【あきらめたらおしまいか】
「あきらめたらそこで試合終了だよ」とは、傑作漫画『SLAM DUNK』の登場人物、安西先生の名言である。
「あきらめないこと」のすばらしさを示すひと言として、『SLAM DUNK』でも最も有名なセリフだろう。しかし、「あきらめないこと」はいつも正しいのだろうか。ときには「あきらめること」も必要なのではないか。
もちろん、簡単に投げ出すことが良いとは思わない。過酷な状況でもあきらめないことは大切である。
ただ、それならあきらめなければ必ず結果が出るのかと云えば、そうではない。場合によっては目の前の出来事をあきらめ、先へ進むこともまた重要であるはずだ。
「あきらめたらそこで試合終了だよ」が間違えていると云っているのではない。
ただ、その真意を読み違えると、ひたすら「あきらめないこと」を賛美する一方、「あきらめること」の価値を見失う結果になりかねない。「ひたすらあきらめずに努力しつづければ、必ず結果が出る」という「努力神話」は有害なのである。
元プロアスリートの為末大さんはTwitterで書いている。
努力についての発言はいつも世の中の反応が多いように思う。努力すれば成功できるのかどうか。これはある意味で取引の社会では根幹を成す重要な事で、アメリカで感じたのはあの国はアメリカンドリームがあるのではなく、あると仮定しないと不満が爆発してしまうという事だった。
成功をある程度成功率が高いものにおくのであれば、努力すれば夢は叶うと思う。でも五輪選手になるとか、かなり少ない席の話であれば誰でもできるわけではなくて、才能と、環境がまず重要だと思う。そのスポーツをやる環境に生まれた事が、努力よりも先にくる。
努力には三つある。何を、どうやって、どのくらい。努力を怠らないと言っている人が、どのくらいだけを話している事が多い。自分で選んだ道でもなく気がついたら歩いていた道でただ耐えて積み重ねる事は努力を怠っているともいえる。選ぶ努力は結構辛い。
これらの発言を、ネガティヴなものと受け止めるひともいるかもしれない。いくら努力しても才能には及ばないのだからあきらめろ、と云っているのだと。
そうではない。ただ、努力が必ずしも成功に結びつかないという冷厳な現実を直視するべきだと主張しているに過ぎない。
あるいはそれは過酷な事実かもしれない。「頑張れば何とかなる」という幻想の、なんと甘いことか。
しかし、それは「自己責任」にすべてを帰す思想でもある。すべては本人の努力しだいなのだと考えるなら、成功できなかったひとは努力が足りなかったのだという結論になる。それはそれで、問題含みの考え方なのだ。
じっさいには、成功不成功には、環境や、運や、才能が大きく左右する。即ち、自分ではどうすることもできない状況によって変わってしまう一面があるのである。
良し悪しの問題ではない。現実としてそうなのだ。まずはこのリアルを受け入れなければならない。
「努力は才能を凌駕する」という教えは尊い。場合によってはそうかもしれない。しかし、一定の才能を持って生まれなかった人間は参入することすらできない世界はたしかに存在する。
生得で大方が決まってしまうことは、じっさいにありえるのだ。絶望的な事実だろうか。そうかもしれない。
しかし、その事実から目を背け、「努力すれば夢は叶う」という幻想に逃げ込むなら、待ち受けるものはさらに苦い挫折だろう。現実はご都合主義にはできていない。
それなら、特別な才能に恵まれなかった凡人はすべてを投げ出すよりほかないのか。
そうとは限らない。為末さんの言葉を思い出してみよう。「努力には三つある」とかれは云う。「何を」と「どうやって」と「どのくらい」だ。
一般には「どのくらい」だけが努力の尺度とされるが、じっさいには「何を」と「どうやって」を真剣に考えることが必要である。
そのことはようやく周知されるようになって来ている。これは漫画の世界にも反映されていて、「どのくらい」だけでなく、「どうやって」を重視する作品が増えてきている。
【ポジティヴに絶望する物語】
たとえば、最近、初版100万部突破で勢いがある『黒子のバスケ』だ。この作品は、ある意味、「あきらめること」から始まっている。
主人公である黒子には肉体的な意味でのバスケの才能はない。かれの身体能力は凡人以下なのだ。まして「キセキの世代」と呼ばれる天才たちと比べると、比較にならないレベルでしかない。
ところが、それでもなお、黒子はバスケを続ける。それもひたすらしゃにむに努力を続けるということではない。
自分のウィークポイントとストロングポイントがどこにあるのか、それをはっきりと自覚し、長所をのばしていくことでかれは天才に対向する。
『SLAM DUNK』と比べるとはるかに非現実的な設定の物語ではあるが、とても現代的な思想に貫かれている。自分にどんな才能がどの程度あるのか、冷酷なまでにはっきりと認識し、その上で戦略を組み立てていくこと。
これをぼくは「ポジティヴな絶望」と呼びたい。自分の能力の限界にしっかりと絶望しておくこと。その上で自暴自棄にならず、自分にできる努力を続けていくこと。それがいま必要とされる方法論ではないだろうか。
これは『ベイビーステップ』や『BE BLUES! ~青になれ~』などの現代スポーツ漫画の傑作を読んでいても思うことだ。
『ベビステ』の主人公は高校デビューのハンディを恨まず、嘆かず、自分の肉体能力の範疇で可能な限りの努力を続けるし、『BE BLUES!』の主人公はいちど事故によって歩けない躰にまで落ちながら再起をかけ立ち上がる。
かれらは紛れもなく努力の人ではあるが、その努力はかつての漫画とは質的に違っている。努力の内容を考えることに努力する、いわば「メタ努力」が絡んでいるのだ。そこには強烈な同時代性がある。
為末さんのツイートを受けて、
コメント
コメントを書くいつも楽しく拝読しております。近頃まとめ読みになっているので少し前への記事へレスしますが、ご容赦を。
この、『ポジティヴな絶望』という言葉には非常に共感するものがあります。
僕の大好きな小説である上遠野浩平先生の『ビートのディシプリン』にも似たような部分があります。
『できることと、できないこと――そのできることの中で、さらにできることと、できないことを知っている――知るのを途中で放棄しなかった、その底無しのような追求と研鑽(ディシプリン)の先にあるのが“これ”だった。
自分を知る――たったそれだけのこと。』
主人公ピート・ビートは能力者モノにありがちな未知の能力とか、覚醒や成長の余地であるとかをほとんど一切もたず、自分の能力の使い方であるとか、戦い方であるとか、それのみで強敵と渡り合います。
このあたり黒子と非常に通ずる部分があると思います。
そしてこれこそが、現代を生き抜くヒントではないかと僕は思っています。
自分の身の丈や器、才能を思い知っても諦めることなく、なお戦い方を見つけていく、これこそが重要なのではないかと。
与えられた条件で何をするのか、どうしたいか、なんでしょうね。結局。
最後に、麻雀漫画『天』より。
『きちんと背負ってこそ前にいけるのだっ……!前へ…前へ…
不遇のまま敗れることもある… それはあるんだ…
そのこと自体は否定しない…! 敗れもあるっ…!
いいとこ一つなく立ち枯れ、朽ちることもある……!
しかし…、それを重々分かった上で、やはり捨てないのだ…
不遇を…、現実を…!
離さないっ…!
貧しさ……、どうにもならない容姿…、才能…
しかし…
それが自分なら……、自分自身というものなら……
しゃあないやろっ…! そこからいけって……!
逃げるなっ…! 夢想に…!』
乱文失礼いたしました。