減速して自由に生きる: ダウンシフターズ (ちくま文庫)

 『減速して生きる ダウンシフターズ』という本を読む。

 人生のギアを下げ、「減速」して生きる人々・ダウンシフターズについて書かれた本だ。

 といっても、インタビュー集のようなものではなく、ほぼ著者の生き方が淡々と綴られているだけである。

 否応なくダウンシフトして生きているぼくは非常に共感するところもあるのだが、一方で著者の主張が素朴すぎるように思えて苛立つところもあった。

 戦争反対、環境優先、無農薬の美味しい野菜を、といった主張のひとつひとつはたしかに正論なのだが、それが全部合わさるとどうにも胡散くさく感じられてしまう。

 あまりにもきれいすぎる理屈であるため、現実を無視しているように感じられてしまうのだ。

 人生のダウンシフトは悪くない考えだと思うが、それを経済とか政治の問題とダイレクトに結びつけてしまうと、どうにも違和を覚えずにはいられなくなる。

 ダウンシフトのほかにも、シンプルライフとか、スローライフとか、ロハスとか、清貧とか、プア充とか、貧乏道とか、「お金を使い過ぎない生活」を称揚した言葉は多い。

 それらは往々にして「物質文明からの解放」や「持続的でない資本主義サイクルからの脱出」をうたっている。

 しかし、ぼくはそこにどうしようもなく欺瞞を感じ取ってしまう。

 それは人間のきれいな一面だけを切り取ってそこだけを称える思想であるように思えてならないのである。

 ダウンシフト、シンプルライフ、プア充、いずれも大いにけっこうだとは思うが、行き過ぎると巨大な欺瞞を抱え込むことになるのではないか。

 昔から思っていた。どうしてひとはこう極端に走るのだろう、と。

 以前、タバコについて記事を書いたことがある。

 どうして愛煙家と嫌煙家はああも不毛な議論を続けるのだろうかという疑問について書いたつもりだった。

 愛煙家は嫌煙家を「禁煙ファシスト」と呼び、嫌煙家は愛煙家を「ニコチン漬けの哀れな病人」と決めつける、その構図にぼくは深刻な疑問があったのである。

 その記事はどうやら愛煙家を擁護するものと受け取られたらしく、その文脈で賛否両論があったが、ぼくがいいたいのはそういうことではなかった。

 ある人が愛煙家でも嫌煙家でもべつにかまわない。それぞれの人にそれぞれの立場があることだろう。

 ただ、それならなぜ、少しでも相手の立場に立って相手寄りの姿勢で考えることができないのか。

 なぜ、これほどまでに相手を軽蔑し、憎悪し、レッテルを貼り、一方的に攻撃しなければならないのか。

 そうぼくは問いたかったのである。

 タバコに限らず、憲法問題でも原発問題でも環境問題でもそうだ。

 それらはそもそも