努力についての発言はいつも世の中の反応が多いように思う。努力すれば成功できるのかどうか。これはある意味で取引の社会では根幹を成す重要な事で、アメリカで感じたのはあの国はアメリカンドリームがあるのではなく、あると仮定しないと不満が爆発してしまうという事だった。
成功をある程度成功率が高いものにおくのであれば、努力すれば夢は叶うと思う。でも五輪選手になるとか、かなり少ない席の話であれば誰でもできるわけではなくて、才能と、環境がまず重要だと思う。そのスポーツをやる環境に生まれた事が、努力よりも先にくる。
努力には三つある。何を、どうやって、どのくらい。努力を怠らないと言っている人が、どのくらいだけを話している事が多い。自分で選んだ道でもなく気がついたら歩いていた道でただ耐えて積み重ねる事は努力を怠っているともいえる。選ぶ努力は結構辛い。
これらの発言を、ネガティヴなものと受け止めるひともいるかもしれない。いくら努力しても才能には及ばないのだからあきらめろ、と云っているのだと。
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いつも楽しく拝読しております。近頃まとめ読みになっているので少し前への記事へレスしますが、ご容赦を。
この、『ポジティヴな絶望』という言葉には非常に共感するものがあります。
僕の大好きな小説である上遠野浩平先生の『ビートのディシプリン』にも似たような部分があります。
『できることと、できないこと――そのできることの中で、さらにできることと、できないことを知っている――知るのを途中で放棄しなかった、その底無しのような追求と研鑽(ディシプリン)の先にあるのが“これ”だった。
自分を知る――たったそれだけのこと。』
主人公ピート・ビートは能力者モノにありがちな未知の能力とか、覚醒や成長の余地であるとかをほとんど一切もたず、自分の能力の使い方であるとか、戦い方であるとか、それのみで強敵と渡り合います。
このあたり黒子と非常に通ずる部分があると思います。
そしてこれこそが、現代を生き抜くヒントではないかと僕は思っています。
自分の身の丈や器、才能を思い知っても諦めることなく、なお戦い方を見つけていく、これこそが重要なのではないかと。
与えられた条件で何をするのか、どうしたいか、なんでしょうね。結局。
最後に、麻雀漫画『天』より。
『きちんと背負ってこそ前にいけるのだっ……!前へ…前へ…
不遇のまま敗れることもある… それはあるんだ…
そのこと自体は否定しない…! 敗れもあるっ…!
いいとこ一つなく立ち枯れ、朽ちることもある……!
しかし…、それを重々分かった上で、やはり捨てないのだ…
不遇を…、現実を…!
離さないっ…!
貧しさ……、どうにもならない容姿…、才能…
しかし…
それが自分なら……、自分自身というものなら……
しゃあないやろっ…! そこからいけって……!
逃げるなっ…! 夢想に…!』
乱文失礼いたしました。