ドワンゴ会長の川上さんとの対談が「4Gamer」に掲載されました。


 「なぜ今,努力しないで成功する物語がはやるのか?」というタイトルですが、じっさいにはもっと色々なことを話しています。良ければご一読ください。なかなか面白い話だと思います。

 さて、それはともかく、ペトロニウスさんが『アナと雪の女王』の記事を書いておられますね。


 異世界転生してアメリカ行って仕事や育児で死ぬほど忙しいはずなのにどうやって記事を更新しているのだろう……。真剣に謎です。時々、LINEで話すとズタボロに疲れ果てている様子なのに……。現実逃避とかいう次元じゃないですね。いやはや。

 まあそれは良いのですが、この記事がぼくが書いたこの映画の記事(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar512060)の反論というか追補になっているので、興味がある方は両方読み比べてみるとおもしろいかもしれません。

 で、さらに余談なのですが、ぼくがペトロニウスさんの記事ばかり引用しているように見えるのは、ぼくの友人でブログを書きつづけているのがほとんどかれ以外にいないからです。

 一時期はぼくの知り合いはほとんどブログを書いている状況だったのですが、時が経ち、ほとんどの人がやめてしまいました。

 その背景にはTwitterやLINEやFacebookの隆盛があるわけなのですが、やっぱり長い文章を日常的に書きつづけるということは、一部の人間しかやらないことなんだなあ、と思いますね。

 ぼくはもう十数年延々と書きつづけてきていて、おそらく分量的には本にして数十冊ぶんくらいは書いています。うーん、よく書いたなあ。自分ながら感心する。まあ、それに何の社会的意義があるかといえば、何もないのだけれど……。

 さて、余談終わり。ペトロニウスさんの記事の内容をぼくなりにまとめると、ポイントは以下の二点になります。

1)論理的に考えていけば、為政者であるアナや大臣が社会を亡びしかねない異能者であるエルサに対して取れる態度は、「彼女を殺すこと」だけである。

2)故に、アナがエルサに対しできることがあるとすれば、論理を超えた次元で「ただ受け入れること」だけであり、アナはその態度を体現している。

 ……ふむ。なるほど。リアリスティックに考えていくと、エルサを救う方法はないという意見には納得です。もしあったら国王夫妻にしろエルサの両親にしろ、あれほど苦しまなかったはずですから。

 少なくともエルサやアナの手が届くところにはそれはない。だから、アナがもしあれほど無邪気な性格でなかったら、物語はもっと暗く絶望的なトーンに染まっていたでしょう。

 映画がシリアスな問題を抱えながらもある程度コミカルに仕上がっているのは、ひとえにアナの性格故だということはできる。そして、そのアナの無償で無邪気な愛こそが、最後には奇跡を起こす――ひとつの映画のマジックとして、納得できる筋書きではあります。

 ぼくが上記の記事を読んで思い出したのは、『ファイブスター物語』のワスチャ・コーダンテでした。

 物語中ではただ「ちゃあ」とだけ呼ばれている彼女は、実は太陽星団最大の国家である天照王朝の気高い血をひく王女です。しかし、特別何の力も持たない「普通の女の子」である彼女は、周囲の人々に責め立てられ、家を捨て国を捨て家出してしまいます。

 ところが、そんなワスチャはやがて天照王朝の最重要人物、天照家第一王位継承権者にまで成り上がっていくのです。ログナーを始めとする全ミラージュ騎士団は彼女の指揮下に入ります。つまり、全星団でも五本指くらいには入る超々巨大権力者です。

 特にひねくれた人間でなくても、「普通の女の子」にそんな権力を与えてしまっていいのか?という問題を考えると思います。で、答えはどうも「かまわない」ということらしいのですね。

 まあ、ワスチャの物語はまだこれからも進んでいくので、どういう話になるのかはわかりませんが、天照王朝の帝王である天照の帝そのひとは「普通の女の子」である彼女の感性にこそ希望を託しているようなのです。

 たとえば、ひとが殺されるのは可哀想だとか、戦争なんてひどいことはないほうがいいとか、そういうあたりまえの感覚をワスチャは持っています。

 そのあたりまえの感覚を持ちつづけることこそが、王朝においては非常に稀有な資質であるという逆説がそこでは成り立っているのです。

 これは、まさにペトロニウスさんが書いているような「論理的に正しいのならひとを殺してもかまわないのか?」という問いに対する答えです。

 『ファイブスター物語』では、「じっさいに殺さなければならない事態は往々にして起こりうる。それが倫理的に悪であっても、必要なものは必要なのだ」ということがくり返し語られています。

 しかし、ここでは同時に「でも、それっておかしいんじゃない?」というちゃあのあたりまえの感覚をも提示されているのです。

 これは非常に微妙なポイントなのですが、王たる者はやはりときに非情にマクロ的な正しさを貫かなければならないものなのだと思います。『アナと雪の女王』でいえば、やはりエルサを殺すという決断は必要なのです。

 そして、それとまったく同時に、「しかし、それでもなお、罪もないエルサが殺されなければならないなんておかしい!」という意見も、健全で常識的な判断として妥当なものなのです。

 このふたつの意見はコンフリクトしていますが、