してまわるなぞの男。
このあまりに荒唐無稽な、子供の夢想じみた人物を、しかしノーランはリアリティあふれる同時代的ヒーローにまで高めてみせた。
その苦悩と絶望は三作目の『ダークナイト・ライジング』に至ってまさに神話の英雄の域に達する。
多くのひとは第二作の『ダークナイト』をシリーズ最高傑作に挙げるかもしれない。じっさい、あれは素晴らしい映画だ。
だが、ぼくとしては革命の美名のもと、巨大な伏魔殿と化したゴッサム・シティを舞台に、壮大な善と悪のハルマゲドンを描いた『ライジング』(原題では『rises』)に軍配を上げたい。
というか、ぼくはこちらのほうが好きだ。
たしかに『ダークナイト』は、アメコミ映画のイメージを一新するほどダークでインテリジェントな作品だった。
ヒース・レジャー演じる悪の化身ジョーカーは映画史上屈指の悪役だろう。
その深刻な描写に比べると『ライジング』はシンプルな善悪の対決に後退していると見るひとも少なくないと思う。ようするにありふれた勧善懲悪映画ではないか、と。
一理ある。しかし、それでは人間悪の化身、絶対悪を執拗に描けばそれだけで傑作に仕上がると云えるのだろうか?
もちろんそんなはずはない。『ダークナイト』の絶対悪の描写は、今後も容易に乗り越えられないであろうレベルに達している。
それを直接に描きつづけても、二番煎じに終わるであろうことは明白だ。
『ライジング』はおそらくは意識して絶対悪の追求を切り上げ、善と悪の戦いにテーマを絞りなおし、そこに「革命」というテーマを持ち込むことによって新たな傑作に仕上げた。
『ダークナイト』がバットマンの敗北を描いた映画だとしたら、『ライジング』はささやかな勝利の物語だ。
それは勝利と呼ぶにはあまりに悲愴であるかもしれない。とはいえ、
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