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新旧UWFで活躍してUWFインターでは「頭脳」と呼ばれ、現在は高円寺で「C.A.C.C.スネークピットジャパン」を運営する宮戸優光氏と、日本総合格闘技のレジェンド中井祐樹氏の1万字対談が実現! 競技と文化にまつわる深い話をしていただきました〜!!
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――宮戸さんと中井さんは『プロレス激本』というプロレスムックで対談されています。いまから20年前のことになりますが……。
宮戸 中井先生がここ(『C.A.C.C.スネークピットジャパン』)にいらしたことはおぼえてますけど、何をしゃべったかは忘れちゃいましたねぇ。
中井 ボクはおぼえてますよ。
宮戸 ああ、それは凄いですね(笑)。
中井 でも、いまからするとトンチンカンなことばっか言ってたので、思い起こすと恥ずかしいんですよ(笑)。まだまだ視野が狭かった頃なので。
宮戸 ハハハハハハ。あのときビル・ロビンソン先生がジムにいたことだけはおぼえてるんですよ。
中井 ロビンソン先生、いらっしゃいましたよね。空気を読んでか読まずか「ジャンボ鶴田戦を見ました!」と言って困らせてました(苦笑)。
宮戸 中井先生とはあのときが初めてですよね?
中井 そうですね。でも、ボクからすれば、宮戸先生は「シューティングの先輩」という認識ですよ。あの対談もそういうお話から始まった記憶があって。「タイガージムインストラクターの宮戸先生」として見てましたから。
宮戸 ハハハハハハ。
中井 やっぱりボクはマニア筋の人ですから。雑誌があれば隅から隅まで読んで「インストラクターはどういう人なんだろう?」と。
宮戸 インストラクターとしてお世話になったのは、1984年のことですからね。いまから35年も前のことですよ
中井 対談をさせていただいたときすら、20年前ということですよね。あれはPRIDEができた頃だったので「修斗を東京ドームで見せるためにはどうすればいいか?」ということなんかも考えていて。PRIDEという大きな舞台ができて格闘技自体が揺れ動いたときだったんですよね。修斗も大きな舞台で見せたいという葛藤があって、本当に伝わるのか、競技がビジネスになっていくのか、なろうとしてるのか……という時期でしたね。あれはボクがブラジリアン柔術の指導者をやり始めて間もない頃もあるんです。
宮戸 ブラジリアン柔術に出会ったのは、もっと前のことですよね?
中井 94年夏過ぎですかね。エンセン井上を通して知ったんですが、それもいつか戦うであろうグレイシー対策だったので。洗練された技術体系を持っていたので驚かされましたけど、まさか自分が柔術家になるとはまったく思ってなかったですね。
宮戸 ああ、そうだったんですか。
中井 目をケガしたあとに周囲は「ブラジリアン柔術をやったら」と勧めてくれたんですが、自分としてはあまりその気はなくて。ボクの先輩の朝日(昇)さんがホイラー・グレイシーに負けたときに、やっと踏ん切りがついて柔術に挑戦してみようと。ボクがホイラーぐらい柔術が強くなれば、柔術の技術はあたりまえのようになるし、誰かがグレイシーを倒せるんじゃないか? という単純な発想ですね。
宮戸 あくまでグレイシーを倒す目的だったんですね。
中井 あともうひとつ、これはグレイシーが描いてた形じゃないかもしれないですが、ブラジリアン柔術は誰もができるスポーツだと思ったんです。そういう捉え方をした人は当時は少なかったはずですね。ブラジリアン柔術には失礼な言い方になっちゃいますが、格闘技をやるうえで一般人の入り口にはちょうどいいかもしれないって。
宮戸 それは柔術をやり始めてすぐに感じられたことなんですか?
中井 はい。逆にお聞きしますが、宮戸先生はブラジリアン柔術という存在をどういう風に捉えてたんですか?
宮戸 ボクの人生において、ロビンソン先生と出会ったことと、そして髙田(延彦)さんがヒクソンと戦ったこと、この2つは凄く大きかったんですね。ロビンソン先生と出会ったのは92年のことなんですが、そのときに「あれ? これは俺らが教わったレスリングとは違うな」って驚いたんです。
中井 なるほど。
宮戸 高田さんがヒクソンに負けたことはショックだったんですけども、はたしてロビンソン先生やそれ以前のキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(以下CACC)があった時代においても、同じような結果になったんだろうか? っていう疑問を感じて。アド・サンテルというレスラーは道着を着て、日本の柔道家にそれこそ一度も負けなかったんですよ。
中井 アド・サンテルはルー・テーズさんにも教えたんですよね。
宮戸 はい。そういう先輩がいたということがわかってきた中で、あの当時CACCを教わることができたのはロビンソン先生、ルー・テーズさん、カール・ゴッチさんくらい。イギリスにはビリー・ジョイスという師匠格が生きてはいましたけど、現場の人間ではなかったですからね。
中井 それでロビンソン先生を師事されたんですね。
宮戸 日本の柔道は柔術の部分を捨ててしまったが、日本の裏側のブラジルでブラジリアン柔術として発展を遂げていたわけですよね。CACCも誰かが何とかしないと永遠に見ることができなくなってしまうという中で、このジムを99年に開いたんですね。
中井 ちょうど対談をした頃ですね。
宮戸 ちょっと話が長くなっちゃいましたけど、ブラジリアン柔術はボクらからすれば最初は敵にも見えたものでしたが、彼らによってある意味プロレスというものをあらためて気付かせてくれたというか。あの気づきがなければ、いまのようにCACCを残すような考えは起きなかったかもしれない。ロビンソン先生も「グレイシーが出てきたことはいいことだ」とおっしゃってましたからね。
中井 ボクもその話を聞きました。ロビンソン先生がそう考えていたって凄いですね。
宮戸 それはグレイシーがプロレス界が失ってしまったものを気づかせてくれた。それを取り戻せるんだからいいことじゃないかと。ロビンソン先生は「グレイシーはグッドレスラーだ」くらいの言い方をしてましたからね。
中井 やっぱりロビンソン先生はさすがですね。
宮戸 実際にグレイシーは裸で戦ってましたし、ロビンソン先生は「我々のセオリーに非常に似ている」と。ロビンソン先生からすると、本当のレスリングというものはいわゆる極めっこではないんんですね。レスリングは「フィジカル・チェス」と呼ばれるように、術を使い相手の心を崩していく。「グレイシーの戦い方も同じだ」とロビンソン先生は言うんです。「相手にプレッシャーをかけ、心を仕留めていく。いまの奴らはただ狙って取りにいくだろ? そうじゃない、グレイシーのように戦うべきなんだ」と。
中井 ボクも似てるという認識は持ってました。これはだいぶのあとのことであるんですが、ロビンソン先生の自伝(『高円寺のレスリング・マスター人間風車 ビル・ロビンソン自伝』)を『ゴング格闘技』の推薦図書として挙げたことがあるんですよ。
宮戸 それはありがとうございます(笑)。
中井 昔の練習方法とか「そうだよな」って頷けることがたくさん載っていて。自分も取り入れてることがあって、もの凄く感銘を受けたんですよね。
――以前の対談で宮戸さんは「中井さんはプロレスラーです」と言ってるんですね。
中井 おぼえてます。大変光栄でしたね(ニッコリ)。
宮戸 ロビンソン先生がグレイシーをプロレスラーと言ったのと同じですね(笑)。
中井 なんて言うんでしょうか。「ちゃんとしたものを見せている」というプライドがボクの中にあったのは事実です。ちゃんとした格闘技の技術を見せている。そういう意味では「レスリングのプロである」という気持ちがあったのはたしかです。だから、そう言われたのはその当時は凄くありがたかったですね。
宮戸 いやいや、とんでもないですよ(笑)。
中井 宮戸先生がロビンソン先生の技術に驚かれるのは当然かもしれませんが、いままでとは何が違ったんですか?
宮戸 ボクがいままで教わってきたのは、極端にいうと力でねじ伏せるようなレスリングだったんですよ。ところがロビンソン先生と組んでみると、フワフワしていて力が入っていない。例えるならアヤトリを解く、知恵の輪を外すような感じだったんです。「これが本物のレスリングなのか!」とショックだったんですね。
中井 その当時のロビンソン先生って50代ですよね?
宮戸 53歳ですね。いまのボクは54歳ですからね(笑)。ロビンソン先生の凄さがわかりますよ。
中井 宮戸先生はそれまでにもいろいろな方との出会いはありましたよね?
宮戸 それまでボクはそれなりに長くやっていましたけど、いま振り返ると当時先輩はいたけど、先生と呼べる存在はいなかったと思うんですよ。ロビンソン先生に出会うまでも、CACCを含んだスタイルの中にいたわけですが、それはあくまでCACCの一部含んだもので。
中井 これ、答えにくかったらいいんですけど、ゴッチさんでは気づかなかったんですか?
宮戸 あー、なるほど。まずゴッチさんはもの凄く力が強いじゃないですか、骨太というか。ロビンソン先生も力は強いんですけど。
中井 ゴッチさんとはタイプが違ったということですか?
宮戸 はい、タイプが違いましたね。まったく違います。ボクの先輩方にはゴッチさんのお弟子さんが多いじゃないですか。だからどうしてもゴッチさんタイプというか、そういう先輩方が多かったですね。
中井 それに直に教わったとしてもすべてがそのまま伝わるというわけではないですよね。やっぱり指導するほうも、されるほうも自分のかたちができますから。
宮戸 おっしゃるとおりですね。
中井 そこが教える立場の一番難しいところで、1から10まで教えていたつもりでも、やっぱり変わって伝わるところはあります。先ほどの質問は、ゴッチさんよりロビンソン先生のほうが凄かったという結論に誘導したいんじゃなくて、伝わり方は違っていて、日本にはロビンソン先生のやり方が伝わってなかったんだろうなということですよね。
宮戸 どちらが優れているかではなくて、日本ではゴッチさん的スタイルが伝わったということですね。だってそれはもう猪木さんの師匠がゴッチさんじゃないですか。日本の中では「神様」ですから、絶対的なものとして伝わることになりますよね。
中井 それにロビンソン先生はボクが子供のときは「全日本プロレスの人」というイメージが強かったんですね。どうしてもキャッチのイメージでは見れなかったんですよ。
宮戸 そういう背景もあったんでしょうね。ゴッチさんとロビンソン先生は、じつは仲が良かったと思うんですよ。晩年はちょっとケンカ別れみたいなことになってましたけど、お互いに意識し合った仲じゃないかなと。なぜかといえば、ロビンソン先生は猪木さんとの試合を振り返って「CACCでやった」と。
中井 おお、そうなんですか。
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