ヴィンランド・サガ(16) (アフタヌーンKC)

 『ヴィンランド・サガ』がここに来て面白い。

 覇王クヌートとの和解を描いた第13巻以降、いまひとつ緊迫感に欠ける展開が続いていたと思うのだけれど、ついに新展開、新天地を目ざすトルフィンたちにさまざまな苦難が襲いかかる。

 そのなかでも主軸となるのは「復讐」の話である。

 かつて殺人鬼としてたくさんの人を殺めてきたトルフィンが復讐者と出逢う。

 正義は彼女にあり、しかし黙って殺されるわけにはいかない。その矛盾した状況での葛藤が興味深い。

 テーマがテーマだけに当然ながら重々しい展開になるのだけれど、それも含めての『ヴィンランド・サガ』である。今後の物語に期待したい。

 それにしても、こういう状況になると、ぼくがどんな物語を求めているのかわかる気がする。

 ぼくは物語に「正しいこと」を求めてはいない。

 大上段にかまえて何かしらの正義を押しつけてほしいと思っているわけではないのだ。

 むしろ、物語そのものが何らかの矛盾に引き裂かれ、身もだえしながらなんとか「答え」を産み落とそうとしているとき、初めてその作品を面白いと感じる気がする。

 初めからわかりきっている「正解」を押し付けてくるだけの物語はつまり「お説教」である。

 それは偉いお説教かもしれないが、上から目線であることを免れない。

 ぼくはそういうものを読んでいて面白いとは思わない。

 つまり、一般論としての「正しいお説教」は退屈なのだ。

 そうではなく、その作者自身が自分の実感として信じている「答え」を見せてほしいと思う。

 それがたとえ、一般論として「間違えている」といわれかねないものであるとしてもである。

 たとえば、異性の描き方などに作家の「偏見」が表れることはよくあることだ。

 あまりに保守的に描きすぎてしまったり、その反対に非現実的なまでに奔放だったり。

 しかし、ぼくはそれでもいいのではないかと思うのだ。

 作者の抱いている偏見が表に出るのは、その作家が自分を隠そうとしていないからである。

 そもそも創作を手がけさえしなければその作家の偏見は一切だれにも知られることもなかったはずなのだ。

 それなのに、あえて自分の偏見を晒して世に問おうという人物は勇気があるとぼくは思う。

 それを無条件に「正しい」読者の立場から非難することは容易である。

 だが、あなたは自分自身が一切の「偏見」に汚れていない、まったくの無謬であるといい切ることができるだろうか。

 そうでないとすれば、その作家に石を投げる前に躊躇を感じてほしいところだ。

 べつだん、