需要のなさそうな記事シリーズ最新版である。

 さて、この世にはいろいろな主張があり、意見がある。

 そのなかにはほぼだれでも正しさを認めると思えるものもあれば、かなり突拍子もないものもある。

 ここで問題にしたいのは、前者の、大方の人に対してそれなりに説得力があると思われる「正しさ」のことだ。

 たとえば「ひとを差別してはいけない」といった主張は、どこからどう見ても正しいように見える。

 正しさ指数100%で、どんなに拡大していってもどこまでも無条件に正しさが続く。そんな気がする。

 少なくともこの現代社会に生きている人で「人間を差別するべし!」とする人はほとんどいないはずである(そのわりに差別自体はなくならないわけだが)。

 しかし、ほんとうに「差別反対」は純度100%の「どこまでも正しい」主張なのだろうか? ぼくにはそうは思えないのだ。

 「差別反対」が絶対的に正しいとすれば、この世にはいかなる差別もあるべきではないことになる。

 ぼくは人間にそんな社会が構築可能だとは思わない。

 やはりひとには好き嫌いがあるし、どこかで完全に公正ではいられないところもある。

 完璧に差別が撤廃された社会などとてもできるものではないだろう。

 仮にそういう社会が成立したとしても、相当に息苦しい社会であることも考えられる。

 やはり「ひとを差別してはならない」という「正しさ」も程度の問題だと思うわけだ。

 もちろん、だから「差別反対」と唱えることに意味がないことにはならない。

 「差別反対」はおおむねは正しい理屈なのだから、可能な限り大きな声で唱えるべきだろう。

 しかし、それには限界があることをわきまえておくべきではないか。

 それがどこにあるかはひとによって意見が違うところだろうが、「とりあえずあることはどこかにある」、「完全に無条件の正しさではありえない」と考えておくほうが、その逆の考え方をするより、ずっと安全だと思う。

 ほかにもたとえば「戦争をしてはいけない」とか、「子供をしいたげてはいけない」というのも、いかにも「どこまでも正しい」主張であるように見える。

 だが、人類史上すべての戦いはすべて絶対悪そのものであり、また、今後未来永劫すべての戦いは絶対悪でありつづける、となると、「ほんとうにそうか?」と思えて来る。

 また、「子供をしいたげてはいけない」のは当然だが、ほんの少し叱ってみせることも決して赦されないとなったら、害悪のほうが大きくなってくるかもしれない。

 これらのわりあいに「どこまでも正しい」ように思われる主張も結局は程度問題に過ぎない。

 何がいいたいのか。

 ようするに、「どんなに拡張していっても正しいままの正しさというものはないのではないか」、「どんな正しさもどこかに限界を抱えているのではないか」と問いたいのだ。

 「無条件の正しさ」は存在しないということ。

 いわゆる価値相対主義か、と思われる読者もおられるかもしれないが、必ずしもそうではない。

 たとえば、3歳の子供が親に殴り殺されたといった場合、それは99.9%、その親が悪いに決まっている。

 「親に責任があるとも子供に責任があるともいい切れない」などという玉虫色のいい草はいかにも胡散臭い。そんなわけがないだろう、とぼくも思う。

 しかし、だ。